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RAN 第1章

RAN 第1章

「歴史とは虹のようなものである」~オーウェン・バーフィールド~

夕焼けの中を、二人歩いていた。
歩道に伸びた二つの長い人影は、時に離れ、時に重なり合い、まるで楽しく語らいあっているかのようだった。だが、校門を出てから、否、同じタイミングで教室を出てから、ずっと二人は無言のままだった。
駅に近づいたときだった。不意に、家々やビルの間から空が大きく開いた。その時、長い黒髪の井上蘭太郎の全身を、赤みがかった初秋の日の光りが輝くように包んだ。
授業中眠っている蘭太郎、美しい着物を身にまとい舞台で踊る蘭太郎、面をつけ、誰よりも激しく相手を打ち付ける蘭太郎、そのどれとも違うもうすぐ16歳の少年の姿がそこにあった。
蘭太郎は足を止めた。うつむき加減に、ほんの少し後ろを歩いていた門馬慎之介も、つられるように歩みを止めた。
前を向いたまま、蘭太郎は門馬に声をかけた。
「きのう、不思議な夢をみたんだ」
「え?」
門馬は、蘭太郎の横顔をまぶしそうに見つめた。
日舞の家元の母と剣道の道場を持つ父との間に生まれ、母の美貌を受け継ぎ、剣の腕も素晴らしく確かな蘭太郎の周りにはいつも人が群がっていて、門馬は遠くそれを眺めていた。こうして学校から駅まで一緒に帰るのは高校に入学し、クラスメイトとして出会って以来、初めてのことだった。
「初めて話をする君に、こんなことを言うのは、ちょっと変かもしれないが」
「気にしないで、何でも言ってくれたまえ」
蘭太郎は微笑んだ。
何だろう、この感じ。名前のせいだけではなく、門馬には、侍の姿が良く似合うと、蘭太郎は思った。それも戦国時代の戦う侍の姿ではなく、平和な江戸時代の書物に囲まれた姿なのだ。例えていうと、そう、寺子屋の先生のような・・・。それにしても、どうしてあんな夢をみたのだろう。
門馬の顔を、蘭太郎はまっすぐに見つめた。
「鹿児島の、知覧に行ったことはあるかな?」
「・・・いや、無い。特攻平和祈念館のある場所だね。近くに開聞岳のある」
「ああ。富士山に似た、素朴で美しい山だ。君は特攻隊員だった。無駄死にするなと必死に引き止める僕を振り切って、五百年後、千年後の世には必ず蘇える。そう言って君は、たかく、大空に消えていった」
スローモーションのように、夢の中で静かに門馬の口元が語りかけている。だがその声は爆音にかき消され、ほとんど聞こえない・・・。
切なさと苦しさの中で蘭太郎は、泣きながら目を覚ましたのだった。

門馬は驚いていた。昨日、いつものように眠れぬままネットを彷徨い、初めて「神風特別攻撃隊 フィリピン編」の動画を見て涙し、眠りについたのだった。
心の中で、門馬は呟いた。
「もう、戦争は続けるべきではない。
しかし敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない。では何故見込みのないのに、このような強行をするのか・・・」
そのあとの言葉を、門馬は口に出して呟いていた。
「ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」
「君はそう言っていたのか!」
思わず、蘭太郎はそう尋ねた。
「これは、『神風特別攻撃隊 フィリピン編』の中の言葉だ」
蘭太郎は、不思議そうに門馬の口元を見つめた。
「知らなかったのか? わりと有名なサイトだと思うが」
「僕はパソコンは苦手だ。家に一台あるにはあるが、母のお弟子さんが管理している・・・」
静かな時が流れた。蘭太郎は空を見上げた。
気がつけば、太陽は、西の空に茜色を残し消えていた。
「彼らは勇者だった。馬鹿馬鹿しい戦争の、哀れな被害者だと思っていた、自分が恥ずかしい」
夕暮れの空に、星がひとつ輝いた。


翌日のことだった。
どちらからともなく待ち合わせた蘭太郎と門馬は、二人で駅までの通学路を歩いていた。
話は自然に、日本史の授業中、いつも寝ている蘭太郎の話題になった。
「歴史なんて、特に日本史なんてクソクラエだ」
女の子のように可憐な蘭太郎の唇から、激しい言葉が次々と飛び出すのを、門馬は面白そうに眺めた。
「まず第一に、僕が教科書は信用ならないと思ったのは、鎌倉時代の元寇だ。元軍は寄せ集めの兵士たちだから、やる気なくて鎌倉武士に負けちゃいましただと! 冗談じゃない! 戦さはスポーツじゃないんだ。負けるってことは、すなわち死ぬこと、殺されることだ。そんなことも分らないのか? 教科書を作っている人たちは? そして、その信用ならない教科書を使って、平気な顔をして授業をする先生って、一体何なんだ?」
「元寇で対馬と壱岐はモンゴルと高麗軍に蹂躙され、両島民はほぼ全滅した。男たちは皆殺し、女子供は手の平に穴を開けられ縄を通されて船縁に吊るされ、食料にされた。二百人の少年少女が拉致され、高麗王に献上された・・・」
蘭太郎は呆然と門馬の顔を眺めた。
「ちょっと待ってくれ。食料・・・? それは、本当のことか?」
「まず真実を知ることが大切だ。余りに残酷だからといって、目を背けてはならない・・・・。彼らは人肉食の文化というか、そういう習慣を持っていたのだ。人の肉は「両脚羊(ヤンシャオロウ)」と言われ、普通の市場でも売られていた」
「要するに、極限状態で仕方なくではなく、普段からやってた、ということか・・・」
「倭寇は、知っているね」
「日本の海賊だろ」
「正確に言うと前期倭寇、後期倭寇に分類されるのだが、前期倭寇は元寇に対する復讐だ」
「復讐・・・」蘭太郎は足を止めた。
「高麗王に献上されたという子供たちはその後、どうなったんだ?」
門馬は暗い顔で首を振った。
「僕はこう思う」蘭太郎は空を見上げた。「拉致された家族が仲間が、万が一にも生きているかもしれない。何としてでも助け出したいって気持ちもあったんじゃないかな。今も昔も人の心はそんなには変わらないと思う。まして、同じ日本人だ・・・。
『防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思ひもせず』・・・僕は万葉集に出てくる、この歌が好きだ。千年以上昔に生きた、名も無い女の人の悲しみを、僕はありありと感じることができる」
「「防人の歌」だね。そう言えば、君は古文の時間は起きてる」
蘭太郎は微笑んだ。そして、歩き始めた。
「そうだ・・・。防人の歌だ。そんな昔から、わが国は大陸からの侵攻に備えていた。ましてや鎌倉幕府は戦さのプロだ」
門馬は深く頷いた。
「日本はそれまでにも、たびたび侵略を受けていた。「刀伊の入寇」が有名だが、その後にも、(1097年)、異賊船100隻、賊徒数万が攻め寄せ、それを撃退したとの記録がある。教科書を読んでいると、日本が侵略を受けたのは、元寇が初めてであるかのように思い込みがちだが・・・。いや、そう思うよう仕向けられている。
教科書曰く。鎌倉幕府は大陸情勢に疎く、元から使者がきて驚いた。
(実際は、日本は幾度も侵略を受けてきた。鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事として捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていた)
教科書曰く。時の執権北条時宗は、世界的な一般常識である、絶対やってはいけないこと、つまり元からの使者を、いきなり切り捨てた。
(実際は元の使者を切ったのは、文永の役のあとのこと。壱岐、対馬の住人に対する、余りの残虐行為を憤ってのことだ。文永の役の前は、拒絶して帰らせている)
教科書曰く。武士はバカみたいに一人ずつ元軍に名乗りをあげて、一騎打ち戦法で戦いに挑んだ。
(実際は、幕府は集団戦法の徹底を命じていた。武士たちは、後に恩賞の証人になってもらうため、日本人同士、味方同士で名乗りあった)
教科書曰く。武士が劣勢だったというのは、竹崎季長が恩賞欲しさに書かせた「蒙古襲来絵詞」という、世界的にも貴重な証拠もある。
(実際は、全体的に武士が優勢で元兵が負傷し逃げ惑っている。それを、武士が劣勢に見えるよう、教科書では絵の一部を切り取って使っている)
教科書曰く。敗戦濃厚だった、わが国は文永の役と弘安の役の二回とも偶然の大風、つまり神風で救われた。
(実際は鎌倉武士の奮戦による日本の完勝だった。日本人が強いことを快く思わないGHQにより、歴史を捻じ曲げられ、二回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまった)
わが国の歴史教科書による、その後のストーリーは、おおまかにいうとこうだ。元寇以来日本は自分たちのことを神の国だと勘違いし、そのことが、やがて明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと駆り立て、そして世界中に迷惑をかけ、日本が侵略したアジアの国々から、未来永劫許してもらえないくらい嫌われている。だから日本人は永遠に謝罪し続けなければならない・・・」
蘭太郎は暗い顔をして頷いた。
「本当に悲しいことだ。中国で開かれたサッカーのアジアカップのとき、日本人が今でも、相当な憎しみを持たれていることを、ひしひしと感じた・・・」
「元寇について調べること、そして、そのことについて自分の頭でしっかり考えることは、今の僕たち、いや日本人にとって必要なことだと僕は思う。現在の日本の抱える様々な問題点があぶりだされ、それに対する、ごくシンプルな答えを、自分の中に見出すことができる」
「自分の頭で考え、自分の中に答えを見つける・・・」
「例えば、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞欲しさに描かせたものではない。元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちを査定する立場にあった恩人である、安達泰盛の供養のために書かせたものだ。恩賞のためではなく、恩人の供養のためだ。かなり真実に近い描写であると、僕は考えている」
蘭太郎は頷いた。
「死んだ人に嘘はつけないからな。日本画は、画材が高価でなかなか金がかかる。今でさえそうなんだから、昔は相当な出費だったろう。考えてみれば、恩賞欲しさという説に違和感を持たない方がおかしい。
それと、鎌倉武士が、「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて、元軍に一騎打ちを挑んだという説も、考えてみれば相当変だ。言葉の通じない外国人相手に、しかも戦場で、そんな無駄で間抜けなことをするはずがない。証人になってもらうために日本人同士で名乗りあった、という君の話を聞いて、僕はかなり納得した。うん。正解に近いような気がする」
「高麗、つまり今の朝鮮半島だが、日本に味方して、元寇に使う船を手抜きして作った、と主張する説がある。しかし、元のフビライに日本へ侵攻するよう進言したのは、他ならぬ高麗王なのだ・・・。
高麗は驚くべきことに、1231年から1273年まで40年以上に渡って、モンゴル軍に抵抗し蹂躙され続け、ついに屈服した。そしてその後も、余りにも過酷な運命が待っていた。例えばこれは1231年、元からの貢物の要求だが、百万人分の兵士の衣服、馬一万匹、男女1千人・・・。1274年、高麗は未婚の女性を元に献上するため、国中で結婚を禁止しなければならないほどだった。同じ1274年正月、元は高麗に対し、日本侵攻のための船を建造することを命じた。そして君も知っての通り、高麗は元軍らと共に、その年の11月日本に攻め入ったのだ・・・。僕は高麗の歴史によって、戦争に負けるとはどういうことかを、目の当たりにした」
蘭太郎は舌を巻いた。
「君は相当優秀な人物だと知ってはいたが・・・。それにしても、どうしてそんなに詳しいんだ?」
「君の場合は教科書、僕の場合はサッカーだった・・・。
数年前、サッカーのワールドカップを見ていたときのことだ。試合を通して世界中の国々や人々の姿、もしかしたら、その民族の真の姿を僕はテレビを通して見ていた。僕は当然のことながら、日本に絶対勝って欲しい、何が何でも勝って欲しい! 僕は心底そう願い、テレビの前で叫び生まれて初めて心から神に祈った。でもその一方で、審判を買収したり故意に相手を痛めつけたり、そんな汚い手を使ってまで勝って欲しくない、そう考えている自分がいた。その時、分かったんだ。霧が晴れるように。みんな同じではないか。日本人だったら、誰しもそう考えるのではないか。今の日本人も昔の日本人も、そう考えるのではないか。
例えば中国のように、何度も何度も皆殺しに近い侵略を受け、昔と現在とでは民族が入れ替わってしまったと思われるような国もあるが。
日本の場合は、そうではない。万葉の時代から、いや縄文時代から、人々の心根は変わらないのではないか。海外で活躍するサッカー選手や野球選手の、サムライにも似た頼もしい面構えを、僕は思い浮かべた・・・。
日本史の教科書やテレビで描かれる無能で醜い日本人、特に太平洋戦争中の残虐でおぞましい日本人とは、まるで違う日本人の姿が、そこにある。変だ。何かが絶対におかしい。もしかしてずっと、僕は騙されてきたのか? それから、真実を追い求め、僕は旅に出たんだ。パソコンの中の、ネットという迷宮(ラビリンス)に」
蘭太郎は、ふうっと深いため息をついた。
「日本史の時間に寝ていて正解だった・・・。だが僕が眠っている間、君は旅に出ていた」
二人は、小さな公園のベンチに腰をおろした。
「元寇について調べているとき、心に残る話があった。19歳で死んだ少年の話だ。名前は少弐資時(ショウニスケトキ)
彼の初陣は文永の役のおり、12歳の時のことだった。7年後の弘安の役当時、19歳になっていた少弐資時は壱岐の船匿(ふなかくし)城にいた。そして若き大将として元軍相手に小勢で必死に戦い、最後は家来数名を引き連れて元軍に果敢に切り込み、壮絶な最後を遂げた。
彼がいた船匿城跡からは、元軍が上陸した瀬戸浦が一望できるそうだ。何千もの船、何万もの大軍を見たとき、彼は一体何を思ったろう・・・」
蘭太郎は目を閉じた。
門馬の低く落ち着いた声を聞いていると、まるで自分がその場所に立っているかの気がしてくるのだった。
一瞬、深い眠りに落ちたような気がした。
ここはどこだ? 蘭太郎は辺りを見渡した。美しい入り江に出現した、夥しい敵の群れ。蘭太郎はハッとした。自分は資時なのか・・・?
「地元の人たちにずっと大切にされている「ショウニイ様」と呼ばれる墓があり、それが少弐資時の墓であることが分かったのは、明治時代のことだったそうだ・・・」
自分は眠ってはいない、さっきのは一体、何だったんだろう。蘭太郎は、門馬の話にじっと耳を傾けた。
「その後の弘安の役の戦いに、少弐資時の祖父・少弐資能(スケヨシ)も、84歳という高齢でありながら、参戦している。おそらく、孫の弔い合戦だったのだろう。そして乱戦の中で受けた傷がもとで、戦後間もなく亡くなった・・・」
突然、胸を締め付けられるような悲しみが蘭太郎を襲った。
「そうか。資時のじいさんが・・・」蘭太郎は空を見上げた。「・・・今日は、星も見えないな」
「ある人によると、歴史は虹のようなものだそうだ。余り近づきすぎると、水滴しか見えない。無数の歴史的事実の中には良いこと悪いこと、光もあれば影もある。日本の子供たちは戦争に負けてから、ずっと虹を見ることなく、今日のこの空のような暗黒の歴史を見せられている・・・」
「門馬君、僕に虹を見せてくれないか? 君が大空に描く、美しい虹が見たい!」

「では、まず四大文明の嘘から始めよう」
二人は「虹の公園」と密かに名づけた小さな公園で、翌日の放課後落ち合った。
蘭太郎は、ワクワクと、門馬の次の言葉を待った。
門馬はおもむろに、プリントアウトした資料を蘭太郎に手渡した。そこには、「世界に誇る縄文文化」と書かれてある。
「門馬君。さっきの四大文明の嘘の話は・・・?」そう言いながら、蘭太郎はその資料に目を落とした。「これは・・・?」蘭太郎は目を瞠った。そこには・・・。

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大和心を語るねずさんのひとりごと

              


2005年の夏休みの頃のことです。
国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
上にあるのは、そのときのポスターの写真です。
実は、この写真、左が縄文人、右が弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。
ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。
ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらいまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代を新石器時代などと呼びます。
ですから日本の縄文時代というは、欧州や支那における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。
冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものだそうです。
鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。
鳥浜貝塚遺跡は、福井県若狭町にあります。
丘陵の先端部にあり、現在の地表面より3~7メートル下に埋まっていた遺跡です。
海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡で、河床の下で、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、いわば密閉されていた遺跡です。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。
第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。
縄文時代前期、日本最古の櫛とされています。
「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述がありますが、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。
発見された遺物の中からは、編み物も数多く見つかり、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかにされました。
これを復元して見せてくれているのが、冒頭の国立科学博物館の写真なのです。
縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人の姿などを想像してしまいますが。
どうやらこれは大嘘です。
こうした考え方は、「文明文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわち支那が親、朝鮮が兄、日本はおとんぼ、という歴史認識から生まれた、いわば政治的な創作です。
冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。
耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかも彫刻付きです。
耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
また服装は、布製で、極彩色の美しい模様が描かれています。
おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。
特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていた、というのではありません。
出土品の数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけがカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。
つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。
女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということです。
しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。
植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。
女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。
おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。
男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。
ちなみに、日本の縄文期の遺跡は、数千か所発掘されていますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだ発見されていません。
つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。
日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
これはすごいことです。
日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好む。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html

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蘭太郎は、資料から顔をあげ、しばらくの間、黙り込んだ。
そしてもう一度、冒頭の女性の写真を眺めた。
「これは布か。縄文人って、こんな可愛い格好をしていたのか。今と変わらないじゃないか、いや、むしろ、こんな心のこもった、手作りのアクセサリーを身に付けていたとは」
そして考えをめぐらすように顔を傾げた。
「四大文明は・・・メソポタミヤ文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明。だいたい紀元前3000年前後・・・チグリス・ユーフラテス河、ナイル河、インダス河、黄河・・・。大河沿いに起こった・・・」
「ああ・・・」門馬は頷き、蘭太郎の横顔を見つめた。
「世界の文明は、ここから始まったのかと思っていた。そして、そこから伝わった、と。人類の黎明期というか。人類の能力が格段に進歩した頃だと思っていた・・・」
「日本には、世界最古と思われる遺跡がある。青森県にある「大平山元|遺跡(おおだいやまもといちいせき)で、16500年前ものだ。少し、混乱させるかもしれないが、黄河文明はコーカソイドが担っていた。つまり、白人だ。それより前、中国にはモンゴロイドによる長江文明が栄えていた」
「え、コーカソイド? 白人? とりあえず今は四大文明に絞ってくれ・・・。
四大文明って一体何だ。世界共通の学説ではないのか? 人類共通の認識ではないのか?」
「まあ、一種のポエム(詩)だな」
「ポエム・・・!」
門馬はバッグの中からファイルを取り出し、その中の一枚を、蘭太郎に手渡した。
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大和心を語るねずさんのひとりごと

この「世界四大文明説」というのは、トインビーよりも少し古くて支那の梁啓超(りょうけいちょう)が「二十世紀太平洋歌」(明治33(1900)年出版)で唱えたのが最初です。
彼はこの本の中で、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べています。
梁啓超は日本に亡命し、日本で学び、支那の民主化運動を図った清朝末期の政治家です。
彼は、清朝末期に、国が乱れ、支那が国家として再生するうえで、支那人達に自国の歴史への誇りと自信を深めてもらうために、いわば目的的にこの本を書いています。
ようするに彼は政治家であって、「支那には世界の大文明の一翼を担った歴史があるのだから、俺たち支那人は、もっとこの国に誇りをもとうよ」という主張をするためにこの「世界四大文明説」を唱えています。
つまり「世界四大文明説」というものは、学説ではなく、政治的に生まれた造語です。
実際、この考え方は、誇りを取り戻そうとする支那人たちには大歓迎されたけれど、欧米ではまったく評価されなかった・・・。

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「ふう・・・」
蘭太郎は、顔を上げた。
「世界史の教科書も油断ならないのか。それで、黄河文明は白人だったというのは?」
「最新のDNA検査というものは、目ざましいものがある。犯罪においてしかり、植物においてもしかり・・・」

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大和心を語るねずさんのひとりごと

平成12(2000)年のことです。
東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。
調査の対象となったのは、
1、約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨淄(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国     時代の斉の都)遺跡から出土した人骨
3 現代の臨淄住民
これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨淄人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。
約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。
現代の臨淄住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。
・・・考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。
そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されています。
時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。
遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。
関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイドの遺伝的特徴そのものである
そしてこの時代の人骨からは、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。

さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。・・・ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。
これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。
これは紀元前6000年~紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。
栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。
ちなみにジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあります。・・・いまから約8000年前に、日本には稲作文化がありました。
そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。
そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。
で、できたのが黄河文明です・・・。

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蘭太郎は顔を上げた。
「それぞれの文明を、それぞれの民族が担っている・・・」蘭太郎は、壱岐対馬の住人を皆殺しにした元軍の恐ろしさを思い浮かべた。「大陸では、殺らなければ殺られる。滅ぼさなければ滅ぼされるということか。中国4千年、悠久の歴史とは一体・・・? あっ・・・!」
そしてもう一度、その資料に目を落とした。
「8千年前の日本に稲作文化? 稲作は弥生時代から始まったんじゃないのか・・・?」
「知っているか? 稲作は、日本から朝鮮半島へ伝わった」
門馬はファイルから別の資料を取り出した。
「もちろん・・・。えっ? 何だって!」
「北朝鮮は、現在でも稲作不適地だといわれている」

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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては中国南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。
しかし、7,8年前(2007年当時)からまず考古学の分野から変化が起き、次第に中国南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また中国の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは中国政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
・・・米の伝来は中国南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。
「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は中国の山東省付近という説がもっとも有力だ。
また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。

さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が中国からであることを裏付けている。
鵜飼の風習は中国の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。
ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。
なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は朝鮮における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
中国も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える・・・。

出典:Yahoo!掲示板

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蘭太郎は笑い出した。
「気が付くと、こう考えている。常に、文化は中国から朝鮮半島に伝わり、そして日本に伝わったと。完璧に刷り込まれている。恐ろしいものだな。教育とは」
蘭太郎は、改めてその分厚いファイルを眺めた。そして「日本人はどこから来たのか」という、ところどころに鉛筆でメモ書きされた資料に目を留めた。
「いつか歴史小説を書きたくて、気に入った資料を集めてるんだ」門馬ははにかんだように微笑んだ。「だが皮肉なことに、余りに調べすぎると、想像力の翼が縮んでしまう・・・」
「門馬君、読んでもらえないかな」
日はとっぷりと暮れ、門馬は街灯の明かりを頼りに語り始めた。蘭太郎は、夕闇に沈む風景を眺めた。何の変哲もない風景が、かけがえのないものに変わっていく。
「縄文人たちがどこから来たのかということについては、最近の遺伝子の研究で、ずいぶん明らかにされています。
・・・日本人とそっくりの遺伝子を持っているのは、どうやらバイカル湖のほとりあたりの人たちです。
日本人のルーツは、北方型蒙古系民族に属するもので、その起源はシベリアのバイカル湖畔にあるようです。
もうひとつ大切なファクターがあります。
気温の変化です。
過去35000年の気温変化をみると、一万八千年前~二万年前に極寒期があり、現在より気温が7~8℃低かったのです。このときの海水面は現在より120~140m低かったのだそうです。
海峡深度との比較から、北海道は宗谷海峡、間宮海峡がシベリアとかなりの期間繋がっていた。つまり、もともとバイカル湖畔あたりにいた人たちが、地球気温の寒冷化によって南下をはじめ、樺太から北海道を経て、日本の本州に棲みついたというのが真相のようです・・・」
「北海道から渡ってきた。そうか、だから世界最古の遺跡は青森県にあるのか・・・」
「日本人がどこから来たのか考えるとき、なぜか、小さな男とその両親の姿が浮かぶんだ・・・。極寒の寒さから逃れ、身を守るため、凍った津軽海峡を渡る、小さな男の子とその父親と母親の姿が目に浮かぶ。先頭に立って進もうとする父親に、男の子はこう言うのだ。「僕の方が軽いから」
そう言って、男の子は長い棒を持ち、氷の感触を確かめるように先頭に立って歩き始める。夜明けを待って、出発したのだろうか。空には有明の月が残っていたのだろうか。どれくらい歩いたら、陸地に辿り着けたのだろうか・・・」
蘭太郎は微笑んだ。
「その男の子は、俺たちのじいさんだ。勇敢で、心優しき男(おのこ)だ。・・・名前は、何ていうんだ?」
「えっ?」
「その男の子の名前だ。人は人に、いつから名前をつけるようになったんだろう」
「名前をつける。まさに、人が人になった瞬間かもしれない。・・・歴史とは、推理小説であり、恋愛小説であり、戦国武将の生き様などから経営者の心得を学ぶ場でもあり、DNAを筆頭とする科学の実証の場でもある・・・。そして、気象学でもあり天文学でもある」
「天文学・・・?」
門馬は頷いた。
「卑弥呼が殺されたのは、西暦二四八年九月五日。皆既日食のあった日だった。・・・。本能寺の変が起こったのは旧暦の六月一日。空に月は無かった」
門馬はオリオン座を指差した。
「あの星の名はペテルギウス。地球からの距離は五百光年。今、僕達が見ているあの星の光は、信長の時代のものだ・・・」
それから二人は空を見上げた。オリオン座の三ツ星、その先の全天一の輝きを放つシリウス。今は見えない、真夏の夜空を大きく彩るさそり座。南の空にあるという南十字星。
その夜のことを、その美しい星の夜を、門馬も蘭太郎も生涯忘れないだろう…。


翌日の放課後のことだった。
「君は知っているか? 靖国神社には坂本竜馬も祀られていることを」
突然の門馬の問いに、そうなのか?という風に蘭太郎は目を見開いた。
「伊藤博文は、日韓併合に反対していた」
(何だって! 賛成だからこそ暗殺され、安重根は日本に抵抗した英雄として、かの国では称えられているのではないのか?)
「国際連合には敵国条項といって、日独など敗戦国に対して、加盟国は安保理の許可なく独自の軍事行動ができることを容認している」
(敵国条項? 国際連合は何と言ったらいいか…平和の象徴ではないのか? 世界の良心ではないのか? 終戦後60年経た今も、要するに戦勝国連合ということか…!) 
「君は知っているか? ハワイの名歌「アロハ・オエ」の本当の意味を」
(本当の意味?)蘭太郎は「アロハ・オエ」の甘く切ないメロディーを思い浮かべた。
門馬の矢継ぎ早の質問に蘭太郎は混乱し、ため息をついた。自分は世の中のことを何て何も知らないんだろう。自分で自分が情けない・・・。
僕は少し急ぎすぎているのかもしれない、門馬はそう思った。
「蘭太郎君、ゆっくりでいいんだ。自分の頭で考え、感じてくれたまえ」
蘭太郎は黙って頷き、門馬から手渡された資料に目を落とした。


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大和心を語るねずさんのひとりごと

           国の滅亡とアロハ・オエ
18世紀末にハワイを発見したのは、有名なキャプテン・クックです。そのクックを先頭に、ハワイに来島した白人たちが持ち込んだのが、貿易商、キリスト教宣教師たちなのですが、彼らが持ち込んだのは実はそれだけではありません。
麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒までも持ち込んだのです。
これは、かつての太平洋の島々に共通していた事項なのですが、彼らにはもともと「土地所有」という概念がありません。
その代わり、たとえばバナナの木などは、誰の所有かが、かなり厳格に定められたりしています。そんなハワイの人々に、欧米から来た白人達は、ただ同然で土地を買い占めました。
なんと、国土の75%以上を所有してしまったのです。
ハワイの先住民たちは、追いつめられ、クックが来島した頃30万人だった人口が、1872年にはわずか5万7千人にまでに減少してしまいました。国民の8割の人口が失われてしまったのです。ちなみに欧米によって植民地化された国は、ほぼ例外なく人口が8〜9割減少しています…。
…ハワイ諸島を統一したのは、カメハメハ大王です。大王がハワイ諸島を統一したのは、19世紀、日本の明治のはじめ頃のことでした。大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一したのです。
武器購入資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行等によって、国力は徐々に衰退していってしまいました。
実は、カメハメハ大王の孫にあたるカラカウワ大王が、1881年に日本に来日しています。当時の日本は、有色人種で唯一の独立国でした。有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の大王、つまり要人が日本に来た、最初のできごとでした。
来日したカラカウワ大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れ、密かに赤坂離宮を訪れて明治天皇との会見を願い出ました。天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見に応じました。
大王は、明治天皇にハワイ王国の内憂外患の窮状を述べました。そして、5つの事柄について、日本の協力を要請しました。
1 日本人移民の実現
ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
2 やがて王位を継ぐことになる、姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。
3 日本・ハワイの合邦
(ハワイを日本にしたいと申し出たのです)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現。

しかし、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗できるだけの力はありません。やむなく明治天皇は、翌年カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しました。ただ、移民については実現し、1884年、日本・ハワイ移民協約が締結します。
明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。このときハワイでは盛大な歓迎式典が行われ、カラカウア大王自身もこれに列席しています。そして日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。

明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死し、後を継いで後継者に、大王の実妹のリリウオカラニが女王に即位しました。
明治26(1893)年1月15日のことです。リリウオカラニ女王は、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。宮殿前には、女王を支持するハワイの大勢の民衆が集まりました。
けれど、この憲法改正案には、ひとつ問題がありました。
この憲法が施行されると、市民権を持っていない白人たちは、選挙権が得られない、つまり参政権を否定されるのです。
米国公使のスティーブンスは、翌16日、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称して、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧します。そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿に合わせます。宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっているのです。スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行しました。
ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたのですが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意します。この瞬間、ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
危機感を持ったカラカウア大王が来日から僅か12年後のことでした。
しかしハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植しています。そこで急きょ、日本から派遣されたのが、巡洋艦「浪速」と「金剛」でした。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。けれど、完全な臨戦態勢です。ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンは沈没を免れないからです。
東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。ですからフラダンスの父と呼ばれています。
そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。

Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば 
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと

とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲「アロハ・オエの」美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。

このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。
そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。

古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。これは世界中がそのような歴史にいろどられています。
けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。
日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。

日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています」

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蘭太郎は顔をあげ、門馬を見つめた。門馬の瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
「いわゆるA級戦犯のことばかり、まるで鬼の首でも取ったかのようにマスコミは取り上げるが…。靖国神社には、黒船来航以降、日本の為に命を捧げた人々が祀られている。歴史というものは、その当時の常識というものを知ることが、最も重要かつ困難なことであるというが、黒船来航の恐ろしさを、現代に生きる自分たちにとって、果たしてどれほど感じとることができるだろうか」
「今でいうなら、UFOだろうか…。家康をはじめ徳川幕府のトップたちは、植民地にされること、奴隷にされることを心底恐怖していた。そのため鎖国をし、長崎にある出島から、世界の情勢を正確に掴んでいた。日本に魔の手が迫ってくるのを、ひしひしと感じていたのではないだろうか・・・。以前、テレビで偶然見たのだが…。徳川将軍の霊廟が調査された時、驚くべき将軍たちの姿が報告された。将軍たちは死してなお、江戸の町を守るように埋葬されていた。何重にも重なったお棺の中に納められた将軍達は、正座をし、太刀を傍に置き、今でも江戸の町を見守り続けているようだったという」
「そうか。それは初めて知った…」
門馬は、美しく輝く蘭太郎の瞳を見つめた。
(かつてイギリスの植民地であったミャンマーでは、国民の求心力を失わせるため、イギリスによって王室が追放され、王女は妾とされた。日本のマスコミは何故か報じないが、イギリス人と結婚し、すっかりイギリス人になっているスーチー女史に対して、ミャンマーの国民は複雑な気持ちを抱いている。中国は先ほどの敵国条項を念頭に置き、尖閣諸島を日本が国有化したのは侵略行為であると会見している。…かつて中国でおきた通州事件のことを思うと、今でも心が悲鳴を上げる。日本に原爆を2回落としたアメリカは、日本の復讐に怯え、すなわち、水に流してしまう日本とは真逆の自分自身の影に怯え、今も日本に絶対核兵器を持たせないよう、知識人やマスコミを総動員して、日本人に贖罪感を植え付け続けている…。第二次世界大戦で、ベルリン陥落のおり、ソ連軍によってレイプされたドイツ人女性は13万人、うち1万人が自殺したという。世界は危険で何と腹黒いんだろう・・・。
いわゆる従軍慰安婦問題が度々取り上げられるが、彼女たちにとって、例えそれがどんなに意に染まぬことであったとしても職業であり、高給取りであったことは、全くと言っていいほど言及されない。諸外国のことを知れば知るほど、日本の素晴らしさが見えてくる。泥の中に咲く、一本の蓮の花のようだ。だが当の蓮の花は、自分の美しさを知らない。そしてマスコミや歴史教科書という魔法の鏡によって、自分たちはこの世で一番醜いかのように思い込まされている。
だがしかし、この心も体も清らかな蘭太郎に、世界は汚い、ほら、こんな酷いことをしている国ばかりだよと吹き込んで何になるのだろう。
門馬は一瞬、深い物思いに落ちた。

「…日本にA級戦犯はいないんだ」
「えっ?」
門馬は顔を上げると、分厚いファイルの中から、数枚の資料を蘭太郎に手渡した。

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ひめのブログ
いまの幸せをまもりたい、それだけです
■A級戦犯は日本に存在しない。歴史も知らない議員やマスコミ。
2010-06-17 03:28:37

「A級戦犯合祀の問題から首相や閣僚の公式参拝には問題がある。
首相在任中に参拝するつもりはない」
15日、菅首相は参院本会議の代表質問で発言。
毎度まいどよく聞くセリフです。
この宣言さえすれば、日本にたくさんいる、左巻きお花畑に批判されないんですね。
「靖国参拝する」と言えば、ここぞとばかり反日マスコミが叩きます。
何が問題なのか・・ 具体的に聞いたことありますか?
外国要人・外交官・駐在武官・軍隊‥ 靖国参拝してること知らないのかね。
リトアニア共和国首相、在日米軍横田基地将校会‥各国指導者の参拝は、スリランカ・タイ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・スロベニア・ロシア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア・パラオ・ソロモン諸島‥

「問題がある」ですか? じゃあ抗議したのかよ?w
問題にしてるのは特アだけだろ。
それも、もともとは何とも、思ってなかったのに、朝日新聞がわざわざ中国へちくりに行くから、
「批判した方が得らしい」ってことになっただけ。
韓国も、それを真似してるだけw
あほらし。
まぁ菅首相は日本の歴史上、中国を一番たくさん訪問した人なので(数十回)
中国への忠誠はヒトイチバイかもしれませんが!
そしてそもそも、【A級戦犯】というものは日本にはない。
菅だけじゃないよ。
やたらA級戦犯って言う議員、マスコミ、自称評論家‥たくさんいる。
あのかたがたは、A級戦犯⇒戦争の原因を作った犯罪者 のつもりなようですが、ぜんぜん違いますから!
いかに日本史を勉強してないか、いかにあほかと宣言しているようなものですw

*昭和20年8月30日
日本に到着したマッカーサーの第一声
「東條を逮捕する。そして早急に戦争犯罪人のリストを作れ」
「戦犯第一号はパールハーバー攻撃の東條内閣の閣僚たちだ」
真珠湾攻撃は東條の仕組んだ先制攻撃だと言わんばかり。
(それも後でニュースで知った)
マッカーサーは自分がフィリピン方面軍司令官の時に日本軍に敗れ、
「アイ・シャル・リターン」と言って逃げた時の復讐のために、
当時司令官だった本間雅晴中将の名前も戦犯にした。
こんな感じで『A級戦犯』28名決定。

来日したソ連が「俺らにも選定させろ」と言いだし、 重光葵、梅津美治郎の2人をA級戦犯に追加。
ソ連は『日露戦争』の復讐で東京裁判に参加。 日本はソ連に戦争犯罪がなかったから、大東亜戦争以前の日ソの戦い、つまり日ソ間で解決ずみの張鼓峰事件(1938)やノモンハン事件(1939)を持ちだして、
「日本の侵略だ!」と主張
びっくりするぐらい適当に選ばれた『A級戦犯』が、
いまだに首相の答弁で、悪者扱いされてるってどんだけあほなの?

戦後、東京裁判が行なわれた。
ほんとなら日本人自身が国家指導者の責任を追及すべきなのに、
戦勝国が一方的に裁いて断罪した
その時勝手に選ばれた指導者達は、判決に従うことで、戦争責任を負った形となりました。
でもね。
独立回復後、日本は国会で、A級戦犯を含むすべての戦犯の死を 「法務死」として遺族への年金や恩給を支払うことにした。
遺族の救済や名誉の回復を行なうことを決めた。

*昭和27年4月
まだ服役しなければならない1224名の「戦犯」に対して国民の同情が集まった。

*昭和27年7月
日本じゅうで戦犯の早期釈放を求める署名運動。
約4000万人の国民署名が集まった。
当時の日本人口、約8581万人。単純計算で、国民の2人に1人が署名した。

*昭和28年8月
「戦犯釈放を求める国会決議」が決議された。
国会決議は【全員一致】
国家指導者の政治的責任や道義的責任という問題と慰霊とは別の問題です。

昭和53年、靖国神社にいわゆるA級戦犯が合祀された。
昭和60年に中国が批判するまで、問題だなんて誰も言わなかった。

日本人は、戦争中でも敵国兵士の墓を作った。
これは武士道の伝統。 敵国の兵士をも弔うんだから、自国の指導者に対しては死者に鞭打つことをしないのが日本人・・・。

そしてその合祀は厚生省が提出した名簿に基づくもの。
名簿は国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたもの。
つまり靖国神社がA級戦犯を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは
法律に基づき、行政の通知に従って実行したもの。
靖国神社が批判を受けるって意味わからない。知らんだけだろw
A級戦犯だった人の合祀を批判したいのなら、 厚生省のその名簿を作った奴を批判しろ。
戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、国会で、法律として決めてある。
別に靖国神社が勝手に合祀したわけじゃないし、遺族が決めたわけでもない。
(靖国合祀の関係法→戦没者遺族援護法・恩給法など)

*昭和28年8月
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」「恩給法」の改正
「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者としないことにした。
決定は【全員一致】
彼らの死を戦争による公務死としたことは主権独立国家として正当な決定。
「A級戦犯」も「B・C級」も関係なく公務死とした。これは日本人が決めたこと。
サンフランシスコ講和条約第11条第2項で、 東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになってた。

日本はこれをまじめに取り組み、
国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。
そして‥
*昭和31年3月
 「A級戦犯」全員赦免・釈放
*昭和33年5月
 「BC級戦犯」全員赦免・釈放
これを正式に勝ち取った!!
わかるよね。
日本に「戦争犯罪人」はいない! 「A級戦犯」もいない!!!
世界中がそれで納得してる。

*昭和50年11月21日
昭和天皇がいつも通り靖国神社を参拝。
突然、社会党が「問題だ」と言い出した。
それが原因で、天皇陛下は靖国参拝ができなくなった。

*昭和60年
突然、首相の公式参拝を中国が抗議してきた。
中曽根首相は参拝をやめた。
国民はそれほど騒がなかった。 マスコミが靖国参拝を騒ぐようになった。
(以下略)

******************************

依存症の独り言
2005/05/29
A級戦犯
森岡正宏厚生労働政務官は26日の自民党代議士会で、小泉首相の靖国神社参拝を「大変良いことだ」と支持する考えを示したうえで、「極東国際軍事裁判は、平和や人道に対する罪を勝手に占領軍が作った一方的な裁判だ。A級戦犯の遺族には年金をもらっていただいており、日本国内ではその人たち(A級戦犯)はもう罪人ではない」と述べた。(後略)
2005年5月26日(朝日新聞)

上記の発言が物議を醸している。
この発言を肯定する人もいれば、民主党の岡田代表のように「東京裁判を認めないとなれば、戦争責任を負わないことになる。更迭を求めるのは当然だが、その前に政府がきちんと対応すべきだ」と罷免を求める意見もある。

もちろん、中国は猛烈に反発している。
発言のタイミングはともかくとして、その是非を問うには、まず、そもそも極東国際軍事裁判とは何か、戦犯とは何か、から考えてみる必要がある。

極東国際軍事裁判は、ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、11カ国の連合国名によって(イ)「平和ニ対スル罪」、(ロ)「通例ノ戦争犯罪」、(ハ)「人道ニ対スル罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づいて行われた。英訳すると(イ)(ロ)(ハ)はa、b、cになる。
裁判所は、東京 市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂に設置された。

(中略)

極東国際軍事裁判には、その構成上及び制度上の問題と裁判そのものの正当性の
問題の両方がある。まず、構成上及び制度上の問題から述べてみよう。

①11人の判事中、中立国からは一人も選ばれなかった。
②仏・ソ2カ国の判事は、裁判の公用語である英語と日本語を理解できなかった。
③ソ連は中立条約を破って日本を一方的に攻撃した典型的な条例違反国なのに、罪を問われるどころか、この裁判で検事として、あるいは判事として、日本を訴追する権利まで与えられた。
④判事の中には、法曹経験の全くない者(中国の梅汝敖判事)もいた。
⑤民主主義にとっては当たり前の上告制度がなかった。
以上が構成上及び制度上の疑義である。
次に、最も重要な裁判そのものの正当性の問題について述べる。
①大東亜戦争は侵略戦争だったのか?
②戦争に対する共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪は、当時の国際法等に規定があったのか?
③そもそも、このような戦勝国が敗戦国を裁く裁判は何を根拠にして成り立つのか?
①に関して云うと、1941年12月8日に開始された太平洋戦争は侵略戦争ではなかったと断言できる。これは、帝国主義国家間による植民地争奪戦争だった。
米国はフィリピンを、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島を、フランスはインドシナを、オランダは東インド(現在のインドネシア)を植民地支配し、搾取と収奪をほしいままにしていた。
欧米列強は、本国は民主主義だったが、ほぼアジア全域で過酷な植民地支配を行っていたのだ。そこでは数々の弾圧と虐殺があった。フランスとオランダは、戦後も独立を宣言した旧植民地を再侵略している。

このような国々と日本は戦ったのである。これのどこが侵略なのか?
1937年に始まった日中戦争は、確かに侵略戦争だったかもしれない。しかし、それは今だから云えることである。当時は「侵略」の定義さえ定かではない時代だった。
また、欧米列強も租界を初めとする数々の特権を中国に対して持っていた。イギリスに至っては、歴史上最低の部類に属するアヘン戦争で香港を強奪していた。
注意してほしいのは、だからといって、日中戦争を肯定しているわけではないと云う事である。当時の欧米列強が正義で日本が悪だという構図は、勝者の論理に過ぎないと云いたいのだ。
②に関して云えば、事後(敗戦後)に裁判所条例により制定されたもので、当時の国際法等には何の規定もない。法治社会の鉄則である法の不遡及に反しており、罪刑法定主義からも逸脱している。
③に関して云えば、根拠などどこにもない。極東国際軍事裁判それ自体が、原則に
反する違法なものなのである。
これには、さすがに判事の間にも異論があった。11人の判事中、少数意見の判事が5人いた。

(中略)

インドのラダ・ビノード・パール判事に至っては、「連合国は法を引用したのでもなければ、適用したのでもない。単に戦勝国の権力を誇示したにすぎない。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であると慣習法にするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。国際法、照らして戦争は犯罪ではない。日本は無罪だ」と主張し、アメリカの原爆投下を非難した。

(中略)

※オランダのレーリング判事は、帰国後に著した「東京裁判とその後(ザ・トウキョウ・
トライアル・アンド・ビョンド)」の中で、次のように述懐している。
「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。
われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。
もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」と・・・

・・・A級戦犯とされた被告は東條英機以下27名。
精神異常による訴追免除及び病死を除く25名が起訴される。
絞首刑は、東條英機(軍人)、板垣征四郎(軍人)、木村兵太郎(軍人)、土肥原賢二(軍人)、松井石根(軍人)、武藤章(軍人)、廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)の計7名。昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、まもなく横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨は遺族に引き渡されることなく、米軍により砕かれて東京湾に捨てられてしまった。

この裁判は、昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)を選んで起訴され、 死刑執行は皇太子(現天皇)の誕生日である12月23日に執行された。
(中略)

A級戦犯として絞首刑に処された人々は、1978年10月から靖国神社に“昭和受難者”として合祀された。また、国内法では「刑死」ではなく「公務死」の扱いになって
おり、1953年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。それなりに名誉が回復されたわけである。

なお、B、C級戦犯として約5600人が、横浜以外に上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所で逮捕、投獄され、裁判の体をなしていない軍事裁判にかけられて約1000名が戦犯の名のもとに処刑された。

横浜以外で行われた裁判は、私刑であったといっても過言ではない。
以上からして、極東国際軍事裁判は、構成上及び制度上の疑義と裁判そのものの
正当性の疑義の両面から認めることはできない。
百歩譲って裁判を認めたとしても、近代法の理念に基づけば、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅する。従って処刑されたA級戦犯は、現在では犯罪者ではない。
戦犯の名誉回復は日本の主権に属する問題である。また日本の国内法上において、そもそも「戦犯」という用語を用いた規定は存在しない。
したがって、靖国神社にA級戦犯とされた人々が合祀されていても、国内はもちろん外国からもとやかく言われる所以は全くない。また、日本国総理大臣が参拝しても何の問題もない。

・・・最後に、米軍の無差別爆撃による日本の非戦闘員の被害は以下のとおりである。
東京大空襲の被害者は死者10万人(推定)
広島の原爆被害者は死者約14万人(誤差±1万人)
長崎の原爆被害者は死者7.5万人
その他の空襲による死者20万人
これに対して、ジョン・F・ケネディ政権で国防長官だったマクナマラは何と回顧しているか。
マクナマラは経営管理の理論を戦争に応用。攻撃効率を高めるため、統計を取り、分析する。だが彼の報告書を元に、日本に無差別絨毯爆撃が行われた。指揮官は後に広島・長崎に原爆を落としたカーティス・E・ルメイ少将。
「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
THE FOG OF WAR(マクナマラ元米国防長官の告白)


******************************


読み終わり、何度も読み返し、蘭太郎は終始無言だった。
そして振り絞るように、
「(A級戦犯の)遺体を家族に返さずに、東京湾に捨てたのか…!」
「文官としては唯一の、A級戦犯として処刑された広田弘毅の妻は、捕えられた夫が後顧の憂い無きよう、思い出の地で自ら命を絶った。二人は幼馴染だった…。戦後日本を占領したGHQは、靖国神社を破壊し、ドッグランにしようとしていた」
「ドッグラン!」蘭太郎は絶句した。アメリカの黒船来襲以来、日本のために命を捧げた人達を祀っている神社を、ドッグランに・・・! 「お前たちは、負け犬・・・いや、犬以下だということか・・・」
駅まで続く長い道を、二人は黙って歩いた。夕闇が迫り、時折冬を思わせるような冷たい風が吹き過ぎた。
蘭太郎は、神風特別攻撃隊が遺した言葉を思い出していた。
「アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう」
戦争は、終わってはいない、日本は、負け続けている。A級戦犯がと騒いでいるマスコミ、政治家、教科書に至るまで、敵の手の中に堕ちている・・・。蘭太郎は拳を握りしめた。

門馬は考えていた。米軍の無差別爆撃により、無残に殺された日本人、その数何と50数万人・・・。そうか、だからいわゆる南京大虐殺が必要だったのだ。戦時下の日本人は、その罪を我が身をもって償わなければならなかったとする為に。アメリカが無辜の民を50万人以上も焼き殺した大罪は、虚構の「南京大虐殺」に真っ黒に塗りつぶされ、歴史の闇の中に葬り去られるであろう。
だが恐るべきことに、捏造された「南京大虐殺」は、世界の歴史となり常識となり、日本人による史上最も凶悪な悪魔の所業として、永遠に記憶され続ける。
我が国において、最大にして最強の権力を誇るマスコミは、「言論の自由」「報道しない自由」を振りかざし、時に「印象操作」を駆使し、「捏造」することさえ厭わず、日々、日本人を洗脳し続ける。
このように・・・。
日本人であることを恥ずかしく思え。
誇りなど、断じてもってはならない。
平和憲法を守り、丸腰のままでいろ。
常に卑屈であれ。
核兵器を持とうなどと、夢にも考えてはならない。
原爆を投下された日本は、世界平和のため、永久に反省し続けなければならない。
周辺諸国に何をされても「大人の対応をし」「粘り強く話し合いを続け」、されるがままでいろ。
何故なら、かつて日本人は恐ろしい罪を犯したのだから。
世界中、特にアジア諸国に、史上他に類を見ないほどの苦痛と厄災をもたらしたのだから。だから赦しを乞い続けろ。
戦争犯罪者を祀った靖国神社に総理大臣の参拝など、言語道断。
日本人は悪魔のような民族であり、自分たちの体の中には凶悪で卑劣な犯罪者の血が脈々と流れていることを、決して忘れてはならない・・・。

思わず門馬は笑いだしそうになった。まるで、敵国の報道機関そのものではないか。同時に恐ろしさに身震いする。
あなた方の祖先は猿真似で中国から朝鮮半島を通してありとあらゆることを教えてもらった挙句、調子に乗って朝鮮半島を手に入れ女性は性奴隷にし、中国では民間人を残虐に殺しまくった、恩知らずで恥知らずな、その子供たちです、と教科書やマスコミから朝から晩まで吹き込まれ続けて、まともな人間に育つだろうか。まともな人間を育てられるだろうか・・・?
痛ましい「児童虐待」のニュースに接するたび、心が塞がれる。
先祖を敬えない、ゆえに誇りを持てない、自分自身を愛せない、ゆえに我が子を愛せない、さまよえる魂が悪魔となる・・・。戦争は確かに悲惨だが、親に虐待されながら殺されていく子供たちよりも悲惨な境遇が、この世に存在するだろうか?
一生のうちで最も愛され祝福され、一番幸福な時間を過ごすはずの幼少期を地獄に変える。「児童虐待」は、自虐史観の最も忌まわしい「成果」なのではないか・・・。
だが、悪夢はもうすぐ終わる。いや、終わらせなければならない。
まさに、インターネットは救世主であったのだ。

もし、原爆の開発がもう少し早かったなら、日本によるアジア人の解放は成し遂げられなかったであろう。世界は、白人による有色人種の支配という構造が、恐らく永久に続いたであろう。
もし、インターネットが開発されなかったなら、日本人は未来永劫、自虐史観に囚われ、贖罪意識に苛まれ、日本人に生まれてきたことを心のどこかで呪いながら生きていったことだろう・・・。

いつの間にか、駅に着いていた。あちらこちらに明かりがともり、賑やかに人々が行き交う、路線バスがゆるやかに音を立てて走っていく、普通の日常の、ありふれた駅前の光景。それらをもたらしてくれたのが、「命よりも大切なもの」を知っていた先人たちであると、その人たちの孫や子供たちは、、それを知らない。知らされることなく、生きている。

「門馬君?」
蘭太郎の声に、門馬は我に返った。
「次は、倭寇の話を詳しく聞かせてくれないか? 日本人が海賊で暴れまわったというのは、本当のことなのか? 日本近海は昔、今とは真逆の状態だったということか。今は、中国北朝鮮の船から日本が被害をこうむっているが。日本史の教科書は日本人=悪と思いこませる、それが目的で作られているのではないか?」 だがもし日本人が本当に悪魔なら、悪に再び目覚めることを心底恐れ、あなた方は。本当は心優しい民族ですと、美しい言葉を散りばめた歴史教科書を敵は与えるのではないだろうか。 もしかしたら、日本人が善良な民族であると、誰よりも信じているのは・・・。
いつもの蘭太郎と、どこか違う、そう思いながら、門馬は記憶をたぐり寄せた。そう言えば、元寇との絡みで、倭寇はその復讐であると蘭太郎には簡単に説明してしまった。肝心なことは、ひとつひとつ丁寧に伝えていかなければ・・・。
「元寇の時には言及しなかったが、倭寇は前期倭寇と後期倭寇に分けられ、後期倭寇のボスは中国人だ。その話の続きは、また・・・」
蘭太郎と別れ、駅のホームへと続く階段を上りながら、門馬は考えていた。思うに、どうしてこうも日本人は次から次へと濡れ衣を着せられ続けるのだろう。その濡れ衣をひとつひとう晴らすため、長い年月と気の遠くなるような地道な検証が必要となるのだろう。自分にはもう時間が無い。体がもうそろそろ限界に近づいている・・・。
「門馬!」
蘭太郎の声に門馬は振り返った。
「明日も会えるかな!」
門馬は頷いた。
「また、明日!」
そう言って、蘭太郎が大きく手を振るのが見えた。
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RAN 第2章

門馬は自分のパソコンを開くと、暗い窓の外を見た。
かつて、日本が全世界を敵に回すかのような無謀な戦いに突入していった。日本人は何に戦いを挑み、何と必死に戦ったのか、その正体を暴かなければならない。 16世紀、インカ帝国をあっという間に滅ぼしたとされるピサロ(インカ皇帝の身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、約束を反故にして処刑した)のことは知ってはいたが…。死屍累々であろうことは容易に想像していたが…。門馬は深いため息をひとつもらすと、あるサイトを開いた。

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叡智の禁書図書館<情報と書評>
ダ・ヴィンチ・コード関連情報の探索と濫読書評のブログ  by alice-room
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 ラスカサス著

何かの本で紹介されていて気になっていた本。会社休んで神田の古書店街をうろついていてGETしました。
コロンブスが新大陸を発見後、スペイン人が続々とおとずれ、原住民のインディオ達を虐殺しまくり、金を奪い、人々を奴隷として虐げるまさに『生き地獄』が始まる。本書はスペイン本国には届かない(隠されたいた征服行為の実態を)そういった非道の行為をスペイン国王に訴え、直ちに禁止しようと働きかける為に書かれたレポートです。

本書を書いたのはカトリックのドミニコ会の聖職者。

著者はスペイン人の侵略者と混じって現地へ布教を目的に渡ったものの、大陸で見たものは、キリスト教の福音を広めるどころか、悪魔そのものの行動で原住民のインディオを略奪、拷問、虐殺するスペイン人の同胞達。

インディオにとって、キリスト教・キリスト教徒とは、悪魔の宗教とその僕に他ならず、この世の楽園のような平和が『金』を求める侵略者に蹂躙される様を数十年に渡って見続け、あまりの理不尽さと憐れみから、インディオ達によるスペイン人の殺害さえも正義の行為と看做すなど、当時にあっては、むしろ例外的な存在だった人物だったようです。
本書を読むと、その半端ではない侵略行為の凄まじさに言葉を失います。
本来はキリスト教の福音を広める為という建前の下で植民者へ付与された権利は捻じ曲げられ、ひたすら『金』と『奴隷』獲得を目的とする侵略行為を正当化に使われます。

実際、彼らが行った結果は、数百万、数十万人のインディオが住んでいた島々を全滅させ、あるいは数十人しか生き残っていない状態にまでしました。島は荒廃し、この世の楽園は見るも無残な生き地獄と化したのです。

しかもそれを行ったスペイン人は、厳しい航海で生死の境にあった時に、無償で食料と住居を提供してくれた非常に慈悲深いインディオ達に対して、その返礼として為されたのでした。

原住民のインディオは、非常に穏健且つ従順であり、また善良であったが故に、スペイン人の求めるままに食料や金まで差し出したのですが、彼等はより多くのものを求め、効率良く『金』を集める為に、人々を虐殺したのです。

本書では彼らが為した極悪非道の所業が延々と羅列されています。現実の役に立つとは思えない道徳の教科書よりは、本書を一読することをお薦めしますね。いかほども教育効果が高いでしょう。戦争はいけないとか、正義とか、立派なお題目はさておき、『正義』は勝ち取ってこその正義であります。イエーリングの「権利のための闘争」を読むまでもありません。現実の世界に、水戸黄門や遠山の金さんはいないのです。(ランボーもいませんけどね)

『大航海時代』なんて、所詮、こんなもんです。某国が石油利権の為に堂々と侵略戦争を行って未だに撤退しないのと五十歩百歩の行動原理です。利益の為に、人は大胆且つリスクテーカーとして行動するのであって、決して善意の為ではありません(例外はあるし、否定はしませんが・・・)。人の行動は今も昔も変わりません。

正義ではなくて、強者が勝つんだなあ~と思いました(勝てば官軍って訳です!)。欲望への執着心こそ、最強の行動原理かもしれませんね。

だからといって、正義を踏みにじって利益の為に邁進するのも私の人生哲学に反するのでできませんが、負け惜しみで綺麗事の『正義』を主張するのもいかがなものかと思います。

世界史の副読本として、こういうの読まないとねぇ~。世界史の先生自体が世界を知らないのでは話になりませんが・・・。まあ、期待してはいけないかも?

まあ、論より証拠で本文より印象に残った部分を抜粋してみます。実はあまりにも凄過ぎてキリがないのですが・・・。
ある日、ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出掛けた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹をすかしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた、犬がそれを食い尽くすと、さらに彼はその小さな胴体と投げ与えた。
無法者のドイツ人総督はインディオをその妻子をできるだけ大勢捕らえるよう命じた。そこで部下たちは特別に作っておいた大きな囲いのような木の柵の中へインディオ達を閉じ込めた。邪悪な総督は、そこから出て自由になりたい者は身代金として一定量の金を差し出さなければならないと知らせた。同じように、妻や子を身請けしなけれなかった。総督はインディオ達を一層苦しめようと考え、要求した身代金を持参するまでは彼らに食事をいっさい与えてはならないと命じた。大勢のインディオは、使いの者を金を取りに家へやり、そうして、それぞれがあるだけの金を差し出し、自由を取り戻した。このようにして解放されたインディオ達は畑は戻り、食事の用意をするために家へ帰った。

ところが、その無法者はこうして一度自由の身となった哀れなインディオたちをふたたび捕らえるために、数人のスペイン人略奪者を派遣した。彼等はインディオたちを元の囲いへ連れ戻し、ふたたび身請けされるまで、彼らに飢えと渇きの苦しみを味わわせた。インディオたちの中にはニ、三度捕らえられ、その都度身請けされた者もいたし、また、持っていた金を既に残らず差し出してしまっていたために、もはやそれも叶わず、まったく身代金も無い者もいた。無法者は彼らをずっと囲いの中に閉じ込めておいたので彼等は餓死してしまった。
彼は奥地へと遠征し、無数のインディオを連行したが、インディオたちは鎖に繋がれ、重さ3、4アローバの荷物を担がされた。なかには空腹と過酷な仕事、それに生来の虚弱さのために疲労し、気をうしなったりするインディオたちが幾人かいた。その時、彼等は一番外側の首枷につないだインディオたちをいちいち止めて鎖を外すのが面倒なので、即座に、倒れたインディオの首枷の辺りを斬りつけた。すると、首と胴体はそれぞれ別の方向へ転げ落ちた。彼等はそのインディオが担いでいた荷物を沸け、ほかのインディオたちの荷物のうえにのせた。
既述したとおり、スペイン人たちはインディオたちを殺し、八つ裂きにするために獰猛で凶暴な犬を仕込み、飼いならしていた。真のキリスト教徒である人々、また、そうでない人も彼らがその犬のえさとして大勢のインディオを鎖につないで道中連れて歩いたという事実を知っていただきたい。おそらく、そのような行為をこれまでに耳にしたことはないであろう。インディオたちはまるで豚の群れと変わらなかった。スペイン人たちはインディオたちを殺し、その肉を公然と売っていた。「申し訳ないが、拙者が別な奴を殺すまで、どれでもいいからその辺の奴の四半分ほど貸してくれ。犬に食べさせてやりたいのだ」と、まるで豚か羊の肉の四半分を貸し借りするように、彼等は話し合っていた。

別のスペイン人たちは、朝、犬を連れて狩りに出掛け、昼食を取りに戻り、そこで互いに狩の成果を尋ねあう。すると、ある者は「上々だ。拙者の犬は十五、二十人ぐらい奴らを食い殺したよ」と答えていた。島々では、牝馬一頭につき、理性を備えた人間であるインディオの八十名が交換された。
その無法者はいつも次のような手口を用いた。村や地方へ戦いをしかけに行く時、からは既にスペイン人たちに降伏していたインディオたちをできるだけ大勢連れて行き、彼らを他のインディオたちと戦わせた。彼はだいたい一万人か二万人のインディオを連れて行ったが、彼らには食事を与えなかった。その代わり、彼はそのインディオたちに、彼らが捕まえたインディオたちを食べるのを許していた。そういうわけで、彼の陣営の中には、人肉を売る店が現われ、そこでは彼の立会いのもとで子供が殺され、焼かれ、また、男が手足を切断されて殺された。人体の中でもっとも美味とされるのが手足だったからである。ほかの地方に住むインディオたちはみなその非道ぶりを耳にして恐れのあまり、どこに身を隠してよいか判らなくなった。

ローマ皇帝のネロもまだ良心的に感じられてしまいます。人ってここまで卑しくなれるんですね。他にも国王から金を根こそぎ絞り取る為に、拷問に次ぐ拷問をする話や、王妃を乱暴して陵辱し、殺す話など、いくら過去のことはいえ、鬱になりそうな話が載っています。

それがあの華々しい大航海時代、スペインの繁栄だったりするわけです。ルネサンスももうすぐだしね。

極論すれば、世界史なんて本書の本を一冊読んだ方が得られるものが多いような気がします。教科書の内容はすぐ忘れますが、本書の内容を忘れられる人はなかなかいないでしょう。

日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね。まあ、リアルタイムでパックス・アメリカーナも大差ないことしてますけど・・・。

いろいろと勉強になる一冊でした。

そうそう、面白いことに本書はその後の歴史で、当初の意図とは全く異なる使われ方をしたそうです。最初は、西欧諸国によるスペイン支配への反対の資料として。また、アメリカ独立戦争や第二次大戦後のアフリカにおける植民地の独立運動など、多彩な方面で本書がたびたび採り上げられたそうです。

実際に、スペインで禁書にされたようで、うちのブログで扱うにはうってつけだったりする(・・・って、オイ)。

う~ん、歴史って予想もつかないもんです。あまりにも酷過ぎる描写故に、インパクトがあるのでその時代時代で都合のいいように利用されたんでしょうね。
でも、そういった経緯は別にしても読んでおいて悪くない本です。人というものについて、改めて考えさせられることが多い本です。

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暗澹たる思いで、門馬はそのサイトを閉じた。
「それにしても」
大多数の日本人の頭の中は、洗脳教育により、惨たらしく何十万人もの人々を虐殺する日本兵の姿が刷り込まれ、思考停止状態になっている…。
えっ・・・?
 「日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね」
ひょっとして、ここの管理人はこれを刷り込みたくて、この本の紹介をしたのか? いや、自分も蘭太郎に「倭寇」のことを、軽率に日本の海賊だと伝えてしまっていた・・・。
どちらにしても、人間なんて一皮むけば、みんな同じだという諦念が心の中にあるのだろう。
かつての日本は「阿片」の密輸でもうけていたのか? 満州帝国はそれで成り立っていたのか?
満州帝国、阿片、密輸・・・。
何と、禍々しい響きだろう。
満州とは国だったのか?
満州はあの有名な万里の長城の外にあるはずだ・・・。
「満州、阿片」をしらべるだけでも、深い暗い迷宮に迷いこみそうだ。
・・・日本は、リーマンブラザーズから借りた日露戦争の借金を1986年までかかって返した。
情けないことに頭の固い外交官のせいで、真珠湾攻撃の前に宣戦布告が間に合わなかった。
サンフランシスコ講和条約第11条第2項で、 東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになっており、日本はこれをまじめに取り組み、関係各国に働きかけ、戦犯の釈放を昭和31年、昭和33年に正式に勝ち取った。
こういう国民性を愚直というのだろう。
そんな日本人が阿片を「密輸」するか?
「いや、するはずがない」
蘭太郎なら、即座にそう答えるだろう。
歴史をみれば今が分かり、今を見れば歴史が分かる。
日本に立ちはだかるアメリカを見ていると、東京湾に突如出現し、威嚇しながら開国を迫った黒船の姿と重なる。黒船来航で日本中は大混乱に陥った。水戸藩においては特に深刻で、開国か攘夷か二派に分かれ血で血を洗う争いに発展し、一族皆殺し、そしてその復讐という凄惨な状況を生み出していった。(ちなみに黒船来航は1853年、大政奉還は1867年のことだ)
そんな状況の中、最後の将軍、徳川慶喜は疲労困憊し、医師から処方された阿片という薬に助けられたのだ。もし「阿片」が悪ならば、慶喜に処方されなかっただろうし、たとえされたとしても、それは秘中の秘にされ、歴史に残ることは無かったであろう。
昔は貴重で高価だった阿片が、科学技術の進歩により、安価になり純度の高い薬物に変化していったことは想像にかたくない。
現在では、1912年のハーグ阿片条約、これを引き継ぐ1961年の麻薬に関する単一条約において国際統制下にある。

阿片といえば「阿片戦争」(1840年から2年間)が思い浮かぶ・・・。

 
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大和心を語るねずさんのひとりごと

阿片戦争

阿片(アヘン)戦争といえば、多くの人々の一般的認識は「日本の幕末の頃、大英帝国が支那に阿片を無理矢理売り付けようとして起こした侵略戦争」というものであろうと思います。

実際はどうだったのでしょうか。

なるほど当時の英国が、植民地主義国家であったことは事実です。
けれど本当に英国は、支那人を麻薬漬けにするために阿片を大量に支那に持ち込んでいたのでしょうか。

実際はどうだったのでしょうか。
歴史は、現在の価値観で図ろうとすると、大きな間違いを犯すことになります。
当時の時代背景を、まずよくみてみないといけない。
そういう目でこの時代を見ると、実はこの当時、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬類」の販売、所持、吸引など、まったく規制外であったことがわかります。

たとえば、有名なシャーロック・ホームズは、コカイン常習者です。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、薬物で酩酊状態になったときの世界観を表現した小説とされています。

なかでも阿片についていえば、当時は麻薬ではなく、むしろ沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、普通にそこらで売られていた商品でした。
そもそも当時の阿片は、精製がさほどよくありません。

阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされています。
5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が、芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前には、芥子はヨーロッパや、中東、中央アフリカなどで広く栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書で明らかになっています。
いずれも、麻薬や金儲けのための薬物としてではなく、鎮痛剤や、睡眠導入剤として、普及していたものです。
阿片は、シルクロードを経由して、支那に医薬品として持ち込まれています。
三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬が、阿片です。

阿片が日本にやってきたのは、室町時代のことで、支那からもたらされています。
当時の日本では、阿片は「阿芙蓉(あふよう)」と呼ばれ、医療用の鎮痛剤として、ほんの少量流通していたにすぎません。
阿片が、日本国内に広く普及するようになったのは、幕末の頃です。

江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心で、全国的に広く普及したのでしょう。

さて、こうして鎮痛のための特効薬としての阿片は、1830年代には、世界貿易の主役となりました。
とりわけ大英帝国の東インド会社が精製したインド・ベンガル産の阿片は、とびきり品質が良く、効き目の高い特産品として世界中に広く輸出されました。
誤解をしてはいけないので、くどく書いておきますが、悪質な麻薬としてではなく、あくまで健全な医薬品として流通していたのです。

医薬品というのは、少量でも高単価です。
しかも栽培地が植民地で、極端に安い土地と労働力で栽培された阿片は、原価が極端に低く、しかも単価が高く、貿易用商品としては、極端に効率性の良い商売だったわけです。
おかげで東インド会社は、ベンガル阿片でたいへんな利益をあげています。
このように阿片は、国際貿易の主力商品だったわけですから、当然英国は支那に大量の阿片を輸出し、販売します。
繰り返しますが、当時阿片は合法的な医薬品です。

けれど、このことが大きな問題をひき起したのです。
だいたい他の誰かが大もうけしていると知ると、すぐにそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で売りまくるのが今も昔も変わらない、支那人です。
支那人たちは、阿片が儲かると知ると、芥子を支那国内で大量に栽培し、英国の阿片の半値で売りまくったのです。
ただし、粗悪品です。
これだけなら、まだ良かったのです。
問題は、その商売のやり方です。

英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。

これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。
こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。
それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。
英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。
これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。
こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。

それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。

当時、英国は陶磁器や茶などを支那から大量に買い付けていました。
一方で良質な阿片を支那に販売していたわけです。

ところが、英国産阿片がたいへんな人気となったことから、英国側の貿易収支は、当然大黒字、支那からみれば、対英貿易は大赤字です。
貿易通貨としての銀が、支那から大量に流出してしまう。

当時の支那政府は、清朝です。
このことに青くなった清朝政府は、二つの理由から、阿片の輸入の規制に乗り出します。

ひとつは、国内産の阿片商売の独占のため。
もうひとつは、銀の流出阻止のため。

そして阿片問題解決のための特命大臣に林則徐を任命し、上海に向かわせます。

さて、「なるほど。政府が規制したのなら英国産の阿片は、輸入が相当減ったのだろうなあ」
そう思うのが、日本人のお人好しなところです。
支那では、そうは問屋が卸さない。

中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けしたのです。
特命大臣の林則徐などは、まさにこれで大儲けしました。

結局、官僚たちの賄賂の分だけ、支那国内で流通する英国産阿片の値が高くなっただけで、阿片の流通はまるで止まらない。当然、清国内の銀の流出も止まらない。

こうなるといきなり過激になるのも、支那の特徴です。
なんと清朝政府は、天保9(1838)年、英国産阿片を吸引した者は死刑にするというお布令を出したのです。
要するに、英国産の阿片は使うな。使うなら支那産の阿片を使え、というわけです。

これでは英国の東インド会社は、商売になりません。
当然特命大臣の林則徐に猛抗議します。

けれど今度は林則徐も強硬です。
「今後一切阿片を清国に持ち込まないと誓約書を差し出せ」と英国側に申し入れたのです。

支那人にとっては、誓約書というのは、一時しのぎのための建前のための紙でしかない、というのが常識です。
別に、紙くらい、いくらでも書けば良いではないか、と彼らは考える。

けれど、西欧社会では、誓約書を差し出すことは、イコール、契約を交わすことです。
破れば法外な損害賠償を請求されると考えます。

つまり、誓約書を差し出すことは、今後の商売そのものの根幹にかかわると考える。
当然、英国は、これを拒否します。

ところが、民間貿易というのは複雑なもので、同じ英国商船でも、トマス・カウツという商船は、阿片以外の商材を扱っていたことから、ハイハイと、気軽に誓約書を書いてしまった。
トマス・カウスが書いたのに、なぜ他の船は書けないのか。
清国官僚の林則徐にしてみれば、実に不思議不思議なことでしかありません。
貿易は貿易、あくまで誓約書だけは先に出しなさいと、さらに強硬に英国側に申し入れます。

英国にしてみれば、阿片を規制してこれまでさんざん法外な賄賂をとったあげく、こんどは誓約書を差し出せ、阿片交易に関わりのない船が誓約書を出したのだから、他の船も誓約書を出せ。
誓約書を書いたら、今度は何を要求されるのかわかったものではありません。

当時、英国政府を代表して対清国貿易の観察を行っていたチャールズ・エリオット卿は、他の商船までトマス号に便乗して誓約書を出そうとしたから、これを軍艦を出して引き止めます。
ところが、清国特命大臣の林則徐は、これに対して、口頭で拒否します、と答えます。
エリオット卿は、国家を代表して書面で要望書を出したのです。
これを、夜郎自大にも、口頭で回答した。
まさに失礼千万です。

そもそも、昔の国際交易というのは、根底に法がありません。
約束を守らないなら、武力をもってお答えする、という軍事力が背景となって国際貿易の安全性が担保されていたのが、19世紀の国際交易です。

チャールズ卿は、事態の趨勢を英国議会に報告します。
英国議会は賛成多数で清国に対する武力による威嚇を承認します。
そして天保9(1838)年11月3日に、勃発したのが、阿片戦争なのです。

戦後の日本は、ちゃんとした歴史観を失った国となってしまいました。
歴史を取り戻すこと。
それは日本が覚醒する第一歩なのではないかと思っています・・・。

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我が敬愛する後藤新平の、阿片に関する秀逸なエピソードを紹介しよう。
そしてもう一つ・・・。

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後藤新平 - Wikipediaより 

阿片漸禁策
当時は中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。

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「船戸与一を読む」より

満洲国の経営はどれほど阿片に頼ったのか?
2016年06月03日

 満洲国演義では、特に前半に阿片からの収入で国家財政と戦費を賄った話がよく出てくる。船戸与一氏は文献をよく調べて書いているのでもちろん事実なのだろうが、公的文書などで事実を確かめられるものはないだろうか、とネットで調べてみた。
 今回は満洲国財政がどれほど阿片に頼ったのかを確かめてみたい。

 よくまとまった資料としてヒットしたのが北海道大学の経済学研究論文、「「満州国」特別会計予算の一考察」である。一般会計のデータがないので全体像が掴めないものの、特別会計の中に専売事業もしくは阿片専売事業を見つけることができる。

 阿片専売事業の推移を見てみると、1932年に専売事業1本で表示されていたものが、阿片専売や投資、煤油類専売などに分けて表示されたり統合されたりしている。阿片専売がそれ単独で表示されているのは1935年と1936年の2年のみであり、それ以外の年は専売事業の一構成要素とされている。阿片専売事業の1935年の収入額は1461万円、1936年の収入額は3,769万円となっている。
ただし、1935年は元号変更の影響により7月から12月まで半年分の予算が組まれているので、収入は半分になっている。したがって、1936年のデータだけが唯一1年分の阿片専売事業の収入を示している。

 次に1936年の予算の全体像を見てみよう。これは「近代デジタルライブラリー」サイトの「満洲国大系」から確認することができた。この予算書に載っている阿片専売収入は上の研究論文の数字と一致している。原本はこちらを参照されたい。

 一般会計の予算書によれば、1936年における一般会計の収入総額(予算)は2億19百万円である。このうち専売利益全体の繰入合計は13百万円であり、阿片専売のみの繰入金は示されていない。
 次に阿片専売事業の収支を見てみよう。
 阿片専売事業は3,769万円の収入に対し支出は3,213万円(利益556万円)となっている。この支出が一般会計への繰入分を含んでいるのかどうかは特別会計の繰越金が表示されていないため残念ながら特定できない。ここでは含まれているものと仮定する。
 阿片専売事業から一般会計への繰入額の過去実績をみると、前年度の繰入2百万円(半年分)、前前年度の繰入4百万円(1年分)である。1936年も同様だとすると阿片専売のみの利益は多くとも10百万円以下(4百万円+556万円)であったと推察される。

 この事実から、1936年の阿片専売に対する財政依存度は最大限に多く見積もっても5%程度(=10百万円÷2億19百万円)であり、阿片専売に頼って国家運営をしていた、とまでは言えないであろう。

 それでは満洲国の財源はどこにあったのだろうか?
 1936年の税金収入予算は1億70百万円であり、総予算の実に78%は税金で賄われている。また、国債はたったの10百万円に過ぎない。

 以上をまとめると、満州国の財政の阿片専売利益依存度は思ったほど高くはなく、主に税金収入を財源としていたのである。

posted by さすらい人 at 10:00|Comment(0)|まとめふう・・・。

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門馬は深いため息をついた。
満州国、阿片、密輸で、こんなにも心が乱れ、折れそうになるとは思いもよらなかった。
他の国のことなら人間なんてそんなものさと、大きく構えていられるのに。自分は心が狭いのか?

そういえば、イギリスでは阿片戦争をどう教えているのだろうか・・・。

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ヤフー知恵袋より
「アヘン戦争」は、イギリスの歴史の授業ではどういうふうに教えられていますか?

ベストアンサーに選ばれた回答

cider_kondoさん
2011/2/615:51:28
まず、「教えていない」はデマです。
イギリスの各歴史教科書(正確に言うとちょっと違うんですが)の目次が訳出されており、Stanley Thornes社の教科書の場合にはちゃんとアヘン戦争という項目名が出ています。他社でも奴隷貿易とか都市の不潔であるとか、いわゆる負の側面にスポットを当てた項目がたいてい入っています。
そもそもイギリスには教科書検定制度がありません。また、いわゆる学習指導要綱にあたるものの拘束性もかなり低いものです。
日本ですと教科書が全ての基盤ですが、イギリスの場合は「たくさん使う資料の中で一応の主役っぽいもの」程度です。

これは、歴史教育の狙いは2007年版のNational curriculumを見ても、やはり、多元性を重視する内容になっており、要するに歴史が答えの決まった一本道ではなく、いろいろな見方があって、そういう思考力を養うために重要な科目だ、という位置づけになっているためです。

以下略

ベストアンサー以外の回答

usakura23さん
2011/2/611:46:52.
教えられていないようです。
>[10:イギリスの教科書記述 ]
>中国侵略、ホンコン領有のきっかけとなった アヘン戦争について、イギリスの教科書ではどのように扱っているのかご存じですか?。じつは ほとんどの教科書では、アヘン戦争について 触れられていないのです。それだけでなく アジア、アフリカ、カリブ海地方などで、多数の住民を植民地支配したことについても、
>「 植民地を設けるという意味での帝国主義は、何世紀にもわたって ヨーロッパの国々がよくやってきていたことであった。大砲と軍艦を持ち、 規律と組織性に優れた ヨーロッパ人は、つねに 非 ヨーロッパ人種を屈服させる ことが出来たのである。」、 ( 歴史はどう教えられているか 、NHK BOOKs から )。
>と書かれていましたが、そこには日本のように過去の植民地支配に対する、 自虐史観や贖罪意識 などは全く存在せず、ヨーロッパの白人種が強く、優れていたからこそ 有色人種 を植民地支配できたのだとしていました。

mekuriya394さん
2011/2/611:09:18
教えていません。アヘン戦争は無かったことになっています。日本だって教えていないことは山ほどある。無邪気な子供たちが何もしらないだけです。

toeuryantheさん
2011/2/610:18:10
まあ、ごく単純に、年度が書いてあるだけでしょう。

arai034blueさん
2011/2/607:13:45
どの国でも都合の悪いことは教えません。それを暴きたがるのは、そのことで利益のある外国です。

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「人間なんて、みんな似たり寄ったりさ。スペイン人がインディオたちにしたことを、日本人だって中国人にしてたんだ。だから日本人は恨まれて当たり前、1000年たっても許してもらえるはずもない。日本人に生まれてきたというだけで心の中に闇を抱え、生きていかなければならない…」
日本人の中の日本人、普通の善良な人々ほど、そう、思い込んでいる。
中国韓国から理不尽な要求をされても、受け入れなければならない。罪滅ぼしのために…、いつかは許してくれると信じて…。
「南京大虐殺」
「従軍慰安婦」
この忌まわしい濡れ衣を今晴らさなければ、未来永劫、何世紀にも渡って我々の子々孫々に祟るであろう。
恐るべきことに、すでにその兆候は表れている。。
日本中を震撼させた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1989年)
その数年前、「従軍慰安婦問題」、朝日新聞による捏造報道があった。単なる戦時売春婦としての実態からかけ離れた「性奴隷」の物語をマスコミはセンセーショナルに取り上げた。
「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などの反日プロパガンダが、少年たちの精神に異常な影響を与えたであろうことは否定できない。もし犯人の少年たちが生粋の日本人であるならば、自分たちも同様のことをしてみたいという欲望に駆られて、もしそうでないならば、日本人に対する復讐劇として、事件は起こった。
 
新聞というものはいつの時代も、国民を間違った方向に導こうとするものなのか? 「サラエボの悲劇」も、新聞報道が扇動し火をつけた。かつて、サッカー元日本代表監督のオシムは述懐している。
惨殺された、女子高校生の断末魔の叫びが聞こえるか? マスコミで働く人たちは、自分の子供や孫やその子供たちに恐ろしい厄災が降りかかる、そのことに考えが及ばないのか?
こんな腐ったマスコミこそ、日本の永久戦犯ではないのか!

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が、事実であるのか、そうではないのかと延々と論じる前に、そこには、最も大切な「教育」という観点がすっぽり抜け落ちている。
本来、無邪気で天使のようであるべき(中国の)子供たちは、反日教育という毒(憎しみ)を吹き込まれ、モンスターに育てられている。
これらの悪意によって、日本人がいかに不利益を被るか、危険にさらされているか、想像するだけで恐ろしい。海外で日本人が巻き込まれる悲劇的な事件、もしかしたら、その大半は…。

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日本人小学生の放った言葉に中国人家族が絶句、「われわれの愛国教育は間違っていた!」―中国メディア
Record China 1月13日(月)0時10分配信


2014年1月8日、中国のゆがんだ愛国主義教育が、純粋な子供の心をねじ曲げてしまったことを如実に示すエピソードを、中国人ユーザーが軍事関連ネット掲示板・米尓社区に投稿した。以下はその内容。

日本人男性と結婚した従姉が、夫と彼の親戚の男の子を連れて中国に里帰りした。男の子は俊夫という名の小学校1年生。見知らぬ国で言葉の通じない人々に囲まれて、とても緊張している様子だったが、一生懸命カタコトの中国語で私たちに挨拶し、深々とお辞儀をした。その姿がとても愛らしく、私たちはいっぺんで俊夫のことが大好きになった。

だが、その従姉の一番上の姉の子、小学3年生の鵬鵬(ポンポン)だけは違った。最初から敵意むき出しの顔で俊夫をにらみつけ、こぶしを振り上げると「打倒小日本(ちっぽけな日本をやっつけろ)!」と叫んだのだ。これには俊夫も周りの大人もビックリ。鵬鵬の父親が彼を叱ると、「だって、日本人は中国人の敵じゃないか!学校の先生もそう言ってたもん。パパたちは中国を愛してないんだ!」と言って泣き出した。そこで、「先生が言っているのは歴史だ。今は日本と仲良くしなきゃ。それに俊夫は私たちの大切なお客さんなんだから」と言い聞かせると、「じゃあ、パパやママはなぜ毎日、日本が中国の土地を奪ったから日本製品をボイコットするなんて言ってるんだよ?学校で見せられた教育アニメでも、日本帝国主義を打倒しろって言ってたよ!」と反論した。

幸いなことに、中国語の分からない俊夫に鵬鵬と父親の会話の中身を知られることはなかった。俊夫は本当にいい子で、自分でできることは自分で全部する。礼儀正しく、大人を敬い、食事の際は全員が箸をとり、従姉が日本語で「いただきます」と言ってから、自分の箸をとる。それに比べて、鵬鵬はどうだ。部屋は汚い。自分では何もしない。食事は当然のように自分が好きな料理を一人占めし、彼を溺愛する大人たちもわざわざ好物を取り分けてやる。

私たちは「鵬鵬が俊夫みたいだったらいいのに」と心から思ったものだ。そんな鵬鵬もだんだん俊夫に打ち解け、2人で遊ぶことも多くなった。お互いに日本語や中国を教え合っている姿を見て、「やっぱり、子供は子供同士だ」と安心した。

最後の晩、従姉とその夫は買い物に出かけていて、私たちはみんなでテレビを見ていた。そこへ鵬鵬が得意げな顔で俊夫を連れてきて「俊夫がみんなに言いたいことがあるって」と言った。俊夫は顔を赤くしながら恥ずかしそうにほほ笑んで、たどたどしい中国語でこう言った。

「僕は死んで当然の日本人です。僕は中国人に謝ります」

俊夫のこの言葉にその場の大人たちは全員凍りついた。鵬鵬の父親はすぐさま彼をトイレに引きずって行き、中から「パン!」と引っぱたく大きな音が聞こえた。真相はこうだ。鵬鵬は俊夫に「みんなが喜ぶ言葉がある」とだまして、あの言葉を覚えさせたのだ。

こんな小さな子供がここまで日本を憎むとは、あまりにもおかしい。鵬鵬の愛国観はすでにゆがんでしまっている。善良で純粋で友好的な日本の子供を前にして、中国の子供がどれほど恐ろしい敵意と憎しみを日本に抱いているかを私たちは思い知らされた。中国の愛国教育はもっと客観的で冷静であるべきではないのか。(翻訳・編集/本郷)

******************************

蘭太郎の瞳が曇るのを見たくはない。人間であることが嫌になるような、おぞましい出来事は知らせたくない。
だが、日本の美しい夜明けを迎えるためには、この、暗く厳しい夜に耐えなければならない…。

満州 阿片について



船戸与一を読む

「満州国演義を読む」から改題





満洲国の経営はどれほど阿片に頼ったのか?


2016年06月03日

日本史 満州国演義 満州 船戸与一

 満洲国演義では、特に前半に阿片からの収入で国家財政と戦費を賄った話がよく出てくる。船戸与一氏は文献をよく調べて書いているのでもちろん事実なのだろうが、公的文書などで事実を確かめられるものはないだろうか、とネットで調べてみた。
 今回は満洲国財政がどれほど阿片に頼ったのかを確かめてみたい。

 よくまとまった資料としてヒットしたのが北海道大学の経済学研究論文、「「満州国」特別会計予算の一考察」である。一般会計のデータがないので全体像が掴めないものの、特別会計の中に専売事業もしくは阿片専売事業を見つけることができる。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/32125/1/48(3)_P80-99.pdf

 阿片専売事業の推移を見てみると、1932年に専売事業1本で表示されていたものが、阿片専売や投資、煤油類専売などに分けて表示されたり統合されたりしている。阿片専売がそれ単独で表示されているのは1935年と1936年の2年のみであり、それ以外の年は専売事業の一構成要素とされている。阿片専売事業の1935年の収入額は1461万円、1936年の収入額は3,769万円となっている。
ただし、1935年は元号変更の影響により7月から12月まで半年分の予算が組まれているので、収入は半分になっている。したがって、1936年のデータだけが唯一1年分の阿片専売事業の収入を示している。

 次に1936年の予算の全体像を見てみよう。これは「近代デジタルライブラリー」サイトの「満洲国大系」から確認することができた。この予算書に載っている阿片専売収入は上の研究論文の数字と一致している。原本はこちらを参照されたい。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281823

 一般会計の予算書によれば、1936年における一般会計の収入総額(予算)は2億19百万円である。このうち専売利益全体の繰入合計は13百万円であり、阿片専売のみの繰入金は示されていない。
 次に阿片専売事業の収支を見てみよう。
 阿片専売事業は3,769万円の収入に対し支出は3,213万円(利益556万円)となっている。この支出が一般会計への繰入分を含んでいるのかどうかは特別会計の繰越金が表示されていないため残念ながら特定できない。ここでは含まれているものと仮定する。
 阿片専売事業から一般会計への繰入額の過去実績をみると、前年度の繰入2百万円(半年分)、前前年度の繰入4百万円(1年分)である。1936年も同様だとすると阿片専売のみの利益は多くとも10百万円以下(4百万円+556万円)であったと推察される。

 この事実から、1936年の阿片専売に対する財政依存度は最大限に多く見積もっても5%程度(=10百万円÷2億19百万円)であり、阿片専売に頼って国家運営をしていた、とまでは言えないであろう。

 それでは満洲国の財源はどこにあったのだろうか?
 1936年の税金収入予算は1億70百万円であり、総予算の実に78%は税金で賄われている。また、国債はたったの10百万円に過ぎない。

 以上をまとめると、満州国の財政の阿片専売利益依存度は思ったほど高くはなく、主に税金収入を財源としていたのである。


posted by さすらい人 at 10:00|Comment(0)|まとめ


阿片戦争をイギリスではどう教えているか ヤフー知恵袋より

ベストアンサーに選ばれた回答

cider_kondoさん
2011/2/615:51:28
まず、「教えていない」はデマです。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/1297
イギリスの各歴史教科書(正確に言うとちょっと違うんですが)の目次が訳出されており、Stanley Thornes社の教科書の場合にはちゃんとアヘン戦争という項目名が出ています。他社でも奴隷貿易とか都市の不潔であるとか、いわゆる負の側面にスポットを当てた項目がたいてい入っています。

そもそもイギリスには教科書検定制度がありません。また、いわゆる学習指導要綱にあたるものの拘束性もかなり低いものです。
日本ですと教科書が全ての基盤ですが、イギリスの場合は「たくさん使う資料の中で一応の主役っぽいもの」程度です。

これは、歴史教育の狙いは2007年版のNational curriculum
http://curriculum.qcda.gov.uk/uploads/QCA-07-3335-p_History3_tcm8-1...
を見ても、やはり、多元性を重視する内容になっており、要するに歴史が答えの決まった一本道ではなく、いろいろな見方があって、そういう思考力を養うために重要な科目だ、という位置づけになっているためです。

http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000069115
を見ても、それ以後劇的な変化があったようには見えません。

具体的な例は現時点では発見できていませんが、そもそも日本とイギリスでは上記のように歴史教育のやり方が全く違うので、究極的には「先生個人個人で違います」以上のことを言うのは困難ではないかと思います。教科書になんとかいてあるかと、教える内容は一致しないわけですから
究極的に生徒や先生のブログを掘らない気がするので引き続き調査します。


ベストアンサー以外の回答

usakura23さん
2011/2/611:46:52.
教えられていないようです。
>[10:イギリスの教科書記述 ]
>中国侵略、ホンコン領有のきっかけとなった アヘン戦争について、イギリスの教科書ではどのように扱っているのかご存じですか?。じつは ほとんどの教科書では、アヘン戦争について 触れられていないのです。それだけでなく アジア、アフリカ、カリブ海地方などで、多数の住民を植民地支配したことについても、
>「 植民地を設けるという意味での帝国主義は、何世紀にもわたって ヨーロッパの国々がよくやってきていたことであった。大砲と軍艦を持ち、 規律と組織性に優れた ヨーロッパ人は、つねに 非 ヨーロッパ人種を屈服させる ことが出来たのである。」、 ( 歴史はどう教えられているか 、NHK BOOKs から )。
>と書かれていましたが、そこには日本のように過去の植民地支配に対する、 自虐史観や贖罪意識 などは全く存在せず、ヨーロッパの白人種が強く、優れていたからこそ 有色人種 を植民地支配できたのだとしていました。

mekuriya394さん
2011/2/611:09:18
教えていません。アヘン戦争は無かったことになっています。日本だって教えていないことは山ほどある。無邪気な子供たちが何もしらないだけです。

toeuryantheさん
2011/2/610:18:10
まあ、ごく単純に、年度が書いてあるだけでしょう。

arai034blueさん
2011/2/607:13:45
どの国でも都合の悪いことは教えません。それを暴きたがるのは、そのことで利益のある外国です。

RAN 第1章

「歴史とは虹のようなものである」~オーウェン・バーフィールド~

夕焼けの中を、二人歩いていた。
歩道に伸びた二つの長い人影は、時に離れ、時に重なり合い、まるで楽しく語らいあっているかのようだった。
だが、校門を出てから、否、同じタイミングで教室を出てから、ずっと二人は無言のままだった。
駅に近づいたときだった。
不意に、家々やビルの間から空が大きく開いた。
その時、長い黒髪の井上蘭太郎の全身を、赤みがかった初秋の日の光りが輝くように包んだ。
授業中眠っている蘭太郎、美しい着物を身にまとい舞台で踊る蘭太郎、面をつけ、誰よりも激しく相手を打ち付ける蘭太郎、そのどれとも違うもうすぐ16歳の少年の姿がそこにあった。
蘭太郎は足を止めた。
うつむき加減に、ほんの少し後ろを歩いていた門馬慎之介も、つられるように歩みを止めた。
前を向いたまま、蘭太郎は門馬に声をかけた。
「きのう、不思議な夢をみたんだ」
「え?」
門馬は、蘭太郎の横顔をまぶしそうに見つめた。
日舞の家元の母と剣道の道場を持つ父との間に生まれ、母の美貌を受け継ぎ、剣の腕も素晴らしく確かな蘭太郎の周りにはいつも人が群がっていて、門馬は遠くそれを眺めていた。
こうして学校から駅まで一緒に帰るのは高校に入学し、クラスメイトとして出会って以来、初めてのことだった。
「初めて話をする君に、こんなことを言うのは、ちょっと変かもしれないが」
「気にしないで、何でも言ってくれたまえ」
蘭太郎は微笑んだ。
何だろう、この感じ。
名前のせいだけではなく、門馬には、侍の姿が良く似合うと、蘭太郎は思った。
それも戦国時代の戦う侍の姿ではなく、平和な江戸時代の書物に囲まれた姿なのだ。
例えていうと、そう、寺子屋の先生のような・・・。
それにしても、どうしてあんな夢をみたのだろう。
門馬の顔を、蘭太郎はまっすぐに見つめた。
「鹿児島の、知覧に行ったことはあるかな?」
「・・・いや、無い。特攻平和祈念館のある場所だね。近くに開聞岳のある」
「ああ。富士山に似た、素朴で美しい山だ。君は特攻隊員だった。無駄死にするなと必死に引き止める僕を振り切って、五百年後、千年後の世には必ず蘇える。そう言って君は、たかく、大空に消えていった」
スローモーションのように、夢の中で静かに門馬の口元が語りかけている。
だがその声は爆音にかき消され、ほとんど聞こえない・・・。
切なさと苦しさの中で蘭太郎は、泣きながら目を覚ましたのだった。

門馬は驚いていた。
昨日、いつものように眠れぬままネットを彷徨い、初めて「神風特別攻撃隊 フィリピン編」の動画を見て涙し、眠りについたのだった。
心の中で、門馬は呟いた。
「もう、戦争は続けるべきではない。
しかし敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。
しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない。
では何故見込みのないのに、このような強行をするのか・・・」
そのあとの言葉を、門馬は口に出して呟いていた。
「ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」
「君はそう言っていたのか!」
思わず、蘭太郎はそう尋ねた。
「これは、『神風特別攻撃隊 フィリピン編』の中の言葉だ」
蘭太郎は、不思議そうに門馬の口元を見つめた。
「知らなかったのか? わりと有名なサイトだと思うが」
「僕はパソコンは苦手だ。家に一台あるにはあるが、母のお弟子さんが管理している・・・」
静かな時が流れた。蘭太郎は空を見上げた。
気がつけば、太陽は、西の空に茜色を残し消えていた。
「彼らは勇者だった。馬鹿馬鹿しい戦争の、哀れな被害者だと思っていた、自分が恥ずかしい」
夕暮れの空に、星がひとつ輝いた。


翌日のことだった。
どちらからともなく待ち合わせた蘭太郎と門馬は、二人で駅までの通学路を歩いていた。
話は自然に、日本史の授業中、いつも寝ている蘭太郎の話題になった。
「歴史なんて、特に日本史なんてクソクラエだ」
女の子のように可憐な蘭太郎の唇から、激しい言葉が次々と飛び出すのを、門馬は面白そうに眺めた。
「まず第一に、僕が教科書は信用ならないと思ったのは、鎌倉時代の元寇だ。元軍は寄せ集めの兵士たちだから、やる気なくて鎌倉武士に負けちゃいましただと! 冗談じゃない! 戦さはスポーツじゃないんだ。負けるってことは、すなわち死ぬこと、殺されることだ。そんなことも分らないのか? 教科書を作っている人たちは? そして、その信用ならない教科書を使って、平気な顔をして授業をする先生って、一体何なんだ?」
「元寇で対馬と壱岐はモンゴルと高麗軍に蹂躙され、両島民はほぼ全滅した。男たちは皆殺し、女子供は手の平に穴を開けられ縄を通されて船縁に吊るされ、食料にされた。二百人の少年少女が拉致され、高麗王に献上された・・・」
蘭太郎は呆然と門馬の顔を眺めた。
「ちょっと待ってくれ。食料・・・? それは、本当のことか?」
「まず真実を知ることが大切だ。余りに残酷だからといって、目を背けてはならない・・・・。彼らは人肉食の文化というか、そういう習慣を持っていたのだ。人の肉は「両脚羊(ヤンシャオロウ)」と言われ、普通の市場でも売られていた」
「要するに、極限状態で仕方なくではなく、普段からやってた、ということか・・・」
「倭寇は、知っているね」
「日本の海賊だろ」
「正確に言うと前期倭寇、後期倭寇に分類されるのだが、前期倭寇は元寇に対する復讐だ」
「復讐・・・」
蘭太郎は足を止めた。
「高麗王に献上されたという子供たちはその後、どうなったんだ?」
門馬は暗い顔で首を振った。
「僕はこう思う」蘭太郎は空を見上げた。「拉致された家族が仲間が、万が一にも生きているかもしれない。何としてでも助け出したいって気持ちもあったんじゃないかな。今も昔も人の心はそんなには変わらないと思う。まして、同じ日本人だ・・・。
『防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思ひもせず』・・・僕は万葉集に出てくる、この歌が好きだ。千年以上昔に生きた、名も無い女の人の悲しみを、僕はありありと感じることができる」
「「防人の歌」だね。そう言えば、君は古文の時間は起きてる」
蘭太郎は微笑んだ。そして、歩き始めた。
「そうだ・・・。防人の歌だ。そんな昔から、わが国は大陸からの侵攻に備えていた。ましてや鎌倉幕府は戦さのプロだ」
門馬は深く頷いた。
「日本はそれまでにも、たびたび侵略を受けていた。「刀伊の入寇」が有名だが、その後にも、(1097年)、異賊船100隻、賊徒数万が攻め寄せ、それを撃退したとの記録がある。教科書を読んでいると、日本が侵略を受けたのは、元寇が初めてであるかのように思い込みがちだが・・・。いや、そう思うよう仕向けられている。
教科書曰く。鎌倉幕府は大陸情勢に疎く、元から使者がきて驚いた。
(実際は、日本は幾度も侵略を受けてきた。鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事として捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていた)
教科書曰く。時の執権北条時宗は、世界的な一般常識である、絶対やってはいけないこと、つまり元からの使者を、いきなり切り捨てた。
(実際は元の使者を切ったのは、文永の役のあとのこと。壱岐、対馬の住人に対する、余りの残虐行為を憤ってのことだ。文永の役の前は、拒絶して帰らせている)
教科書曰く。武士はバカみたいに一人ずつ元軍に名乗りをあげて、一騎打ち戦法で戦いに挑んだ。
(実際は、幕府は集団戦法の徹底を命じていた。武士たちは、後に恩賞の証人になってもらうため、日本人同士、味方同士で名乗りあった)
教科書曰く。武士が劣勢だったというのは、竹崎季長が恩賞欲しさに書かせた「蒙古襲来絵詞」という、世界的にも貴重な証拠もある。
(実際は、全体的に武士が優勢で元兵が負傷し逃げ惑っている。それを、武士が劣勢に見えるよう、教科書では絵の一部を切り取って使っている)
教科書曰く。敗戦濃厚だった、わが国は文永の役と弘安の役の二回とも偶然の大風、つまり神風で救われた。
(実際は鎌倉武士の奮戦による日本の完勝だった。日本人が強いことを快く思わないGHQにより、歴史を捻じ曲げられ、二回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまった)
わが国の歴史教科書による、その後のストーリーは、おおまかにいうとこうだ。元寇以来日本は自分たちのことを神の国だと勘違いし、そのことが、やがて明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと駆り立て、そして世界中に迷惑をかけ、日本が侵略したアジアの国々から、未来永劫許してもらえないくらい嫌われている。だから日本人は永遠に謝罪し続けなければならない・・・」
蘭太郎は暗い顔をして頷いた。
「本当に悲しいことだ。中国で開かれたサッカーのアジアカップのとき、日本人が今でも、相当な憎しみを持たれていることを、ひしひしと感じた・・・」
「元寇について調べること、そして、そのことについて自分の頭でしっかり考えることは、今の僕たち、いや日本人にとって必要なことだと僕は思う。現在の日本の抱える様々な問題点があぶりだされ、それに対する、ごくシンプルな答えを、自分の中に見出すことができる」
「自分の頭で考え、自分の中に答えを見つける・・・」
「例えば、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞欲しさに描かせたものではない。元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちを査定する立場にあった恩人である、安達泰盛の供養のために書かせたものだ。恩賞のためではなく、恩人の供養のためだ。かなり真実に近い描写であると、僕は考えている」
蘭太郎は頷いた。
「死んだ人に嘘はつけないからな。日本画は、画材が高価でなかなか金がかかる。今でさえそうなんだから、昔は相当な出費だったろう。考えてみれば、恩賞欲しさという説に違和感を持たない方がおかしい。
それと、鎌倉武士が、「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて、元軍に一騎打ちを挑んだという説も、考えてみれば相当変だ。言葉の通じない外国人相手に、しかも戦場で、そんな無駄で間抜けなことをするはずがない。証人になってもらうために日本人同士で名乗りあった、という君の話を聞いて、僕はかなり納得した。うん。正解に近いような気がする」
「高麗、つまり今の朝鮮半島だが、日本に味方して、元寇に使う船を手抜きして作った、と主張する説がある。しかし、元のフビライに日本へ侵攻するよう進言したのは、他ならぬ高麗王なのだ・・・。
高麗は驚くべきことに、1231年から1273年まで40年以上に渡って、モンゴル軍に抵抗し蹂躙され続け、ついに屈服した。そしてその後も、余りにも過酷な運命が待っていた。例えばこれは1231年、元からの貢物の要求だが、百万人分の兵士の衣服、馬一万匹、男女1千人・・・。1274年、高麗は未婚の女性を元に献上するため、国中で結婚を禁止しなければならないほどだった。同じ1274年正月、元は高麗に対し、日本侵攻のための船を建造することを命じた。そして君も知っての通り、高麗は元軍らと共に、その年の11月日本に攻め入ったのだ・・・。僕は高麗の歴史によって、戦争に負けるとはどういうことか、属国になるとはどういうことかを目の当たりにした」
蘭太郎は舌を巻いた。
「君は相当優秀な人物だと知ってはいたが・・・。それにしても、どうしてそんなに詳しいんだ?」
「君の場合は教科書、僕の場合はサッカーだった・・・。
数年前、サッカーのワールドカップを見ていたときのことだ。試合を通して世界中の国々や人々の姿、もしかしたら、その民族の真の姿を僕はテレビを通して見ていた。僕は当然のことながら、日本に絶対勝って欲しい、何が何でも勝って欲しい! 僕は心底そう願い、テレビの前で叫び生まれて初めて心から神に祈った。でもその一方で、審判を買収したり故意に相手を痛めつけたり、そんな汚い手を使ってまで勝って欲しくない、そう考えている自分がいた。その時、分かったんだ。霧が晴れるように。みんな同じではないか。日本人だったら、誰しもそう考えるのではないか。今の日本人も昔の日本人も、そう考えるのではないか。
例えば中国のように、何度も何度も皆殺しに近い侵略を受け、昔と現在とでは民族が入れ替わってしまったと思われるような国もあるが。
日本の場合は、そうではない。万葉の時代から、いや縄文時代から、人々の心根は変わらないのではないか。海外で活躍するサッカー選手や野球選手の、サムライに似た頼もしい面構えを、僕は思い浮かべた・・・。
日本史の教科書やテレビで描かれる無能で醜い日本人、特に太平洋戦争中の残虐でおぞましい日本人とは、まるで違う日本人の姿が、そこにある。変だ。何かが絶対におかしい。もしかしてずっと、僕は騙されてきたのか? それから、真実を追い求め、僕は旅に出たんだ。パソコンの中の、ネットという迷宮(ラビリンス)に」
蘭太郎は、ふうっと深いため息をついた。
「日本史の時間に寝ていて正解だった・・・。だが僕が眠っている間、君は旅に出ていた」
二人は、小さな公園のベンチに腰をおろした。
「元寇について調べているとき、心に残る話があった。19歳で死んだ少年の話だ。名前は少弐資時(ショウニスケトキ)
彼の初陣は文永の役のおり、12歳の時のことだった。7年後の弘安の役当時、19歳になっていた少弐資時は壱岐の船匿(ふなかくし)城にいた。そして若き大将として元軍相手に小勢で必死に戦い、最後は家来数名を引き連れて元軍に果敢に切り込み、壮絶な最後を遂げた。
彼がいた船匿城跡からは、元軍が上陸した瀬戸浦が一望できるそうだ。何千もの船、何万もの大軍を見たとき、彼は一体何を思ったろう・・・」
蘭太郎は目を閉じた。
門馬の低く落ち着いた声を聞いていると、まるで自分がその場所に立っているかの気がしてくるのだった。
一瞬、深い眠りに落ちたような気がした。
ここはどこだ? 
蘭太郎は辺りを見渡した。
美しい入り江に出現した、夥しい敵の群れ。
蘭太郎はハッとした。自分は資時なのか・・・?
「地元の人たちにずっと大切にされている「ショウニイ様」と呼ばれる墓があり、それが少弐資時の墓であることが分かったのは、明治時代のことだったそうだ・・・」
自分は眠ってはいない、さっきのは一体、何だったんだろう。
蘭太郎は、門馬の話にじっと耳を傾けた。
「その後の弘安の役の戦いに、少弐資時の祖父・少弐資能(スケヨシ)も、84歳という高齢でありながら、参戦している。おそらく、孫の弔い合戦だったのだろう。そして乱戦の中で受けた傷がもとで、戦後間もなく亡くなった・・・」
突然、胸を締め付けられるような悲しみが蘭太郎を襲った。
「そうか。資時のじいさんが・・・」蘭太郎は空を見上げた。
「・・・今日は、星も見えないな」
「ある人によると、歴史は虹のようなものだそうだ。余り近づきすぎると、水滴しか見えない。無数の歴史的事実の中には良いこと悪いこと、光もあれば影もある。日本の子供たちは戦争に負けてから、ずっと虹を見ることなく、今日のこの空のような暗黒の歴史を見せられている・・・」
「門馬君、僕に虹を見せてくれないか? 君が大空に描く、美しい虹が見たい!」

「では、まず四大文明の嘘から始めよう」
二人は「虹の公園」と密かに名づけた小さな公園で、翌日の放課後落ち合った。
蘭太郎は、ワクワクと、門馬の次の言葉を待った。
門馬はおもむろに、プリントアウトした資料を蘭太郎に手渡した。
そこには、「世界に誇る縄文文化」と書かれてある。
「門馬君。さっきの四大文明の嘘の話は・・・?」
そう言いながら、蘭太郎はその資料に目を落とした。
「これは・・・?」
蘭太郎は目を瞠った。
そこには・・・。

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大和心を語るねずさんのひとりごと

縄文
           


2005年の夏休みの頃のことです。
国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
上にあるのは、そのときのポスターの写真です。
実は、この写真、左が縄文人、右が弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。
ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。
ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらいまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代を新石器時代などと呼びます。
ですから日本の縄文時代というは、欧州や支那における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。
冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものだそうです。
鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。
鳥浜貝塚遺跡は、福井県若狭町にあります。
丘陵の先端部にあり、現在の地表面より3~7メートル下に埋まっていた遺跡です。
海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡で、河床の下で、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、いわば密閉されていた遺跡です。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。
第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。
縄文時代前期、日本最古の櫛とされています。
「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述がありますが、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。
発見された遺物の中からは、編み物も数多く見つかり、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかにされました。
これを復元して見せてくれているのが、冒頭の国立科学博物館の写真なのです。
縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人の姿などを想像してしまいますが。
どうやらこれは大嘘です。
こうした考え方は、「文明文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわち支那が親、朝鮮が兄、日本はおとんぼ、という歴史認識から生まれた、いわば政治的な創作です。
冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。
耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかも彫刻付きです。
耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
また服装は、布製で、極彩色の美しい模様が描かれています。
おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。
特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていた、というのではありません。
出土品の数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけがカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。
つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。
女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということです。
しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。
植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。
女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。
おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。
男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。
ちなみに、日本の縄文期の遺跡は、数千か所発掘されていますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだ発見されていません。
つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。
日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
これはすごいことです。
日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好む。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html

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蘭太郎は、資料から顔をあげ、しばらくの間、黙り込んだ。
そしてもう一度、冒頭の女性の写真を眺めた。
「これは布か。縄文人って、こんな可愛い格好をしていたのか。今と変わらないじゃないか、いや、むしろ、こんな心のこもった、手作りのアクセサリーを身に付けていたとは」
そして考えをめぐらすように顔を傾げた。
「四大文明は・・・メソポタミヤ文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明。だいたい紀元前3000年前後・・・チグリス・ユーフラテス河、ナイル河、インダス河、黄河・・・。大河沿いに起こった・・・」
「ああ・・・」
門馬はうなずき、蘭太郎の横顔を見つめた。
「世界の文明は、ここから始まったのかと思っていた。そして、そこから伝わった、と。人類の黎明期というか。人類の能力が格段に進歩した頃だと思っていた・・・」
「日本には、世界最古と思われる遺跡がある。青森県にある「大平山元|遺跡(おおだいやまもといちいせき)で、16500年前ものだ。少し、混乱させるかもしれないが、黄河文明はコーカソイドが担っていた。つまり、白人だ。それより前、中国にはモンゴロイドによる長江文明が栄えていた」
「え、コーカソイド? 白人? とりあえず今は四大文明に絞ってくれ・・・。四大文明って一体何だ。世界共通の学説ではないのか? 人類共通の認識ではないのか?」
「まあ、一種のポエム(詩)だな」
「ポエム・・・!」
門馬はバッグの中からファイルを取り出し、その中の一枚を、蘭太郎に手渡した。

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大和心を語るねずさんのひとりごと

この「世界四大文明説」というのは、トインビーよりも少し古くて支那の梁啓超(りょうけいちょう)が「二十世紀太平洋歌」(明治33(1900)年出版)で唱えたのが最初です。
彼はこの本の中で、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べています。
梁啓超は日本に亡命し、日本で学び、支那の民主化運動を図った清朝末期の政治家です。
彼は、清朝末期に、国が乱れ、支那が国家として再生するうえで、支那人達に自国の歴史への誇りと自信を深めてもらうために、いわば目的的にこの本を書いています。
ようするに彼は政治家であって、「支那には世界の大文明の一翼を担った歴史があるのだから、俺たち支那人は、もっとこの国に誇りをもとうよ」という主張をするためにこの「世界四大文明説」を唱えています。
つまり「世界四大文明説」というものは、学説ではなく、政治的に生まれた造語です。
実際、この考え方は、誇りを取り戻そうとする支那人たちには大歓迎されたけれど、欧米ではまったく評価されなかった・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-791.html

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「ふう・・・」
蘭太郎は、顔を上げた。
「世界史の教科書も油断ならないのか。それで、黄河文明は白人だったというのは?」
「最新のDNA検査というものは、目ざましいものがある。犯罪においてしかり、植物においてもしかり・・・」

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大和心を語るねずさんのひとりごと

平成12(2000)年のことです。
東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。
調査の対象となったのは、
1、約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨淄(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国     時代の斉の都)遺跡から出土した人骨
3 現代の臨淄住民
これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨淄人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。
約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。
現代の臨淄住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。
・・・考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。
そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されています。
時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。
遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。
関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイドの遺伝的特徴そのものである
そしてこの時代の人骨からは、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。

さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。・・・ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。
これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。
これは紀元前6000年~紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。
栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。
ちなみにジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあります。・・・いまから約8000年前に、日本には稲作文化がありました。
そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。
そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。
で、できたのが黄河文明です・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html

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蘭太郎は顔を上げた。
「それぞれの文明を、それぞれの民族が担っている・・・」
蘭太郎は、壱岐対馬の住人を皆殺しにした元軍の恐ろしさを思い浮かべた。
「大陸では、殺らなければ殺られる。滅ぼさなければ滅ぼされるということか。中国4千年、悠久の歴史とは一体・・・? あっ・・・!」
そしてもう一度、その資料に目を落とした。
「8千年前の日本に稲作文化? 稲作は弥生時代から始まったんじゃないのか・・・?」
「知っているか? 稲作は、日本から朝鮮半島へ伝わった」
門馬はファイルから別の資料を取り出した。
「もちろん・・・。えっ? 何だって!」
「北朝鮮は、現在でも稲作不適地だといわれている」
「そう言えば、北朝鮮はいつも大変そうだ。ニュースを見るたび、いつも思うんだ。畑はないのか? 田んぼはどうなってるんだ?」
そして蘭太郎は、門馬から渡された資料に目を落とした。


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農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては中国南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。
しかし、7,8年前(2007年当時)からまず考古学の分野から変化が起き、次第に中国南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また中国の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは中国政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
・・・米の伝来は中国南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。
「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は中国の山東省付近という説がもっとも有力だ。
また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。

さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が中国からであることを裏付けている。
鵜飼の風習は中国の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。
ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。
なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は朝鮮における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
中国も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html

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蘭太郎は笑い出した。
「気が付くと、こう考えている。常に、文化は中国から朝鮮半島に伝わり、そして日本に伝わったと。完璧に刷り込まれている。恐ろしいものだな。教育とは」
蘭太郎は、改めてその分厚いファイルを眺めた。
そして「日本人はどこから来たのか」という、ところどころに鉛筆でメモ書きされた資料に目を留めた。
「いつか歴史小説を書きたくて、気に入った資料を集めてるんだ」
門馬ははにかんだように微笑んだ。
「だが皮肉なことに、余りに調べすぎると、想像力の翼が縮んでしまう・・・」
「門馬君、読んでもらえないかな」
日はとっぷりと暮れ、門馬は街灯の明かりを頼りに語り始めた。
蘭太郎は、夕闇に沈む風景を眺めた。
何の変哲もない風景が、かけがえのないものに変わっていく。
「縄文人たちがどこから来たのかということについては、最近の遺伝子の研究で、ずいぶん明らかにされています。
・・・日本人とそっくりの遺伝子を持っているのは、どうやらバイカル湖のほとりあたりの人たちです。
日本人のルーツは、北方型蒙古系民族に属するもので、その起源はシベリアのバイカル湖畔にあるようです。
もうひとつ大切なファクターがあります。
気温の変化です。
過去35000年の気温変化をみると、一万八千年前~二万年前に極寒期があり、現在より気温が7~8℃低かったのです。このときの海水面は現在より120~140m低かったのだそうです。
海峡深度との比較から、北海道は宗谷海峡、間宮海峡がシベリアとかなりの期間繋がっていた。つまり、もともとバイカル湖畔あたりにいた人たちが、地球気温の寒冷化によって南下をはじめ、樺太から北海道を経て、日本の本州に棲みついたというのが真相のようです・・・」
「北海道から渡ってきた。そうか、だから世界最古の遺跡は青森県にあるのか・・・」
「日本人がどこから来たのか考えるとき、なぜか、小さな男とその両親の姿が浮かぶんだ・・・。極寒の寒さから逃れ、身を守るため、凍った津軽海峡を渡る、小さな男の子とその父親と母親の姿が目に浮かぶ。先頭に立って進もうとする父親に、男の子はこう言うのだ。「僕の方が軽いから」
そう言って、男の子は長い棒を持ち、氷の感触を確かめるように先頭に立って歩き始める。夜明けを待って、出発したのだろうか。空には有明の月が残っていたのだろうか。どれくらい歩いたら、陸地に辿り着けたのだろうか・・・」
蘭太郎は微笑んだ。
「その男の子は、俺たちのじいさんだ。勇敢で、心優しき男(おのこ)だ。・・・名前は、何ていうんだ?」
「えっ?」
「その男の子の名前だ。人は人に、いつから名前をつけるようになったんだろう」
「名前をつける。まさに、人が人になった瞬間かもしれない。・・・歴史とは、推理小説であり、恋愛小説であり、戦国武将の生き様などから経営者の心得を学ぶ場でもあり、DNAを筆頭とする科学の実証の場でもある・・・。そして、気象学でもあり天文学でもある」
「天文学・・・?」
門馬は頷いた。
「卑弥呼が殺されたのは、西暦二四八年九月五日。皆既日食のあった日だった。・・・。本能寺の変が起こったのは旧暦の六月一日。空に月は無かった」
門馬はオリオン座を指差した。
「あの星の名はペテルギウス。地球からの距離は五百光年。今、僕達が見ているあの星の光は、信長の時代のものだ・・・」
それから二人は空を見上げた。オリオン座の三ツ星、その先の全天一の輝きを放つシリウス。今は見えない、真夏の夜空を大きく彩るさそり座。南の空にあるという南十字星。
その夜のことを、その美しい星の夜を、門馬も蘭太郎も生涯忘れないだろう…。


翌日の放課後のことだった。
「君は知っているか? 靖国神社には坂本竜馬も祀られていることを」
突然の門馬の問いに、そうなのか?という風に蘭太郎は目を見開いた。
「伊藤博文は、日韓併合に反対していた」
(何だって! 賛成だからこそ暗殺され、今も、安重根は日本に抵抗した英雄として、かの国では称えられているのではないのか?)
「国際連合には敵国条項といって、日独など敗戦国に対して、加盟国は安保理の許可なく独自の軍事行動ができることを容認している」
(旧敵国? 国際連合は何と言ったらいいか…平和の象徴ではないのか? 世界の良心ではないのか? 終戦後60年経た今も、要するに戦勝国連合ということか…!) 
「君は知っているか? ハワイの名歌「アロハ・オエ」の本当の意味を」
(本当の意味?)蘭太郎は「アロハ・オエ」の甘く切ないメロディーを思い浮かべた。
門馬の矢継ぎ早の質問に蘭太郎は混乱し、ため息をついた。
自分は世の中のことを何て何も知らないんだろう。
自分で自分が情けない・・・。
僕は少し急ぎすぎているのかもしれない、門馬はそう思った。
「蘭太郎君、ゆっくりでいいんだ。自分の頭で考え、感じてくれたまえ」
蘭太郎は黙って頷き、門馬から手渡された資料に目を落とした。


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大和心を語るねずさんのひとりごと

                 国の滅亡とアロハ・オエ

18世紀末にハワイを発見したのは、有名なキャプテン・クックです。そのクックを先頭に、ハワイに来島した白人たちが持ち込んだのが、貿易商、キリスト教宣教師たちなのですが、彼らが持ち込んだのは実はそれだけではありません。
麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒までも持ち込んだのです。
これは、かつての太平洋の島々に共通していた事項なのですが、彼らにはもともと「土地所有」という概念がありません。
その代わり、たとえばバナナの木などは、誰の所有かが、かなり厳格に定められたりしています。そんなハワイの人々に、欧米から来た白人達は、ただ同然で土地を買い占めました。
なんと、国土の75%以上を所有してしまったのです。
ハワイの先住民たちは、追いつめられ、クックが来島した頃30万人だった人口が、1872年にはわずか5万7千人にまでに減少してしまいました。国民の8割の人口が失われてしまったのです。ちなみに欧米によって植民地化された国は、ほぼ例外なく人口が8〜9割減少しています…。
…ハワイ諸島を統一したのは、カメハメハ大王です。大王がハワイ諸島を統一したのは、19世紀、日本の明治のはじめ頃のことでした。大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一したのです。
武器購入資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行等によって、国力は徐々に衰退していってしまいました。
実は、カメハメハ大王の孫にあたるカラカウワ大王が、1881年に日本に来日しています。当時の日本は、有色人種で唯一の独立国でした。有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の大王、つまり要人が日本に来た、最初のできごとでした。
来日したカラカウワ大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れ、密かに赤坂離宮を訪れて明治天皇との会見を願い出ました。天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見に応じました。
大王は、明治天皇にハワイ王国の内憂外患の窮状を述べました。そして、5つの事柄について、日本の協力を要請しました。
1 日本人移民の実現
ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
2 やがて王位を継ぐことになる、姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。
3 日本・ハワイの合邦
(ハワイを日本にしたいと申し出たのです)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現。

しかし、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗できるだけの力はありません。やむなく明治天皇は、翌年カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しました。ただ、移民については実現し、1884年、日本・ハワイ移民協約が締結します。
明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。このときハワイでは盛大な歓迎式典が行われ、カラカウア大王自身もこれに列席しています。そして日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。

明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死し、後を継いで後継者に、大王の実妹のリリウオカラニが女王に即位しました。
明治26(1893)年1月15日のことです。リリウオカラニ女王は、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。宮殿前には、女王を支持するハワイの大勢の民衆が集まりました。
けれど、この憲法改正案には、ひとつ問題がありました。
この憲法が施行されると、市民権を持っていない白人たちは、選挙権が得られない、つまり参政権を否定されるのです。
米国公使のスティーブンスは、翌16日、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称して、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧します。そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿に合わせます。宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっているのです。スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行しました。
ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたのですが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意します。この瞬間、ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
危機感を持ったカラカウア大王が来日から僅か12年後のことでした。
しかしハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植しています。そこで急きょ、日本から派遣されたのが、巡洋艦「浪速」と「金剛」でした。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。けれど、完全な臨戦態勢です。ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンは沈没を免れないからです。
東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。ですからフラダンスの父と呼ばれています。
そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。

Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば 
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと

とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲「アロハ・オエの」美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。

このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。
そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。

古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。これは世界中がそのような歴史にいろどられています。
けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。
日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。

日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています」

*********************

蘭太郎は顔をあげ、門馬を見つめた。
門馬の瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
「いわゆるA級戦犯のことばかり、まるで鬼の首でも取ったかのようにマスコミは取り上げるが…。靖国神社には、黒船来航以降、日本の為に命を捧げた人々が祀られている。歴史というものは、その当時の常識というものを知ることが、最も重要かつ困難なことであるというが、黒船来航の恐ろしさを、現代に生きる自分たちにとって、果たしてどれほど感じとることができるだろうか」
「今でいうなら、UFOだろうか…。家康をはじめ徳川幕府のトップたちは、植民地にされること、奴隷にされることを心底恐怖していた。そのため鎖国をし、長崎にある出島から、世界の情勢を正確に掴んでいた。日本に魔の手が迫ってくるのを、ひしひしと感じていたのではないだろうか・・・。以前、テレビで偶然見たのだが…。徳川将軍の霊廟が調査された時、驚くべき将軍たちの姿が報告された。将軍たちは死してなお、江戸の町を守るように埋葬されていた。何重にも重なったお棺の中に納められた将軍達は、正座をし、太刀を傍に置き、今でも江戸の町を見守り続けているようだったという」
「そうか。それは初めて知った…」
門馬は、美しく輝く蘭太郎の瞳を見つめた。
(かつてイギリスの植民地であったミャンマーでは、国民の求心力を失わせるため、イギリスによって王室が追放され、王女は妾とされた。
日本のマスコミは何故か報じないが、イギリス人と結婚し、すっかりイギリス人になっているスーチー女史に対して、ミャンマーの国民は複雑な気持ちを抱いている。
中国は先ほどの敵国条項を念頭に置き、尖閣諸島を日本が国有化したのは侵略行為であると会見している。
…かつて中国でおきた通州事件のことを思うと、今でも心が悲鳴を上げる。
日本に原爆を2回落としたアメリカは、日本の復讐に怯え、すなわち、水に流してしまう日本とは真逆の自分自身の影に怯え、今も日本に絶対核兵器を持たせないよう、知識人やマスコミを総動員して、日本人に贖罪感を植え付け続けている…。
第二次世界大戦で、ベルリン陥落のおり、ソ連軍によってレイプされたドイツ人女性は13万人、うち1万人が自殺したという。世界は危険で何と腹黒いんだろう・・・。
いわゆる従軍慰安婦問題が度々取り上げられるが、彼女たちにとって、例えそれがどんなに意に染まぬことであったとしても職業であり、高給取りであったことは、全くと言っていいほど言及されない。
諸外国のことを知れば知るほど、日本の素晴らしさが見えてくる。
泥の中に咲く、一本の蓮の花のようだ。
だが当の蓮の花は、自分の美しさを知らない。
そしてマスコミや歴史教科書という魔法の鏡によって、自分たちはこの世で一番醜いかのように思い込まされている。
だがしかし、この心も体も清らかな蘭太郎に、世界は汚い、ほら、こんな酷いことをしている国ばかりだよと吹き込んで何になるのだろう。
門馬は一瞬、深い物思いに落ちた。

「…日本にA級戦犯はいないんだ」
「えっ?」
門馬は顔を上げると、分厚いファイルの中から、数枚の資料を蘭太郎に手渡した。

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ひめのブログ
いまの幸せをまもりたい、それだけです

■A級戦犯は日本に存在しない。歴史も知らない議員やマスコミ。
2010-06-17 03:28:37

「A級戦犯合祀の問題から首相や閣僚の公式参拝には問題がある。
首相在任中に参拝するつもりはない」
15日、菅首相は参院本会議の代表質問で発言。
毎度まいどよく聞くセリフです。
この宣言さえすれば、日本にたくさんいる、左巻きお花畑に批判されないんですね。
「靖国参拝する」と言えば、ここぞとばかり反日マスコミが叩きます。
何が問題なのか・・ 具体的に聞いたことありますか?
外国要人・外交官・駐在武官・軍隊‥ 靖国参拝してること知らないのかね。
リトアニア共和国首相、在日米軍横田基地将校会‥各国指導者の参拝は、スリランカ・タイ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・スロベニア・ロシア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア・パラオ・ソロモン諸島‥

「問題がある」ですか? じゃあ抗議したのかよ?w
問題にしてるのは特アだけだろ。
それも、もともとは何とも、思ってなかったのに、朝日新聞がわざわざ中国へちくりに行くから、
「批判した方が得らしい」ってことになっただけ。
韓国も、それを真似してるだけw
あほらし。
まぁ菅首相は日本の歴史上、中国を一番たくさん訪問した人なので(数十回)
中国への忠誠はヒトイチバイかもしれませんが!
そしてそもそも、【A級戦犯】というものは日本にはない。
菅だけじゃないよ。
やたらA級戦犯って言う議員、マスコミ、自称評論家‥たくさんいる。
あのかたがたは、A級戦犯⇒戦争の原因を作った犯罪者 のつもりなようですが、ぜんぜん違いますから!
いかに日本史を勉強してないか、いかにあほかと宣言しているようなものですw

*昭和20年8月30日
日本に到着したマッカーサーの第一声
「東條を逮捕する。そして早急に戦争犯罪人のリストを作れ」
「戦犯第一号はパールハーバー攻撃の東條内閣の閣僚たちだ」
真珠湾攻撃は東條の仕組んだ先制攻撃だと言わんばかり。
(それも後でニュースで知った)
マッカーサーは自分がフィリピン方面軍司令官の時に日本軍に敗れ、
「アイ・シャル・リターン」と言って逃げた時の復讐のために、
当時司令官だった本間雅晴中将の名前も戦犯にした。
こんな感じで『A級戦犯』28名決定。

来日したソ連が「俺らにも選定させろ」と言いだし、 重光葵、梅津美治郎の2人をA級戦犯に追加。
ソ連は『日露戦争』の復讐で東京裁判に参加。 日本はソ連に戦争犯罪がなかったから、大東亜戦争以前の日ソの戦い、つまり日ソ間で解決ずみの張鼓峰事件(1938)やノモンハン事件(1939)を持ちだして、
「日本の侵略だ!」と主張
びっくりするぐらい適当に選ばれた『A級戦犯』が、
いまだに首相の答弁で、悪者扱いされてるってどんだけあほなの?

戦後、東京裁判が行なわれた。
ほんとなら日本人自身が国家指導者の責任を追及すべきなのに、
戦勝国が一方的に裁いて断罪した
その時勝手に選ばれた指導者達は、判決に従うことで、戦争責任を負った形となりました。
でもね。
独立回復後、日本は国会で、A級戦犯を含むすべての戦犯の死を 「法務死」として遺族への年金や恩給を支払うことにした。
遺族の救済や名誉の回復を行なうことを決めた。

*昭和27年4月
まだ服役しなければならない1224名の「戦犯」に対して国民の同情が集まった。

*昭和27年7月
日本じゅうで戦犯の早期釈放を求める署名運動。
約4000万人の国民署名が集まった。
当時の日本人口、約8581万人。単純計算で、国民の2人に1人が署名した。

*昭和28年8月
「戦犯釈放を求める国会決議」が決議された。
国会決議は【全員一致】
国家指導者の政治的責任や道義的責任という問題と慰霊とは別の問題です。

昭和53年、靖国神社にいわゆるA級戦犯が合祀された。
昭和60年に中国が批判するまで、問題だなんて誰も言わなかった。

日本人は、戦争中でも敵国兵士の墓を作った。
これは武士道の伝統。 敵国の兵士をも弔うんだから、自国の指導者に対しては死者に鞭打つことをしないのが日本人・・・。

そしてその合祀は厚生省が提出した名簿に基づくもの。
名簿は国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたもの。
つまり靖国神社がA級戦犯を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは
法律に基づき、行政の通知に従って実行したもの。
靖国神社が批判を受けるって意味わからない。知らんだけだろw
A級戦犯だった人の合祀を批判したいのなら、 厚生省のその名簿を作った奴を批判しろ。
戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、国会で、法律として決めてある。
別に靖国神社が勝手に合祀したわけじゃないし、遺族が決めたわけでもない。
(靖国合祀の関係法→戦没者遺族援護法・恩給法など)

*昭和28年8月
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」「恩給法」の改正
「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者としないことにした。
決定は【全員一致】
彼らの死を戦争による公務死としたことは主権独立国家として正当な決定。
「A級戦犯」も「B・C級」も関係なく公務死とした。これは日本人が決めたこと。
サンフランシスコ講和条約第11条第2項で、 東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになってた。

日本はこれをまじめに取り組み、
国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。
そして‥
*昭和31年3月
 「A級戦犯」全員赦免・釈放
*昭和33年5月
 「BC級戦犯」全員赦免・釈放
これを正式に勝ち取った!!
わかるよね。
日本に「戦争犯罪人」はいない! 「A級戦犯」もいない!!!
世界中がそれで納得してる。

*昭和50年11月21日
昭和天皇がいつも通り靖国神社を参拝。
突然、社会党が「問題だ」と言い出した。
それが原因で、天皇陛下は靖国参拝ができなくなった。

*昭和60年
突然、首相の公式参拝を中国が抗議してきた。
中曽根首相は参拝をやめた。
国民はそれほど騒がなかった。 マスコミが靖国参拝を騒ぐようになった。
(以下略)

*********************

依存症の独り言2005/05/29

A級戦犯
森岡正宏厚生労働政務官は26日の自民党代議士会で、小泉首相の靖国神社参拝を「大変良いことだ」と支持する考えを示したうえで、「極東国際軍事裁判は、平和や人道に対する罪を勝手に占領軍が作った一方的な裁判だ。A級戦犯の遺族には年金をもらっていただいており、日本国内ではその人たち(A級戦犯)はもう罪人ではない」と述べた。(後略)
2005年5月26日(朝日新聞)

上記の発言が物議を醸している。
この発言を肯定する人もいれば、民主党の岡田代表のように「東京裁判を認めないとなれば、戦争責任を負わないことになる。更迭を求めるのは当然だが、その前に政府がきちんと対応すべきだ」と罷免を求める意見もある。

もちろん、中国は猛烈に反発している。
発言のタイミングはともかくとして、その是非を問うには、まず、そもそも極東国際軍事裁判とは何か、戦犯とは何か、から考えてみる必要がある。

極東国際軍事裁判は、ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、11カ国の連合国名によって(イ)「平和ニ対スル罪」、(ロ)「通例ノ戦争犯罪」、(ハ)「人道ニ対スル罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づいて行われた。英訳すると(イ)(ロ)(ハ)はa、b、cになる。
裁判所は、東京 市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂に設置された。

(中略)

極東国際軍事裁判には、その構成上及び制度上の問題と裁判そのものの正当性の
問題の両方がある。まず、構成上及び制度上の問題から述べてみよう。

①11人の判事中、中立国からは一人も選ばれなかった。
②仏・ソ2カ国の判事は、裁判の公用語である英語と日本語を理解できなかった。
③ソ連は中立条約を破って日本を一方的に攻撃した典型的な条例違反国なのに、罪を問われるどころか、この裁判で検事として、あるいは判事として、日本を訴追する権利まで与えられた。
④判事の中には、法曹経験の全くない者(中国の梅汝敖判事)もいた。
⑤民主主義にとっては当たり前の上告制度がなかった。
以上が構成上及び制度上の疑義である。
次に、最も重要な裁判そのものの正当性の問題について述べる。
①大東亜戦争は侵略戦争だったのか?
②戦争に対する共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪は、当時の国際法等に規定があったのか?
③そもそも、このような戦勝国が敗戦国を裁く裁判は何を根拠にして成り立つのか?
①に関して云うと、1941年12月8日に開始された太平洋戦争は侵略戦争ではなかったと断言できる。これは、帝国主義国家間による植民地争奪戦争だった。
米国はフィリピンを、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島を、フランスはインドシナを、オランダは東インド(現在のインドネシア)を植民地支配し、搾取と収奪をほしいままにしていた。
欧米列強は、本国は民主主義だったが、ほぼアジア全域で過酷な植民地支配を行っていたのだ。そこでは数々の弾圧と虐殺があった。フランスとオランダは、戦後も独立を宣言した旧植民地を再侵略している。

このような国々と日本は戦ったのである。これのどこが侵略なのか?
1937年に始まった日中戦争は、確かに侵略戦争だったかもしれない。しかし、それは今だから云えることである。当時は「侵略」の定義さえ定かではない時代だった。
また、欧米列強も租界を初めとする数々の特権を中国に対して持っていた。イギリスに至っては、歴史上最低の部類に属するアヘン戦争で香港を強奪していた。
注意してほしいのは、だからといって、日中戦争を肯定しているわけではないと云う事である。当時の欧米列強が正義で日本が悪だという構図は、勝者の論理に過ぎないと云いたいのだ。
②に関して云えば、事後(敗戦後)に裁判所条例により制定されたもので、当時の国際法等には何の規定もない。法治社会の鉄則である法の不遡及に反しており、罪刑法定主義からも逸脱している。
③に関して云えば、根拠などどこにもない。極東国際軍事裁判それ自体が、原則に
反する違法なものなのである。
これには、さすがに判事の間にも異論があった。11人の判事中、少数意見の判事が5人いた。

(中略)

インドのラダ・ビノード・パール判事に至っては、「連合国は法を引用したのでもなければ、適用したのでもない。単に戦勝国の権力を誇示したにすぎない。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であると慣習法にするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。国際法、照らして戦争は犯罪ではない。日本は無罪だ」と主張し、アメリカの原爆投下を非難した。

(中略)

※オランダのレーリング判事は、帰国後に著した「東京裁判とその後(ザ・トウキョウ・
トライアル・アンド・ビョンド)」の中で、次のように述懐している。
「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。
われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。
もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」と・・・

・・・A級戦犯とされた被告は東條英機以下27名。
精神異常による訴追免除及び病死を除く25名が起訴される。
絞首刑は、東條英機(軍人)、板垣征四郎(軍人)、木村兵太郎(軍人)、土肥原賢二(軍人)、松井石根(軍人)、武藤章(軍人)、廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)の計7名。昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、まもなく横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨は遺族に引き渡されることなく、米軍により砕かれて東京湾に捨てられてしまった。

この裁判は、昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)を選んで起訴され、 死刑執行は皇太子(現天皇)の誕生日である12月23日に執行された。
(中略)

A級戦犯として絞首刑に処された人々は、1978年10月から靖国神社に“昭和受難者”として合祀された。また、国内法では「刑死」ではなく「公務死」の扱いになって
おり、1953年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。それなりに名誉が回復されたわけである。

なお、B、C級戦犯として約5600人が、横浜以外に上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所で逮捕、投獄され、裁判の体をなしていない軍事裁判にかけられて約1000名が戦犯の名のもとに処刑された。

横浜以外で行われた裁判は、私刑であったといっても過言ではない。
以上からして、極東国際軍事裁判は、構成上及び制度上の疑義と裁判そのものの
正当性の疑義の両面から認めることはできない。
百歩譲って裁判を認めたとしても、近代法の理念に基づけば、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅する。従って処刑されたA級戦犯は、現在では犯罪者ではない。
戦犯の名誉回復は日本の主権に属する問題である。また日本の国内法上において、そもそも「戦犯」という用語を用いた規定は存在しない。
したがって、靖国神社にA級戦犯とされた人々が合祀されていても、国内はもちろん外国からもとやかく言われる所以は全くない。また、日本国総理大臣が参拝しても何の問題もない。

・・・最後に、米軍の無差別爆撃による日本の非戦闘員の被害は以下のとおりである。
東京大空襲の被害者は死者10万人(推定)
広島の原爆被害者は死者約14万人(誤差±1万人)
長崎の原爆被害者は死者7.5万人
その他の空襲による死者20万人
これに対して、ジョン・F・ケネディ政権で国防長官だったマクナマラは何と回顧しているか。
マクナマラは経営管理の理論を戦争に応用。攻撃効率を高めるため、統計を取り、分析する。だが彼の報告書を元に、日本に無差別絨毯爆撃が行われた。指揮官は後に広島・長崎に原爆を落としたカーティス・E・ルメイ少将。
「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
THE FOG OF WAR(マクナマラ元米国防長官の告白)

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読み終わり、何度も読み返し、蘭太郎は終始無言だった。
そして振り絞るように、
「(A級戦犯の)遺体を家族に返さずに、東京湾に捨てたのか…!」
「文官としては唯一の、A級戦犯として処刑された広田弘毅の妻は、捕えられた夫が後顧の憂い無きよう、思い出の地で自ら命を絶った。二人は幼馴染だった…。戦後日本を占領したGHQは、靖国神社を破壊し、ドッグランにしようとしていた」
「ドッグラン!」
蘭太郎は絶句した。
アメリカの黒船来襲以来、日本のために命を捧げた人達を祀っている神社を、ドッグランに・・・!
 「お前たちは、負け犬・・・いや、犬以下だということか・・・」
駅まで続く長い道を、二人は黙って歩いた。
夕闇が迫り、時折冬を思わせるような冷たい風が吹き過ぎた。
蘭太郎は、神風特別攻撃隊が遺した言葉を思い出していた。
「アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう」
戦争は、終わってはいない、日本は、負け続けている。
A級戦犯がと騒いでいるマスコミ、政治家、教科書に至るまで、敵の手の中に堕ちている・・・。
蘭太郎は拳を握りしめた。

門馬は考えていた。
米軍の無差別爆撃により、無残に殺された日本人、その数何と50数万人・・・。
そうか、だからいわゆる南京大虐殺が必要だったのだ。
戦時下の日本人は、その罪を我が身をもって償わなければならなかったとする為に。アメリカが無辜の民を50万人以上も焼き殺した大罪は、虚構の「南京大虐殺」に真っ黒に塗りつぶされ、歴史の闇の中に葬り去られるであろう。
だが恐るべきことに、捏造された「南京大虐殺」は、世界の歴史となり常識となり、日本人による史上最も凶悪な悪魔の所業として、永遠に記憶され続ける。
我が国において、最大にして最強の権力を誇るマスコミは、「言論の自由」「報道しない自由」を振りかざし、時に「印象操作」を駆使し、「捏造」することさえ厭わず、日々、日本人を洗脳し続ける。
日本人であることを恥ずかしく思え。
誇りなど、断じてもってはならない。
平和憲法を守り、丸腰のままでいろ。
常に卑屈であれ。
核兵器を持とうなどと、夢にも考えてはならない。
原爆を投下された日本は、世界平和のため、永久に反省し続けなければならない。
周辺諸国に何をされても「大人の対応をし」「粘り強く話し合いを続け」、されるがままでいろ。
何故なら、かつて日本人は恐ろしい罪を犯したのだから。
世界中、特にアジア諸国に、史上他に類を見ないほどの苦痛と厄災をもたらしたのだから。
だから赦しを乞い続けろ。
戦争犯罪者を祀った靖国神社に総理大臣の参拝など、言語道断。
日本人は悪魔のような民族であり、自分たちの体の中には凶悪で卑劣な犯罪者の血が脈々と流れていることを、決して忘れてはならない・・・。

思わず門馬は笑いだしそうになった。
まるで、敵国の報道機関そのものではないか。
同時に恐ろしさに身震いする。
あなた方の祖先は猿真似で中国から朝鮮半島を通してありとあらゆることを教えてもらった挙句、調子に乗って朝鮮半島を手に入れ女性は性奴隷にし、中国では民間人を残虐に殺しまくった、その子供たちです、と教科書やマスコミから朝から晩まで吹き込まれ続けて、まともな人間に育つだろうか。まともな人間を育てられるだろうか・・・?
誇りを失った、誇りを持てない、ご先祖様を敬えない、自分自身を大切にできない、さまよえる魂の矛先が、幼い供たちに惨く向けられている・・・そんな気がしてならない。
戦争は確かに悲惨だが、親に虐待されながら殺されていく子供たちよりも、悲惨な境遇が、この世に存在するだろうか?
一生のうちで最も愛され祝福され、一番幸福な時間を過ごすはずの幼少期を地獄に変える。
「児童虐待」は、自虐史観の最も忌まわしい「成果」なのではないか・・・。
だが、悪夢はもうすぐ終わる。いや、終わらせなければならない。
まさに、インターネットは救世主であったのだ。

もし、原爆の開発がもう少し早かったなら、日本によるアジア人の解放は成し遂げられなかったであろう。
世界は、白人による有色人種の支配という構造が、恐らく永久に続いたであろう。
もし、インターネットが開発されなかったなら、日本人は未来永劫、自虐史観に囚われ、贖罪意識に苛まれ、日本人に生まれてきたことを心のどこかで呪いながら生きていったことだろう・・・。

いつの間にか、駅に着いていた。あちらこちらに明かりがともり、賑やかに人々が行き交う、路線バスがゆるやかに音を立てて走っていく、普通の日常の、ありふれた駅前の光景。
それらをもたらしてくれたのが、「命よりも大切なもの」を知っていた先人たちであると、その人たちの孫や子供たちは、、それを知らない。知らされることなく、生きている。

「門馬君?」
蘭太郎の声に、門馬は我に返った。
「次は、倭寇の話を詳しく聞かせてくれないか? 日本人が海賊で暴れまわったというのは、本当のことなのか? 日本近海は昔、今とは真逆の状態だったということか。今は、中国北朝鮮の船から日本が被害をこうむっているが。日本史の教科書は日本人=悪と思いこませる、それが目的で作られているのではないか?」 
だがもし日本人が本当に悪魔なら、悪に再び目覚めることを心底恐れ、あなた方は。本当は心優しい民族ですと、美しい言葉を散りばめた歴史教科書を敵は与えるのではないだろうか。
もしかしたら、日本人が善良な民族であると、誰よりも信じているのは・・・。
いつもの蘭太郎と、どこか違う、そう思いながら、門馬は記憶をたどり考えを巡らせた。
・・・そう言えば、元寇との絡みで、倭寇はその復讐であると蘭太郎には簡単に説明してしまったが、肝心なことは、ひとつひとつ丁寧に伝えていかなければ・・・。
「元寇の時には言及しなかったが、倭寇は前期倭寇と後期倭寇に分けられ、後期倭寇のボスは中国人だ。その話の続きは、また・・・」
蘭太郎と別れ、駅のホームへと続く階段を上りながら、門馬は考えていた。
思うに、どうしてこうも日本人は次から次へと濡れ衣を着せられ続けるのだろう…。
その濡れ衣をひとつひとう晴らすため、長い年月と気の遠くなるような地道な検証が必要となるのだろう・・・。
自分にはもう時間が無い。
体が、もうそろそろ限界に近づいている・・・。
「門馬!」
蘭太郎の声に門馬は振り返った。
「明日も会えるかな!」
門馬は頷いた。
「また、明日!」
そう言って、蘭太郎が大きく手を振るのが見えた。

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