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RAN

門馬は旅行鞄に荷物を詰め終わると、パソコンに向かった。
「…そうだ。これも蘭太郎に送っておこう。彼らの死はいわゆる無駄死ではなかった。立派に戦果を上げていたのだ」

(ヤフー知恵袋より)
特攻隊の出撃は終戦直前の昭和20年8月13日まで続けられ、わずか百日にわたる特攻作戦(空のみ)で
海軍 2535人
陸軍 1844人
の戦死者を出したとのことです。また特攻により失われた飛行機の数は、参戦飛行機の数7852機の44%に該当する3461機(海軍2367機、陸軍1094機)でした。この参戦飛行機のうち、体当たりで散った機数は海軍983機、陸軍932機であり、そのうち132機が命中、122機が至近弾となりアメリカの艦船を撃沈しています。
さらに水上からの特攻で1344人(海軍1081人、陸軍263人)、水中から特攻で544人の尊い命が散っています。

なお特攻隊の戦果は
軍艦 32隻沈没
輸送艦 75隻沈没
損害を与えた艦船 223隻
死者 12260人
負傷者 33769人
とのことです。アメリカ側の史料では「日本の自殺機が連日連夜襲ってくるので、40日間将兵はまったく休む暇もなく、眠る暇もない」と、殆どノイローゼ状態だったといいます。

西村眞悟の時事通信 より。

特攻隊


やはり、八月十五日が近づいてきたのだ、と思う。
 暑くなるとともに、英霊のことを思う日が多くなっているからだ。特に、七月一日に沖縄の茂みのなかを歩いてから、この暑い日々に茂みに潜んで戦い続けた同胞のことがしきりに思われた。

 このような折、はっと気付かされたことがある。
 それは、日本人の死生観とほほ笑みのことである。

 蒙古襲来は、我が国最大の国難であった。
 蒙古は、文永十一年(西暦一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に襲来した。
 我が国はこの蒙古を撃退したのであるが、よく言われるように、神風によって撃退したのではなく、鎌倉武士の壮絶なる決死の戦いによって撃退したのである。
 特に、文永十一年、日本人として初めて三万の蒙古軍と相まみえた対馬の地頭、宗助国以下八十四騎の戦いは敵に強烈な印象を与えた。
 私は、対馬を訪れれば、よく蒙古がはじめに上陸してきた対馬西岸の古茂田浜に行く。そして、ここで奮戦して五体ばらばらになった宗助国の首塚と胴塚に参る。
 しかし、彼らが如何なる形相で奮戦したのか、いままで脳裏に浮かばなかった。それを数日前に頂いた本で教えられた。
 日本兵法研究会会長で元陸上自衛隊の戦術教官であった家村和幸中佐の近著である「兵法の天才 楠木正成を読む」(並木書房)は、宗助国等の奮戦の様子を次のように伝えてくれた。

「対馬で元軍を迎え撃った宗助国を頭とする八十四人の一族郎党は皆、顔に笑みを浮かべて群がり寄せる元軍の中に斬り込み、鬼神のように奮戦し、壮絶な最期を遂げた。
 このように大義に死す時、人生意気に感じた男たちは笑って死地に向かっていくものなのである。
 大軍を前に死ぬことがわかっていても、戦いを挑んでくる鎌倉武士達に元軍の大将キントも、『私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵と出会ったことはない』と驚き、絶賛に近い評価を下した。」

 これを読んだとき、対馬の古茂田浜の景色が瞼に浮かぶとともに、浜に群がる蒙古軍に向かって宗助国等八十四騎は、笑みを浮かべて突撃していったのかと感慨深いものがあった。
 そして、同じような笑みを浮かべている人達が昭和にもいたことを思ったのだ。それは、特攻隊員達の笑顔だった。
 多くの特攻隊の若者達は笑顔を写真に残している。
 
 私のホームページの表紙に載せている昭和二十年四月二十二日に台湾の桃園飛行場から沖縄方面の敵艦隊に特攻出撃していった十人の十八歳と十九歳の少年飛行兵と四人の学徒兵の合計十四名の若者も(陸軍特攻誠第百十九飛行隊)、出撃一時間半前に素晴らしい笑顔を写真に留めている。
 彼らは異口同音に「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたという。

 また、同じ沖縄方面に戦艦大和を率いて特攻出撃した第二艦隊司令長官伊藤整一海軍中将は、沈みゆく戦艦大和から総員退避を命じた後、「長官、死んではいけません」という副官に、
「私は残る、君たちが行くのは私の命令だ。お前たちは若いんだ。生き残って次の決戦にそなえよ」と決然と言い放って戦艦大和と運命を共にしてゆくが、
 生き残った士官の吉田満氏は、そのとき司令官室に向かう伊藤長官が微笑んだように思えたと書いている(吉田満著「戦艦大和の最後」)。

 これら、蒙古襲来から大東亜戦争まで、七百年の時空を越えて共通する死地に赴くときのほほ笑みは、何に由来するのだろうか。

 それは、「悠久の大義」に生きる者達のほほ笑みである。
 そして、日本人の「身は死しても魂は死なない」と思う死生観に由来している。

 蒙古との弘安の役から五十年後に湊川で自ら死地に赴いて死んだ楠木正成は、七度生まれて国に報いると七生報国を誓って死んでいった。
 彼は、本気で自分は七回生まれてくると信じていた。
 それから五百年以上の後、短い人生の中で湊川の楠木正成の墓に三度参って泣いた吉田松陰も、本気で魂は残ると信じていた。吉田松陰の、
 身はたとひ 武藏の野辺に 朽ぬとも 留め置まし 大和魂
という辞世の句は、本気でそう信じていたから詠んだのだ。

 楠木正成も吉田松陰も、二十世紀に生をうけていたら、
昭和二十年四月二十二日の十四名の少年飛行兵のように、
「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」
と語って満面の笑顔を写真に残したであろう。

 日本人は、「悠久の大義」に生きる、
 即ち、魂は死なないと思ったとき、
 ほほ笑みをたたえて死地に赴く民族である。
 二年前の東日本大震災の際にも、人々を救うために、そのような人々の、日本人の血に根ざした、知られざる咄嗟の行動が、あまたあったのだと思う。

 さて、
 このように思いを巡らしたとき、しみじみと、日本人にとって靖国神社が如何に大切な神社かが分かるのだ。
(以下略)

新しく発見された、吉田松陰の辞世の句を知るまで門馬は、29才で刑死し松陰は、どんなにか無念だったろう、憤怒の形相で死んでいったに違いないと、想像していたのだった。
「此程(このほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)はけふ(きょう)きく古曽(こそ)嬉(うれ)しかりける」
「嬉しかりける…!」
吉田松陰もまた、微笑んで逝ったのだ。
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