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RAN下書き 信長

酒はあまり飲めず宣教師が贈った金平糖をとても気に入った

宣教師、ルイス・フロイスと謁見した際、フラスコに入れられた金平糖を受け取り、とても喜び、以降、お気に入りとなっていた事でも知られています。周辺の人のさまざまな証言によると、信長は酒を飲まず、部下にも酒を薦める事はなかったそうなので、意外と甘党だったようにも思えます。



今日は何の日?徒然日記

その日の出来事や記念日、歴史ウラ話を楽しくわかりやすく紹介する歴史ブログです

2007年9月12日 (水)



信長の比叡山焼き討ちは無かった?

元亀二年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山・延暦寺を焼き討ちしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらも先日の『川中島の合戦』と同様、ブログをはじめての最初の9月12日という事で、昨年はごく一般的に知られている「織田信長による比叡山焼き討ち」のお話を紹介させていただきました(昨年の記事を見る>>)。

しかし、教科書にも載っている有名なこのお話も、例のごとく諸説あり、信長さんの言い分あり・・・という事で、今日は別の視点から書かせていただきます。

・・・と、その前に、『比叡山の七不思議』の一つ、『なすび婆(ばばあ)』のお話はご存知でしょうか?

今は石碑のみが残る、かつて東塔にあった南光坊というお堂・・・。

ここには、昔、なすび色の顔をした老婆の幽霊が住みついていたのだそうです。

その老婆は、平安の昔、宮中に仕えた官女でしたが、誤って殺人の罪を犯してしまいます。

それがもとで、死んでからは地獄に落とされてしまいましたが、彼女は生前から自分の犯した罪を悔いており、信仰も厚かった事から、救われて、その身は地獄にあっても、心は比叡山に住む事を許されたのだそうです。

その「なすび婆」が、信長の比叡山焼き討ちの時、大講堂手前にある鐘楼の大鐘を乱打し、急を伝えたと言います。

なすび色の顔をした婆さんが、必死の形相で鐘を乱打・・・怖いか?

いや、怖いゾ・・・なすび色の婆さんの必死の形相を想像しただけで、ある意味怖い・・・怖すぎる光景だ・・・。

さすがに七不思議だけの事はあります。
(比叡山七不思議については、HPの【平安京魔界MAP】で紹介しています。「なすび婆」に関しては、内容かぶってますが、他の六つも紹介していますのでよろしければコチラからどうぞ>>>)

しかし、今現在、平成の世の中で、この話を聞いて「へぇ~そんな事があったんだぁ」と、丸々信じ込んでしまう人がいるでしょうか?

おそらく、誰もが、伝説は伝説、史実は史実、とわけて考えるはずです。

信長さんに関する資料として代表的なのは、やはり『信長公記』。

これは、信長に仕えた太田牛一という人が「私作・私語にあらず」と明言して書き残した事もあり、「おそらく史実であろう」と考えられています。

そこには、『・・・雲霞の如く焼き払い・・・目も当てられぬ有様なり、数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなる。』と、比叡山焼き討ちの様子が書かれています。

確かに、著者である太田牛一さんは、わざと創作はしなかったかも知れませんが、かと言って事実であると断定するわけにはいきません。

ポイントは、彼が本当にその目でその光景を見たのかどうか?という事です。

たとえば、『信長公記』には、信長さんの最期である本能寺の変(6月2日参照>>)の事も書かれていますが、その日、彼は本能寺には宿泊していませんから、実際に見たわけではありません・・・にも、関わらず、かなりリアルに、かなり詳細に書かれています。

おそらく、誰かから聞いた話と、主君に対する思いが相まっているのでしょうが、実際には、光秀側で参戦した人物の書いた記録とはかなり異なっています。

それは、比叡山焼き討ちの記述に関しても当てはまる事だと思います。

もう一つ、イエズス会士・ジマン・クラッセという人が書いた『日本西教史』。

これには、『・・・ことごとく僧徒を殺戮し、・・・寺院を焼き、猛獣があさるように兵を洞窟まで入れ、逃げ隠れする者を捜し出し、ことごとくこれを焼き殺した。』とありますが、彼も、実際にその目で見たわけではないでしょう。

彼は、同じ『日本西教史』の中で、あの豊臣秀頼について、大坂夏の陣(5月8日参照>>)の後、死体が見つからなかった事に触れ、「妻子を連れて逃亡し、傘下の大名のもとにいる」と書いていますが、これは明らかに、当時の町の噂をそのまま書いています。

つまり、比叡山の焼き討ちに関しても、町の噂をそのまま書いているかも知れないという事なのです。

現在、教科書をはじめ、信長の比叡山焼き討ちに関しての出来事は、「なすび婆」ほどでは無いにしろ、事実とは異なるかも知れないと疑ってみるのも良いかも知れません。

一方、焼き討ちが行われる前年、英俊という僧が、比叡山を訪れた時の感想を日記に書いているのですが・・・(こちらは実際に見た感想です)

堂坊が荒れ放題になっていて、わずかに根本中堂の灯明が2~3個点っているだけの状況を目の当たりにして、「僧はほとんど山を下りて、坂本あたりで女と遊び、高利貸しをして贅沢三昧し、学業をおろそかにしているから、こんな事になるんだ」と嘆いています。

この状況が本当だとしたら、もはや、焼き払うに値する堂坊も無く、追い詰めて焼き殺す善男善女もいない事になってしまいます。

さらに、近年行われた滋賀県教育委員会の発掘調査で、大きな火事があったら、当然残っていなくてはいけない焦土の跡や、人骨などがまったく見当たらなく、出土した品も平安の頃の物ばかりだった事から、信長の時代に、「全山が猛火に包まれ3千人が虐殺された」というような事は、地質調査の限りで言えば、考えられない事である事も判明しました。

ただし、信長が比叡山を攻撃したというのは確かでしょう。

それは、浅井・朝倉の落ち武者をかくまい、内通する延暦寺は、信長にとって軍事的に敵であったからです。

しかし、伝えられるような大規模な物ではなく、少しばかりの堂坊を焼いただけの物だった・・・というのがホントのところではないでしょうか?

では、なぜ?そのような「大規模な焼き討ち」と書物に記録されるようになったのでしょうか?

上記の彼らが、自ら創作したのでないのなら、少なくとも「町の噂」となっていたわけですから・・・。

そう、その通り、この信長の比叡山焼き討ちは、「町の噂」になっていたのです。

おそらく、噂を流したのは、延暦寺の僧たちです。

彼らは、信長を「仏敵」と言いふらし、同情を買い、世間を延暦寺の味方につけようとしたのではないでしょうか?

そこに、「アノ人ならやりかねない」という信長さんのキャラクターが、いっそう真実味を帯びて、あたかも事実のように伝わって行く・・・。

戦国時代と言えば、まだまだ、神仏への思いが根強かった頃・・・一般庶民にとっては、まさに信長さんが「魔王」に見えたに違いありません。

しかし、信長は「神仏をも恐れぬ魔王」などではなく、ただ、目の前の敵に向かって攻撃を仕掛けた・・・いやいや、最初に武装して、浅井・朝倉と組んで、信長を敵にまわしたのは、延暦寺のほうでしょう。

そこには、「天罰が怖くて、何も手出しはできないだろう」という油断があったに違いありません。

事実、それまでの武将は、誰も延暦寺には手を出せませんでした。

そういう意味では、彼ら僧兵にとって、信長さんは「魔王」・・・仏を傘に着た武装集団に、それまでの常識を打ち破って、宗教と軍事とは別物であると知らしめた先駆者であったわけですから・・・。
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