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RAN下書き 信長

酒はあまり飲めず宣教師が贈った金平糖をとても気に入った

宣教師、ルイス・フロイスと謁見した際、フラスコに入れられた金平糖を受け取り、とても喜び、以降、お気に入りとなっていた事でも知られています。周辺の人のさまざまな証言によると、信長は酒を飲まず、部下にも酒を薦める事はなかったそうなので、意外と甘党だったようにも思えます。



今日は何の日?徒然日記

その日の出来事や記念日、歴史ウラ話を楽しくわかりやすく紹介する歴史ブログです

2007年9月12日 (水)



信長の比叡山焼き討ちは無かった?

元亀二年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山・延暦寺を焼き討ちしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらも先日の『川中島の合戦』と同様、ブログをはじめての最初の9月12日という事で、昨年はごく一般的に知られている「織田信長による比叡山焼き討ち」のお話を紹介させていただきました(昨年の記事を見る>>)。

しかし、教科書にも載っている有名なこのお話も、例のごとく諸説あり、信長さんの言い分あり・・・という事で、今日は別の視点から書かせていただきます。

・・・と、その前に、『比叡山の七不思議』の一つ、『なすび婆(ばばあ)』のお話はご存知でしょうか?

今は石碑のみが残る、かつて東塔にあった南光坊というお堂・・・。

ここには、昔、なすび色の顔をした老婆の幽霊が住みついていたのだそうです。

その老婆は、平安の昔、宮中に仕えた官女でしたが、誤って殺人の罪を犯してしまいます。

それがもとで、死んでからは地獄に落とされてしまいましたが、彼女は生前から自分の犯した罪を悔いており、信仰も厚かった事から、救われて、その身は地獄にあっても、心は比叡山に住む事を許されたのだそうです。

その「なすび婆」が、信長の比叡山焼き討ちの時、大講堂手前にある鐘楼の大鐘を乱打し、急を伝えたと言います。

なすび色の顔をした婆さんが、必死の形相で鐘を乱打・・・怖いか?

いや、怖いゾ・・・なすび色の婆さんの必死の形相を想像しただけで、ある意味怖い・・・怖すぎる光景だ・・・。

さすがに七不思議だけの事はあります。
(比叡山七不思議については、HPの【平安京魔界MAP】で紹介しています。「なすび婆」に関しては、内容かぶってますが、他の六つも紹介していますのでよろしければコチラからどうぞ>>>)

しかし、今現在、平成の世の中で、この話を聞いて「へぇ~そんな事があったんだぁ」と、丸々信じ込んでしまう人がいるでしょうか?

おそらく、誰もが、伝説は伝説、史実は史実、とわけて考えるはずです。

信長さんに関する資料として代表的なのは、やはり『信長公記』。

これは、信長に仕えた太田牛一という人が「私作・私語にあらず」と明言して書き残した事もあり、「おそらく史実であろう」と考えられています。

そこには、『・・・雲霞の如く焼き払い・・・目も当てられぬ有様なり、数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなる。』と、比叡山焼き討ちの様子が書かれています。

確かに、著者である太田牛一さんは、わざと創作はしなかったかも知れませんが、かと言って事実であると断定するわけにはいきません。

ポイントは、彼が本当にその目でその光景を見たのかどうか?という事です。

たとえば、『信長公記』には、信長さんの最期である本能寺の変(6月2日参照>>)の事も書かれていますが、その日、彼は本能寺には宿泊していませんから、実際に見たわけではありません・・・にも、関わらず、かなりリアルに、かなり詳細に書かれています。

おそらく、誰かから聞いた話と、主君に対する思いが相まっているのでしょうが、実際には、光秀側で参戦した人物の書いた記録とはかなり異なっています。

それは、比叡山焼き討ちの記述に関しても当てはまる事だと思います。

もう一つ、イエズス会士・ジマン・クラッセという人が書いた『日本西教史』。

これには、『・・・ことごとく僧徒を殺戮し、・・・寺院を焼き、猛獣があさるように兵を洞窟まで入れ、逃げ隠れする者を捜し出し、ことごとくこれを焼き殺した。』とありますが、彼も、実際にその目で見たわけではないでしょう。

彼は、同じ『日本西教史』の中で、あの豊臣秀頼について、大坂夏の陣(5月8日参照>>)の後、死体が見つからなかった事に触れ、「妻子を連れて逃亡し、傘下の大名のもとにいる」と書いていますが、これは明らかに、当時の町の噂をそのまま書いています。

つまり、比叡山の焼き討ちに関しても、町の噂をそのまま書いているかも知れないという事なのです。

現在、教科書をはじめ、信長の比叡山焼き討ちに関しての出来事は、「なすび婆」ほどでは無いにしろ、事実とは異なるかも知れないと疑ってみるのも良いかも知れません。

一方、焼き討ちが行われる前年、英俊という僧が、比叡山を訪れた時の感想を日記に書いているのですが・・・(こちらは実際に見た感想です)

堂坊が荒れ放題になっていて、わずかに根本中堂の灯明が2~3個点っているだけの状況を目の当たりにして、「僧はほとんど山を下りて、坂本あたりで女と遊び、高利貸しをして贅沢三昧し、学業をおろそかにしているから、こんな事になるんだ」と嘆いています。

この状況が本当だとしたら、もはや、焼き払うに値する堂坊も無く、追い詰めて焼き殺す善男善女もいない事になってしまいます。

さらに、近年行われた滋賀県教育委員会の発掘調査で、大きな火事があったら、当然残っていなくてはいけない焦土の跡や、人骨などがまったく見当たらなく、出土した品も平安の頃の物ばかりだった事から、信長の時代に、「全山が猛火に包まれ3千人が虐殺された」というような事は、地質調査の限りで言えば、考えられない事である事も判明しました。

ただし、信長が比叡山を攻撃したというのは確かでしょう。

それは、浅井・朝倉の落ち武者をかくまい、内通する延暦寺は、信長にとって軍事的に敵であったからです。

しかし、伝えられるような大規模な物ではなく、少しばかりの堂坊を焼いただけの物だった・・・というのがホントのところではないでしょうか?

では、なぜ?そのような「大規模な焼き討ち」と書物に記録されるようになったのでしょうか?

上記の彼らが、自ら創作したのでないのなら、少なくとも「町の噂」となっていたわけですから・・・。

そう、その通り、この信長の比叡山焼き討ちは、「町の噂」になっていたのです。

おそらく、噂を流したのは、延暦寺の僧たちです。

彼らは、信長を「仏敵」と言いふらし、同情を買い、世間を延暦寺の味方につけようとしたのではないでしょうか?

そこに、「アノ人ならやりかねない」という信長さんのキャラクターが、いっそう真実味を帯びて、あたかも事実のように伝わって行く・・・。

戦国時代と言えば、まだまだ、神仏への思いが根強かった頃・・・一般庶民にとっては、まさに信長さんが「魔王」に見えたに違いありません。

しかし、信長は「神仏をも恐れぬ魔王」などではなく、ただ、目の前の敵に向かって攻撃を仕掛けた・・・いやいや、最初に武装して、浅井・朝倉と組んで、信長を敵にまわしたのは、延暦寺のほうでしょう。

そこには、「天罰が怖くて、何も手出しはできないだろう」という油断があったに違いありません。

事実、それまでの武将は、誰も延暦寺には手を出せませんでした。

そういう意味では、彼ら僧兵にとって、信長さんは「魔王」・・・仏を傘に着た武装集団に、それまでの常識を打ち破って、宗教と軍事とは別物であると知らしめた先駆者であったわけですから・・・。
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RAN下書き GHQ焚書

しばやんの日々
2012年02月18日(土)


GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。
今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。

アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQの検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり調査して、日本の歴史がいかにGHQによって歪められたかを紹介した本がある。



『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』(勝岡寛次著:明成社)という本がこれから紹介する本なのだが、プランゲ文庫を引用する場合は検閲官が当初の論文のどの部分を削除したかがわかるようにして近世以降の日本史を纏めておられる。この本と他の本を対比すると、占領軍がどんな歴史を日本人の頭に叩き込みたかったが誰でもおおよそ見当がつく。



私もこの本を読むまでは、スペインは中南米でインディオを大量に虐殺してひどいことをしたが、イギリスやアメリカは比較的うまく植民地を統治したと思っていた。しかし、実態はイギリスもアメリカもスペインと似たり寄ったりである。
わが国に近いアジアの歴史を調べてみると、インドや中国で起こったこともかなり悲惨な状態であったのだが、そのことを戦後のわが国にどれだけ知らされているのだろうか。



勝岡氏はこう書いている。
「西欧の植民地化により、最も悲惨な状態に貶められたアジアの国はどこだろうか。それはインドである。『かって世界最富の国であった印度で人々は今日骨と皮のみの生活を送っている』という悲痛な叫びに始まる、インド独立の志士ラス・ビハリ・ボースの書『インドは叫ぶ』を一読すれば、このことがはっきりわかる。
 インドはイギリスの統治下に入るや、それまでに経験したことのないような大飢饉に見舞われる。1770年のベンガル大飢饉が最初であった。この時の死者1千万人。次いで19世紀前半に死者140万人、19世紀後半には死者2千万人、20世紀初頭には1千万人がやはり大飢饉によって死亡する。而してこれがイギリスのインド植民地統治に由来するものであることは、イギリス人自身が認めることであった。
 …
 『英国侵入前の方がインド人は富み栄えていたのである。1750年頃までインドの村落には必ず学校があり、人口の6割は読み書きができたのである。然るに今日9割すなわち3億2千万が文盲であって、過去150年間読み書きなしえたものの総数は2260万にすぎない。かかる英国が果たしてインドを統治するに適するであろうか。(チャールス・ラッセル)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.92-93)

一方、市販されている高校用の教科書『もう一度読む山川世界史』では、1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がベンガル地方政権とフランスの連合軍に勝利して、インド侵略の足場を固めた。当時はムガル帝国の衰退期で、イギリスは内陸部に容易に進出できたことに続けてこう書いている。

「イギリスの支配は、インド社会を大きく変えた。安い機械織り綿布の輸入によってインドの古くからの木綿工業は大打撃をうけ、また綿花・藍・アヘン・ジュートなどの輸出用作物の栽培、商品経済の浸透、あたらしい地税制度の採用などにより、伝統的な村落社会が崩れた。一方、植民地支配を行うため資源開発や交通網・通信網の整備がなされ、イギリス流の司法・教育制度が導入された。思想面では、カースト制の否定や女性地位改善などのヒンドゥー教近代化運動がおこった。」(『もう一度読む山川世界史』p.187-188)

ラス・ビハリ・ボースや英国人チャールス・ラッセルの文章と同じ時代のことを書いているにもかかわらず、あまりにもギャップがあると誰しも思う事だろう。
次の勝岡氏の記述を読めば、おおよその背景を理解することができる。

「…(プラッシーの戦いで)インド全域における覇権を確立した。しかし、イギリスにとって、インドとの貿易は当初は割の合わぬものであった。インド産綿織物に対するイギリス国内需要は着実に増大しつつあったのに対し、イギリス産の毛織物はインド国内や支那ではさっぱり不評で捌けなかった。支那産の茶もイギリス人の日常必需品に成長し、需要は激増したが見返りの商品をイギリス側は欠いていた。この結果、大量の銀がイギリスから支那へと流出し、イギリス側を慌てさせたのである。
 だが、この問題はこうして解決された。東インド会社は1765年にベンガル地方の徴税権を獲得し、それまで3割であった地租を、6割から8割にも引き上げ、茶の購入資金に流用したのである。…
イギリス東インド会社は、こうして単なる貿易会社からインド人を搾取する権力機構へと、その性格を一変させた。だが、これではインド人は食べていけるわけがない。餓死者1千万人を出したインド史上初のベンガル大飢饉(1770)はこうして発生したのである。」(『抹殺された大東亜戦争』 p.94-95)

『もう一度読む山川世界史』の記述では、誰もイギリスが酷いことをしたようには読めず、むしろ高度な文明をインドに齎したかのような印象を受ける。
山川世界史の「あたらしい地税制度の採用」などという記述を読んで、地租が倍以上に跳ね上がった事実を想像する人は皆無だと思うし、また「イギリス流の教育制度が導入され」たという記述で、文字が読める人口の比率が6割から1割に激減した事実を、誰が読み取れようか。「イギリス流の教育制度」といっても、大多数のインド人は文盲のままで放置されていたのだ。これではインド人は、ほとんど奴隷のようなものではなかったか。今の教科書に書かれていることは綺麗ごとばかりで、これでは本当に何があったかが見えて来ない。

防衛省OBの太田述正氏のブログを読むと、イギリス統治下になってからインドが凋落したことが、数字の変化を読むことでよく理解できる。
http://blog.ohtan.net/archives/51006404.html
http://blog.ohtan.net/archives/51007300.html

「1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した」
「1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバードについて、『この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ』と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。」
「東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。」とある。

ベンガル大飢饉の死者の数が随分違うのが気になるが太田氏は公式発表の数字を用いたのだろう。いずれにしても、インドにおいてはイギリスの植民地となってからはイギリスに富を奪われているだけで、まるで歴史が逆行しているかのようだ。

ここまででも随分ひどい話なのだが、東インド会社は更にひどいことを始めるに至る。
インドで強制栽培させた大量のアヘンを銀塊の代わりにインドから中国に運ぶことを思いつき、18世紀末にはたちまちのうちにアヘンが中国全土に広まり、夥しい数のアヘン中毒患者を生み出した。



清は1757年以降貿易を広東港一港に絞るなどの制限を加えたが効果なく1839年に林則徐を広東に派遣して密輸アヘンを没収し処分させた。林則徐はアヘンを清国に持ち込まない旨の誓約書を提出しないイギリスとの貿易を拒否したため、イギリスは海軍を派遣しアヘン戦争が勃発する 。
戦争はイギリスの勝利に終わり、清は1842年の南京条約によって香港を割譲、上海・寧波・福州・厦門・広東の5港開港を余儀なくされてしまう。

勝岡氏は前掲書で、GHQにより抹消された阿片戦争に関する次の論文の記述を紹介している。この論文は『国際法外交雑誌』昭和21年5月号に掲載予定であった植田捷雄『南京条約の研究』のゲラ原稿の一部だが、紹介箇所は検閲官により全文抹消されている。



「併し、本来アヘン貿易の杜絶を恐れるの餘り英国が支那に挑んで戦いを開いたのが阿片戦争であることは既に論決した通りである…。唯、流石の英国も阿片といふ有害物を支那に強要するために開いた戦争であるとは公然に主張し得なかったと見え、パーマストーンは清国宰相に宛てた書簡に於いて林則徐の処置を以て『国際法に違背し、英国官吏が当然に受くべき尊敬を無視した』不法監禁なりとし、(中略)英国政府は焼棄せられたる英国商人の阿片に対する賠償を支那政府より要求するなりとしている。併し、林の処置が支那の禁令を破って密輸入された阿片の提供を要求し、英国商人がこれに従わざりしためその反省を促す目的を以て行なわれた監禁であることも既に述べたところである。…。故にこれを以て不法監禁なりとなすことはあたらない。(中略)」(『抹殺された大東亜戦争』 p.96)

またこの論文のゲラ原稿で、南京条約による香港の領有に関する記述についても、全文抹消されている。

「英国人は常に英国がかかる香港の領有によって支那に於ける領土侵略の先鞭を着けたといはれることを嫌ひ、彼らはこれに対する反駁の語として必ず英国の終始変わらざる政策は香港を通じて通商上の利益を擁護し発展せしむるに在りといふのである。…併し、これ等の言は…必ずしも香港領有の真相を語れるものとは考へられない。…。ボッチンヂャーは本国の命令を堅持して勇敢に武力弾圧の政策を行ひ遂に南京条約を通じて香港を明白成る海軍根拠地たらしめ、施政の方針は完全なる植民地を目標とするものとなった。南京条約後、香港が正式に皇領植民地に編入せられたのは即ちこれがためである。」(同上p.96-97)



こんな論文がGHQの検閲により抹消されているのだが、その理由は「英国批判(critical of Britain)」と記されているのだそうだ。
書かれていることが史実であっても、こんなレベルの表現までが日本人に読ませないために検閲で抹消の対象とされていたことを知るべきだと思う。
前回の記事に紹介したが、GHQの検閲基準は次のURLに書かれている。この基準を読めば、当時のわが国においては戦勝国に対する批判が不可能だったことが誰でもわかる。
http://www.tanken.com/kenetu.html

果たして真の文明はキリスト教を奉じる国にあったのか、それともその武力の前に支配されたアジアの国にあったのかという問いは、今なお検討に値する問題であるのだが、シカゴにおける万国宗教大会席上でインド代表が述べた演説の邦訳を『理想日本』という雑誌(昭和22年6月)に掲載予定のゲラ原稿も、GHQが全文削除している。

「諸君は我々の国に宣教師を送り来り、諸君の宗教を傳へる。我々は諸君の宗教の価値を否定する者ではない。然しながら、最近二世紀の間諸君が為す所を見るに、それは、諸君の信仰が要求する所のものと、明らかに反してゐる。諸君の実際行動を指導するものは、諸君の信仰する神の遺誡たる正義と愛の精神ではなくて、貪婪と暴力の精神である。斯くして我々は、次の判断を下すことを余儀なくされる。即ち、或は諸君の宗教は、その内面的優秀性にも拘らず、実現できないものであり、…或は諸君が余りに劣悪であるがため、実行し得ること又実行せねばならないことを実行しないのか、二者其一(ふたつにひとつ)である。何れの場合に於いても、諸君は我々と比べて、何らの優越を持たない。」

インドがイギリスから独立したのは、1947年の8月だ。まだイギリスの植民地であったインドの代表が公の場でこのような演説をしたことに驚くのだが、これはインド人にとっては宗主国のイギリスの方が野蛮国であったと発言しているようなものだ。



GHQによる事前検閲は昭和20年(1945)9月からはじまり、ピークは8000人の検閲官が存在して、新聞や雑誌からこれから出版される本や論文の原稿、私信に至るまでを徹底的に検閲し、プレスコードにかかる記述を削除させていた。
事前検閲は昭和23年(1948)7月までに廃止され事後検閲となり、事後検閲に関しても新聞、ラジオの昭和24年(1949)10月をもって廃止されたことになっている。

昭和22年(1947)5月3日に公布された日本国憲法第21条には
「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
とあるのだが、検閲制度が廃止されるまでの2年半はGHQは堂々と憲法を破り、検閲者も憲法違反の仕事にともに従事していたことになる。

しかし検閲が廃止されたからと言っても、わが国の言論が自由になったわけでもなさそうだ。歴史的事実でありながら日本人に知らされないことが今も多すぎはしないか。
検閲制度は実態的にはその後も続き、今も外国勢力などによって維持されているのではないだろうかと思うことがよくある。
次のURLで、大手マスコミで報道されない事件などのリストがでているが、このリストを見てなぜこういうことが今も続くのかを是非考えて頂きたいと思う。GHQの検閲基準は検閲者がいなくなった今も、外圧を避けるための組織内の自己検閲やスポンサーなどの圧力によって実質的には部分的に機能しているのではないか。
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/975894.html



次のURLで、自らが検閲官であったことを自著『鎮魂の花火輝け隅田川』『ああ青春』で公表した横山陽子さんの対談(『諸君』平成16年1月号)が読めるが、彼女の父が現金で500円しか現金で給料がもらえなかった時代に18歳の時の横山さんの最初の月給が450円で、上級になったときは家族が養えるくらいの3000円をもらい、昭和23年に結婚して仕事を辞めるころには8000円も貰っていたし、辞めてからも差額を3か月頂いたというのは驚きだ。
ちなみに、横山さんが通った日本女子大の授業料は昭和21年で年間300円、その後インフレで3000円になったというのだが、それでも検閲官の待遇が良かったかがよくわかる。
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html

他に、英文学者の甲斐弦氏が書いた『GHQ検閲官』という本がある。この本もご自身の検閲官の体験を綴ったもので、日本軍の行動を賛美したものも非難したものもいけない、マッカーサーを賛美したものも罵ったものもいけない、占領軍を歓迎したものも批判したものもいけないというように、そのような話題を書くこと自体が手紙などの検閲の対象とされていたというのだ。

ところでピークは8000人いたという検閲官のメンバーはどのような人物で、その後はどのような職業に就いたのであろうか。残念ながら過去検閲に携わったことを公表した方は上記2名のほかには数えるほどしか存在しないようである。
外国籍の日系人が検閲官にかなりいたことがわかっているが、日本人も相当数がいて、そのなかにはマスコミや教育界や官僚の重要なポストに就き、あるいは政治家となって、わが国の国益に反する活動をし続けてきたのではないだろうか。あるいは、単純に外国やスポンサーの言いなりになっているという事なのだろうか。
ひょっとすると、GHQが国内要因と外圧要因の両方を残して、その後も検閲が実質的に継続される仕組みを作っておいたのかもしれないが、そうでも考えないと今日のマスコミの偏向報道や教科書や教育等の偏向傾向を説明し難いと思うのだ。

せめて、他国では常識となっているレベルの知識は国民にしっかり伝え、広めていかなければ、今後わが国から世界レベルで活躍する政治家やジャーナリストが出てくるとはとても思えない。

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RAN下書き 日本軍最強伝説

およよと驚く毎日
最近になって、この世の中が陰謀に満ち溢れていることに気付いた男性です。毎日が驚きの繰り返しです。

日本帝国軍人最強コピペ
 
日本帝国軍人最強コピペ。
こういうのがあるのね。(笑)

日本帝国軍人最強コピペができたのよねw  
(作者不詳)


兵士1人が日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る予備の日本刀を持ち、

銃剣と単発銃のみで80万人以上殺すなど、原爆以上の破壊力を持つ携行兵器を誇り

各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて

中国で320万人もの現地労働者を動員し、そのうち100万人が死に、機密保持の為に1万人を
生き埋めにするほどの労働条件でも反乱を起こさせないほどの統率能力を使って、
国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞および1700kmもの地下要塞を作り、

さらにこの超巨大要塞を60年間に渡って秘匿しつづける程、情報管理が徹底していて

沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が出せるほど命令系統がしっかりしていて

何百万人を殺しておきながら、戦後半世紀以上も、殺害時期、殺害方法、日本兵の心理状況などこと細かな内容迄隠し通す機密保持の高さを誇り

当時オランダ領だったインドネシアにも開戦前から日本軍用の慰安婦を送り込むほど先見性があり

揚子江の川幅を2m以下にしたりするほどの高い土木技術を持ち

人口20万人の南京市で30万人を虐殺し、かつその死体を1台のトラックで2週間で片付けられるほどの行動力があり

日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人も暴行するほど体力と食料が有り余っていて

AVが無かった時代にも関わらず慰安婦に顔射するほど独創性に富み

韓国で文化施設はもちろん一般家庭にある辞書から料理本に至るまで処分してまわるほど暇で

保護するために植民地ではなく「併合」したにも関わらず、韓国の運気を捻じ曲げるために、山の頂上に鉄杭やら真鍮杭を埋め込むほど風水に明るく

人間の脂肪から、航空燃料を作れるほど錬金術に長け

写真の影さえ消せる位の隠密行動に長け、銃殺しても血が流れない銃を開発し

韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て接収することなく破壊し尽くした上、新たに日本のダメな建築物に建て替えるほど資材と資財と人材が有り余っていて

当時の朝鮮の人口のおよそ半数近くを日本へピストン輸送するほど燃料と船舶が豊富で

960万平方kmもの大地をもつ中国の3分の2を支配し

家々に火を放ちまくり6年間で1万7000以上の村を焼き払うほどの行動力があり

250種類もの殺人方法を思いつくほどに残虐で

無駄に虐殺した5000万人もの民間人の死体を一カ所に集めてたっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり

中国の近代化を50年も遅らせるほどの徹底的な破壊を行い

わずか70万人の関東軍で戦闘の合間に20万人もの中国人慰安婦を満足させるほど絶倫で

広く険しい中国大陸を大軍勢で移動していたにも関わらず、各地区の兵士や民間人が逃げる暇も無い程のスピードで動き回るなど金メダル級の運動能力を誇り

山東省で広島+長崎の核2発分の犠牲者数を超える42万人を殺戮するほどの細菌兵器を保有し

田舎から都市部まで全ての街道を余す所無く隅々まで破壊し尽くし、さらに人気の無い山の奥深くでさえ草一本残さず毟り取る程の根気と几帳面さを兼ね揃え

11歳が戦場で暴れ回るほど若い内から逞しく、14歳で731部隊に採用されるほど医学を習得し

15歳の少年に細菌戦部隊での軍務が務まるほどの教育水準を持っていて

さらに細菌兵器開発のため20万人を生体実験出来るほど医療設備が充実しており

1941年の大東亜戦争開戦時にダム一つ作るために延べ360万人を動員し9年間に83名もの犠牲者を出し

圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく

中国での最初の慰安所「大一サロン」にはハイテクエアコンを完備させ

中国呼倫貝爾市の地下に60年も見つからない、広さが東京ドーム2.5個分の毒ガス実験室を作れるほどの優れた土木技術と豊富な資源、人材を保有し

それが建設後60年間誰一人として発見できないような隠蔽を行えるほどの科学技術を誇り

半世紀以上放置されても使用出来る毒ガスを作れるほどの科学力を誇り

金の掛かる化学兵器砲弾を200万発も生産して中国全土に埋め

終戦間際の補給線が断たれた時期にマニラで一日3000人を殺害する継戦能力を保持し続け

朝鮮人を殺しまくりながら人口を2倍にし、その上でもともと無い記憶を奪えるという摩訶不思議な技術を持ち
終戦後になぜか意味の無い強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕があり

敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすようコントロールするほど政治力と外交能力に長ける

そんな大日本帝国が敗戦したことは、人類史上最大のミステリー。



そもそも本当の意味での大虐殺は、自国政府でないとなかなかできないもの。
敵国がやるには、物資等に限界があるからです。

不謹慎ではあるが、東京を焼け野原にしても10万人しか殺せない。
東京大空襲です。
当時の東京の人口は、300万人ほどだったと聞きますが。

広島の原爆もそう。
35万人のうちの16万人ぐらいしか殺せない。
うち、即死はその半分ほどだそう。
残りの死者は、投下後4か月間の数字。

せいぜい、この程度なんです。
だから、20万人くらいの小さな都市でも、それを全滅させるのは、相当困難というかほとんど不可能。
いまなら、水爆でできるでしょうが。

まぁ中国の主張では、南京では30万人殺されたことになっています。
でも20万人しか住んでいなかったんですね。(笑)

 

RAN 下書き 日本人奴隷

しばやんの日々


2011年01月30日(日)


400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと

ブラジルサンパウロ州サンパウロ市で発行されている、日系人や駐在員向けの日本語の新聞で「ニッケイ新聞」という新聞がある。この新聞はネットでも読む事が出来るが、その新聞に2年前に連載された記事を見つけたときに衝撃を受けた。

その記事とは、フランシスコザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた時期から1600年頃までの約50年間に大量の日本人が南米に渡っている記録がいくつか残されているという話なのだが、それも主体的に日本人が海を渡ったというのではなく、むしろポルトガル人によって連れて行かれたと言うべきで、もっと端的に言うと、日本人が奴隷として売られていったということである。

このニッケイ新聞の記事を読むと、「アルゼンチン日本人移民史」(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)という本の中に、アルゼンチンの古都コルドバ市の歴史古文書館で日本人奴隷を売買した公正証書が発見されたことが書かれているそうだ。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/090409-61colonia.html

上記のURLの記事には、
「1596年7月6日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている。
 その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」(同移民史十八頁)とある。残念ながら、日本名は記されていない。」
と、書かれている。

この青年は裁判で勝訴し二年後に自由の身分となるのだが、ほかにも1965年に大学生の研究グループが、同古文書館から奴隷売買証書を発見し、コルドバ大学から「1588年から1610年代迄のコルドバにおける奴隷売買の状態」(カルロス・アサドゥリアン著)という書物にまとめられて出版されているそうだ。

ブラジルについては奴隷に関する一切の公文書が1890年に焼却されたので検証できないが、ペルーにも1614年に行われたリマ市人口調査に20人の日本人がいたことが確認できるそうだ。



<ブーランジェ 『奴隷市場』>

日本人奴隷については、わが国では新聞や雑誌などで語られることはほとんどないが、戦前には西洋の世界侵略の実態については様々な研究があり多くの書籍があったようである。しかし昭和21年~23年にかけてGHQによって市中に出回っていたその種の書籍がほとんど焚書扱いとされ本屋の書棚から消え、今ではわが国で西洋の侵略や奴隷制をわが国で語ること自体がタブーのようになってしまった。
わずかに、戦後活字となった研究書はいくつか存在するがマスコミが取り上げる事はなく、中南米の日系社会のメディアがこういう話を伝えているだけというのは淋しいかぎりである。

つぎのような記述を読めば、日本人の多くは絶句してしまうだろう。日本人にはなぜこのような歴史が知らされないのだろうか。

【以下引用】
日本人奴隷に関し、…(中隅哲郎さんは)…『ブラジル学入門』の中で、「日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」(百六十四頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から次の引用を紹介している。

 「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数より日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」

 中隅さんは書き進め、「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。

 

 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、p158~160)には、次のような記述もある。

「1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
【引用終わり】
http://www.nikkeyshimbun.com.br/090410-62colonia.html

Wikipediaによるとザビエルが日本を去ってからの話であるが、イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えて、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を要請したそうだ。
そして1571年に国王セバスティアン1世から、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功したのだが、それでもポルトガル人による奴隷貿易はなくならなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

そのために、天正10年(1582)の遣欧少年使節で4人の少年がローマ教皇のもとに派遣された際に、4人は各地で日本人奴隷と遭遇するにいたった。調べると、4人のうち有馬晴信の従兄弟にあたる千々岩ミゲルは後にキリスト教を捨てているが、旅先で奴隷を見たことの影響が少しはありそうだ。

ちなみにこの4人の会話は「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著/雄松堂書店)にでているが、この会話の部分の翻訳文を次のURLで読む事が出来る。千々岩ミゲルの発言に注目したい。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060313#p2

最初に紹介したニッケイ新聞の記事には日本人奴隷に関する多くの書物が紹介され、引用されている内容は興味深いものばかり


である。その当時奴隷として売られたのは黒人をはじめ中国人、韓国人、日本人、インド人、ジャワ人など様々であったこともわかる。

では、結局どの程度の日本人が奴隷として売られたのだろうか。鬼塚英昭氏は「天皇のロザリオ」という本の中で50万人と言う説を立てているそうだが、このレベルの数字は当時の日本の人口が1200万人程度だから、あまりにも多すぎる。いろんな人がいろんな説を立てているが、数千人から数万人の間というのが常識的な数字だと思う。

こういう暗い話は知る必要がないと考える人もいると思うが、こういう史実を知らずして、なぜキリスト教が禁止され、なぜキリスト教信者が弾圧されたかを正しく理解できるとは思えないのだ。

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