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「南京大虐殺」の嘘から、「通州事件」の真実まで、私たちは目を背けずに目撃しなければならない…!

Kazumoto Iguchi's blog
2013年 12月 13日
12月13日今日は何の日?:日本軍による南京陥落の日=南京に平和が訪れた日!
今日は何の日か知っているだろうか?
今日12月13日は、「南京陥落」の日である。そして、12月17日が「日本軍南京城入城」の日である。
私が、いわゆる「南京大虐殺が捏造だった」と気がついたのはいつ頃の事だったのだろうか?それほど昔ではなかったと思う。
日本の大和民族が古代イスラエルの失われた10支族であるという研究をしていた、マーヴィン・トケイヤー氏と中丸馨氏の対談で、トケイヤーが「当時の南京には日本政府の建てた河豚計画というものがあって、非常にたくさんのユダヤ人が西洋から逃げて住んでいたが、南京で日本軍による虐殺はなかったと証言している」という話を読んでからだったのではないかと思う。

(い)さて、前置きが非常に長くなってしまったが、この南京入城にまつわる歴史を、ねずさんが見事にまとめておられるので、それをここにもメモしておこう。以下のものである…。

ねずさんのひとりごと 四度あった南京事件

中共がいう南京大虐殺は、ねつ造でしかありませんが、南京には、実際に起こった虐殺事件があります。
これは史実です。
その南京虐殺事件は、以下の4つです。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して
  虐殺、強姦、略奪を行った事件
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京
  に入り込み、
  城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、
  日本軍がやってくるからと城内で
  虐殺、強姦、略奪を行った事件。
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、
  強姦、略奪を行った事件。

1~2では、在留邦人も被害にあっています。
3は、中共政府が宣伝する南京大虐殺の「前」に実際にあった出来事です。
4は、昭和24年ですから、すでに大東亜戦争も終わり、日本とはまるで関係のない状態で起こった事件です。
以下、順にその概要をみてみます。
──────────
第一次南京事件
大正2(1913)年
──────────
この事件は、大正2(1913)年8月に起こりました。
支那では清朝政府が辛亥革命によって倒れるのですが、このあと孫文の後を受けて袁世凱が新政府の大統領に就任します。
ところが袁世凱の狙いは、支那の民主化とはほど遠く、単に自らが皇帝となろうとする卑しいものであったため、これを不服とする孫文派の革命功績者たちが、袁世凱と激しく対立します。
その対立者たちを押さえこむために、袁世凱は軍事力にものを言わせるのですが、この年の8月31日に南京城内に乱入した袁世凱派の張勲が、南京城内で約一ヶ月にわたり、虐殺、強姦、略奪の限りをつくしています。
この事件で、南京城内では、支那人の市民に数千人におよぶ死者がでたのですが、それだけでなく張勲らは、外国人居留区にまで侵入し、そこで日本人商店も襲撃して、少なくとも日本人10数名を殺害しました。
このとき襲われた商店は、ちゃんと日章旗を掲げていたにもかかわらず、張勲らは日本人を襲撃し、日本人商店で働く邦人を虐殺し、女性を強姦し殺害しています。
当然のことながら、このとき日本国内の世論は激昂しましたが、支那との紛争を回避したい日本政府は、あくまで穏便にと報復措置をとらず、襲われたのは単に張勲軍の何かの手違いにすぎなかったのではないか、などと理屈にもならない答弁をしています。

このため怒った暴徒によって、9月5日には、阿部政務局長が日本国内で斬殺されるという事件まで起こりました。
本来なら、このとき外地にいる邦人居留民保護のため、軍が即応できる体制をとっていれば良かったのです。
欧米諸国は、すべてそのようにしていました。自国民が被害にあった場合、即時断固とした報復攻撃を行っていたのです。

ところが日本政府は、穏便な事態の収拾を図るためにと、軍の動員をしていません。
当時の日本陸軍は、国歌対国家の大きな戦争を前提として組織されており、勅命がなければ一切動くことができない機構になっていたのです。
このことが後日、支那人たちを増長させ、さらに被害を拡大する原因となったことは、歴史に学ぶべき大きな反省事項だと思います。
(中略)
他方、支那という国は、権力者ないし軍事強者が弱者を虐殺、強姦、略奪するのは、むしろあたりまえの風習です。秦の始皇帝の時代から、その歴史は繰り返され続けている。
暴れ出したら、虐殺強姦収奪は当たり前の支那社会に対し、あくまで国家として軍は正々堂々とあるべきであり、奉勅があってはじめて軍が動員されるという日本社会。両者のこの違いは、さらに東亜を共倒れにし、漁父の利を狙おうとする欧米諸国に付け入る隙を与え、政情をますます複雑なものにしていきます。

──────────
第二次南京事件
昭和2(1927)年
──────────
第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。
昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
支那国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城しているのです。
ところが、入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然、襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしたのです。
この事件で、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、他1名の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。
29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。

~~~~~~~~~
弓削南京特派員二十九日発

24日午前5時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約2000名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、
われ等在留日本人は、「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」と安堵の胸を撫でていた矢先き、6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、餓狼の如く闖入して来た。
そしてピストル、銃剣を突きつけて、第一に現金を強奪し、眼鏡や時計、指輪をはじめ、身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。それに勢を得た群衆まで交って、手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った。
かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。
国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、金庫の中に奉安したが、これを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負い、さらに右横腹を突かれた。
病気で臥床中の森岡領事は、二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
~~~~~~~~~~

新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。
さらに日本領事館に侵入した支那人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。
当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっている。
被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けたのです。
英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。
このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。

──────────
第三次南京事件
昭和12(1937)年
──────────
次に起こったのが、第三次南京事件です。
第二次南京事件からちょうど10年後の出来事です。
そしてこの第三次南京事件のあとに起こったとねつ造されているのが、いわゆる「南京大虐殺」です。

第三次南京事件には前段があります。
それが第二次上海事件です。
概要をかいつまんで申し上げると、まずこの年の7月7日に、盧溝橋事件が起こっています。
当時の支那は、清国政府が倒れて、いまのソマリアのような無政府状態になっていたのです。
しかも欧米列強の駐留に対し、一方には露骨な外国人排斥運動があり、諸国は治安維持と自国民の保護のために支那に駐留軍を国際協調で置いていたのです。

そうした中で、露骨な日本への挑発行為として起こったのが盧溝橋事件で、この事件のあと近衛内閣は支那の華北地区への派兵を決定しています。
ただしこの派兵は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけで、内地からの派兵は行っていません。
つまりこの派兵は、あくまで戦闘の不拡大を目的とした支那への既存の派遣軍の移動にすぎないものだったのです。

ところが日本のこうした戦闘の不拡大方針を「甘い」と見て取った蒋介石は、すかさず北京で日本兵が乗っていたトラックを爆破し、日本人4人を殺害する。

それでも戦闘不拡大を唱える日本の近衛内閣をさらに「甘い」と見て取った蒋介石は、「日本の出方次第では徹底抗戦する」とオダをあげています。
これは非常に政治的な言い回しです。
日本が戦闘行為を行わないと宣言したから、日本と戦うぞと宣言しているのです。
国際社会で「舐められる」というのは、こういうことを指します。
(中略)
さて、昭和12年の日本は、なんとか支那との和平の道を探ろうと外交上の努力をしようとするのだけれど、盧溝橋事件のわずか12日後には、再び盧溝橋で、今度は日本軍に対して一斉射撃をしてくる。
さらに7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃する。
7月26日には、国民党軍の「依頼を受けて」広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。

この事件などひどいもので、支那側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。
すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。
城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。

つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している。
そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。
この事件で、日本側は、兵士15名が死亡し、他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名が命をおとしています。

そしてさらに3日後の7月29日に起こったのが「通州事件」です。
この事件では、北京にほど近い通州で、支那軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺しました。
これにより通州特務機関は全滅し、女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、あまりにも酸鼻極まりない姿で嬲り殺しに遭っています。

ここまで日本を挑発すれば、日本はついに支那大陸に攻め込んでくるに違いない。
これを待ち受け、徹底して日本を叩こうとする蒋介石は、ドイツから豊富な最新式兵器の供給を受け、上海に部隊を集結させたのです。
本来、当時の上海は、昭和7年の多国間上海事変停戦協定によって、国際的に「非武装地帯」に指定されていたのです。
ところがドイツ軍によって指導された蒋介石軍は、日本軍を上海に上陸させ、ここで大殲滅作戦を展開しようと、上海の港から市街に至るエリアに、なんと2万カ所もの重武装したトーチカを築き、日本を待ち受けた。

そして8月19日午前10時半、上海商務館付近にいた国民党軍が、突然日本軍陣地に機関銃射撃を行って来たのです。
このとき、上海にいた日本軍は、海軍陸戦隊の4千名です。
これを包囲して機関銃を撃ち込んで来た蒋介石軍は、なんと5万の兵力です。
機関銃をめくら撃ちに撃ちまくる国民党軍に対し、それでも日本の海軍陸戦隊は応戦していません。
戦闘状態になることを防ごうとしたのです。
ですから支那軍の爆撃機が超低空飛行で、日本の陸戦隊を挑発したときも、日本側は対空砲火をしていない。
そんな日本軍の姿を見て、蒋介石軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破してしまいます。日本軍の戦車などの援軍が来れなくなるようにし、日本海軍陸戦隊を孤立させるためです。
そして日本の海軍陸戦隊4千名を包囲し、猛烈な砲撃を開始してきた。
このままでは、日本側は全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、陸戦隊全軍に、戦闘配置を命令した。

けれど支那軍は最新鋭の重装備の5万の兵力、包囲された日本の海軍陸戦隊はわずか4千の兵力です。
戦力差はあきらかで、このままでは、4千の兵士全員が死んでしまうのは時間の問題です。
そこで8月22日、日本は、ここまできてようやく松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団を、上海北部沿岸に上陸させます。

けれど上陸した上海派遣軍が海軍陸戦隊が立てこもる上海租界地まで到達するには、支那軍が構築した2万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかも支那軍の兵員は、中央軍の精鋭14~15師であり、トーチカはドイツ参謀部が詳細に検討して構築した、網の目状に張り巡らされた火点です。
それだけではありません。支那軍は、追加兵力を次々と投入し、ついにその数、60万の大軍に膨れ上がります。

松井石根大将は、その中でおよそ2ヶ月半果敢に戦い、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながら、ついに支那軍を蹴散らします。
そしてなんと11月9日までに、支那軍60万の兵力のうち20万人以上を倒し、支那軍をほぼ壊滅させてしまう。
そして11日までに、上海から支那軍を全員追い払ってしまいます。
ところがこのときひと悶着が起こる。
支那軍は、退却の際に上海市内で徹底した掠奪、破壊、強姦をしぬいているのです。

支那軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼は支那の住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たと記録にあります。
また、支那の敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もある。要するにこれは事実なのです。

そして国民党兵士たちが去った後、上海の「英字新聞」には、次のような記事が載りました。
~~~~~~~~
国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
~~~~~~~~

こうして上海の治安は回復されました。
そして上海を追われた蒋介石以下の支那軍の兵士たちが、次に向かったのが「南京」だったのです。
支那軍(支那軍最強の訓練され最新式装備を施された正規軍)の兵士たちは、南京に向かって落ちのびる途中、民家を襲っては、略奪、殺戮、強姦をほしいままにしています。
(中略)

上海に集結した国民党軍は、約60万の兵力でした。
そのうち20万が、我が軍に敗れて死傷し、残りの40万の兵力が南京方面に向かって逃走したのです。
逃走した国民党軍のうち10万は、途中の街に隠れ、追撃する日本軍と応戦し、5万が死傷し、5万が逃散しています。
そうして南京には、30万の国民党軍がなだれ込んだのです。
武力を持たない南京市は、この敗残兵を城内に招き入れるしかなかった。
国民党の正規軍なのです。よもや非道はするまいと考えた。
その甘さが悲劇を招きます。
南京城内に入り込んだ国民党軍は、そこにいる市民の誰もが「漢奸(日本びいきの人々を彼らはそう呼んだ)」に見えた。そして南京市民を虐殺し出したのです。

当時の南京市民たちは、そういう国民党軍を恐れ、多くが南京市から逃げ出します。
そして逃遅れた者たちは、国民党兵士に捕まり、ある者は虐殺され、ある者は城外のトーチカに縛り付けられ、またある者は強姦され、家屋には侵入して財物を片端から強奪され、挙げ句、市民の住むエリア全部に火をつけられ一切合切を燃やされた。
そういうところに、12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中支那方面軍12万が到着したのです。

到着した日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行いました。
けれどなんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまいています。
そして10日の午後一時まで、投降を待った。
けれど、城内からは、何の回答も反応もなかったのです。
南京城を囲んだのが12月4日です。そしてこの日が10日です。
もう6日も待っている。
その間、南京城の城外では、一部の国民党兵士からの発砲もあったし、便衣兵(民間服を着て、民間人を装った支那兵士)による執拗な攻撃も受けています。

けれど松井大将は、待った。
つまり松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
戦場において、これほどの相手に対する誠意はありません。
そこまでして、それでもなんの反応もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始したのです。
日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと、なんと11日には、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
けれどその日は、現場ではまだ南京城外で、激しい攻防戦が行われている最中でした。

そして13日、南京城は陥落し、日本軍が南京城内に入城しました。
入城した日本軍は、兵を城内の左右いっぱいに横一列に並べ、城内を前進します。
城内の敵の掃討のためです。

この「城内を横一列で」という部分には注意が必要です。
本来なら城内には民家が建ち並び、横一列での行進は無理なのです。
けれどそのときの南京城内は、民家がすべて焼き払われ、焼土と化した状態にありました。
だからこそ、日本軍は、横井一列による前進ができたのです。
こうして東西と南から城内に入った日本軍に対し、国民党軍の兵士たちは南京城の北側の下関と呼ばれる門から、いっせいに逃げ出そうとします。
そこは南京城が揚子江と接しているところで、川を渡って逃げ延びようとしたのです。

ところが川に浮かんでいた筈の船は、総大将の蒋介石や、南京城の防衛司令官だった唐生智らが、戦いの最中にそくさくと逃げ出した際、後ろから日本軍が船で追いかけて来たら困るからと、そこそこの大きさの船は、みんな底に穴をあけて沈めてしまっていた。
つまり、下関には小舟しか残っていなかったのです。
そこに国民党の兵士たちが逃げようとして押し寄せた。
船に乗れずに、舷側に捕まろうとする者、多人数が舷側につかまったら、船が沈んでしまうからと、そのつかまる仲間の手を切り落とす者、すさまじい地獄絵図がそこで描かれています。
一方、日本軍は、13日から15日までの3日間、城内掃討(ほとんど戦いらしい戦いはない)を実施し、城内の平穏を確保したあと、17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行います。
当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれた。さらに18日には、両軍の死者を弔うため、合同慰霊祭を行い、敵味方の区別なく、慰霊を捧げています。
そしてその翌日には、上海派遣軍の各部隊は、部隊毎にそれぞれ他の戦闘地域への移動を開始しています。

また日本軍の入城によって治安が回復した南京城には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。
そうして帰還した支那人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っている。
南京城に、笑顔が戻ったのです。

この昭和12(1937)年の南京事件において、日本軍による南京大虐殺が行われたと主張する者たちは、12月13日の日本軍の南京入城直後から、約6週間にわたって日本軍が無辜の市民30万人を大量虐殺したと主張しています。
けれど攻城戦が行われる前の時点で南京にいた市民の数は20万人。
戦闘開始前に、市民の多くは城外に避難し、日本軍の入城後に城内に帰って来ています。
そして近隣の都市からも安全と安心を求めて避難民が集まり、南京の人口は25万人に膨れ上がった。
どこでどうやったら、そこで30万人の虐殺が行われたことになるのか、さっぱりわかりません。
要するに南京虐殺など、「なかった」のです。

──────────
第四次南京事件
昭和24(1949)年
──────────
昭和12年の日本軍の南京城入城によって治安が回復した南京市では、日本軍に勤務する若い女性が、ひとりでショッピングのために市場に出かけても、まったく安全で、豊かな経済生活が行われる普通の街に戻ります。
当時南京にいた方々のお話を聞くと、戦時中、内地(日本国内)では、食事が制限され、国民はひもじい生活を余儀なくされていたと聞いているが、自分たちは食べ物も豊かで、明るく安心な南京生活を楽しむことができて、なんだか申し訳ない気がする、などとおっしゃいます。
けれどそうした治安の保たれた南京市も、大東亜戦争の終戦によって様相が一変します。
そして起こったのが、第四次南京事件です。

昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争における戦闘行為を終結させました。
これに先だつ8月14日、蒋介石率いる国民党は、中ソ友好同盟条約を締結しています。要するに日本と対立するために、ソ連と同盟関係を結んだわけです。

この頃の蒋介石軍は、米英から軍事物資等の豊富な援助を得ていました。
米英にとって、人種の平等、民族の自立を主張する日本は、白人種が有色人種を支配し収奪する植民地主義を維持するにあたり、ひらたくいえば「邪魔な存在」だったのです。
だから同じく有色人種である支那人の蒋介石に武器弾薬、食料、資金を与え、双方を疲弊させる戦略を採っています。

おかげで蒋介石率いる国民党は、連合国の一員であり、戦後は戦勝国として高い地位を与えられ、東京裁判においても判事を出す国となっています。
ところが、ではこの当時において、支那が蒋介石率いる国民党軍によって成立する「国家」であったかというと、実はそんなことはない。
当時の支那には、南京に汪兆銘を首班とする南京政府があり、支那奥地には毛沢東率いる支那共産党があり、三者がそれぞれ、我こそは正当な支那の国家政権であるとそれぞれに主張していたのです。

そして戦争が終わった。
米英が蒋介石に支援物資を与えていたのは、あくまで日本と戦うためです。
当然、日本が戦争を終わらせれば、蒋介石は用済みで、終戦とともに蒋介石のもとには米英からの援助物資が途絶えてしまう。
数十万の兵を養わなければならない蒋介石にとって、兵を養うカネがないというのは、まさに党の死活問題です。

一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は、終戦にともなって日本軍の武装解除によって日本軍から得た銃器や弾薬が大量に余ってしまった。
その銃器弾薬を、ソ連は毛沢東率いる支那共産党軍にまるごと引き渡します。
すでに補給を失った蒋介石軍、突然豊富な補給物資を得た毛沢東軍、両者はあちこちで戦い、毛沢東側が圧勝します。
蒋介石は追われ、ついに南京に向かって逃げ出した。

南京には、戦時中、汪兆銘率いる南京政府がありました。
この南京政府は、親日政権で、おかげで南京は戦時中、ずっと豊かで平穏な社会を維持することができた。
要するに、蒋介石にとって、豊かな南京に行けば、失った米英からの援助に代わる富を得ることができる。

こうして蒋介石は再び南京に攻め込みます。
そして南京市民から再び収奪を行った。

さらに前年の昭和19年に亡くなっていた汪兆銘の墓をあばき、遺体を焼き、さらに彼の一族50余名を逮捕し、虐殺すると、その遺体をゴミとして廃棄した。
また親日的だった支那人たちを次々と殺害し、婦女を暴行しています。
そして資産家の家に乱入し、戦時徴発と称して、金品をさかんに巻き上げた。
けれど、南京市民にとって、まだ汪兆銘憎しと目先の利益を追求した国民党軍はまだマシだったのです。
事件はその後に起こった。

国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度はその国民党軍を追った支那共産党軍がやってきたのです。
この時点でろくな武器を持たない国民党軍は、共産党軍がやってくると算を乱して逃げ出します。
その後に、共産党軍が城内に乱入する。
乱入した共産党軍にとって、南京市民の全部が敵です。
彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と殺害し、通州同様に南京市民を虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮した。

なにせ共産主義者たちにとって、普通の経済生活を行う市民はブルジョアです。
そしてブルジョアから富を奪い、それを共産主義者たちに分配することが、彼らにとっての正義なのです。
そして奪うものは財物だけではない。
人としての尊厳や貞操、生きる権利の全てが否定の対象だった。
この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。
(中略)

南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して「どの南京虐殺事件のことなの?」と質問していただきたいのです。
そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じ支那人による南京に住む支那人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。

尚、本件について、アネモネさんがご自身のブログ「東アジア黙示録」でも、詳しい紹介が出ていますので、是非ご参照ください。

本当にあった南京大屠殺…シナ残虐史のリメイク
<< 作成日時 : 2012/03/02 00:12 >>

日本領事館を不逞シナ人が襲撃…それが史実の南京事件だ。同胞の悲劇を無視して“加害”を強調する捏造派。なぜ連中は“虐殺の動機”を無視するのか?その答えが、南京の血塗られた歴史にある。


「眼鏡を奪い取られ、目が見えないまま二階から飛び降りたそうです。腹と足を刺され、父は重傷を負いました。(略)その時に着ていた血だらけの背広をわが家では大事にとっておりました」(門田隆将著『この命、義に捧ぐ』73頁)

我が陸軍・根本博中将の長女は、そう語る。九死に一生を得た南京事件の生々しい記憶だ。根本中将は昭和24年、再び戦場に赴き、中共の台湾侵攻を水際で食い止めた日台の英雄である。

昭和2年(’27)3月24日、武官として南京の日本領事館に勤務していた根本少佐(当時)は、そこで南京事件に遭遇。乱入したシナ人集団に素手て立ち向かったが、銃剣で刺され、深い傷を負った。
領事館を襲撃したシナ人集団は、蒋介石率いる国民革命軍の正規兵だった。北伐の途上にあった国民革命軍は、その日の朝早く、南京に入城。当初は平穏であったが、程なく城内は騒擾状態に陥った。

国民革命軍の一部兵士と“民間人”が在外公館や外国人居留地を襲撃、暴行・略奪を繰り返した。事件当時、南京に居住していた日本人は約500人。その家屋は軒並み襲撃を受けた。

▼南京の日本領事館S12年当時
日本領事館に侵入した不逞シナ人集団は館員を襲い、金品を強奪するだけではなく、領事夫人を陵辱するといったショッキングな事件も引き起こした。今も昔も変わらないシナ人の典型的な狼藉である。
外交上の大事件だった。ところが、我が国や標的となった列強による蒋介石追及は甘かった。この事件の背後にも、誕生間もない中共とコミンテルンが控えていたのだ。

ソ連が国民党に送り込んだ政治顧問ボロディンは、コミンテルンの工作員。南京に入城した第6軍・第2軍の政治部主任も共産分子だった。列強の公館襲撃で蒋介石を孤立化させる作戦である。

共産革命のアジア輸出…南京事件の構図は、そのまま南京攻略戦をめぐるフィクションにつながる。反日メディアが媚中学者が、この南京事件を一切無視する理由も判りやすい。

1927年に居留外国人が襲撃された事件は、第2次南京事件とも呼ばれる。1913年8月には袁世凱の腹心・張勲による第1次南京事件が発生。日系商店が襲われ、日本人10数人が虐殺されている。

シナ人の暴虐事件が繰り返される南京。だが、ほんの少し時代を遡ると、その地では事件という概念を超える惨事が起きている。

【シナ人による大虐殺との共通点】

「南京の北東の門の前に、爆薬二十トンを爆発させた。爆発の煙が消えたとき、その軍隊は市内になだれ込み、飢えた住民に襲いかかった。王宮と他の宮殿は、火を放たれた」(K・S・カロル著『毛沢東の中国』)

もちろん昭和12年の南京攻略戦に関する記述ではない。ここに登場する軍隊とは、清朝末期の漢族軍人・曽国藩が率いる湘軍だ。想像を絶する凄惨な歴史事実…情景は更に、こう描写されている。

「続く三日間に、十万人以上の人々が殺されたが、投降した反徒はひとりもいなかった。われわれはポンペイを思わせる人影のない街路を前進したが、焼死者の悪臭にたえられなかった」(前掲書)

これが1864年に起きたジェノサイド、本当の南京大屠殺だ。19世紀半ばに始まった「太平天国の乱」の結末である。シナ近代史を彩る著名な異教徒の叛乱だが、残酷なエンディングは余り知られていない。

「五十万と推定された人口のうち、生き残ったのは、たった五百人に過ぎなかった」

カロルの提示する犠牲者数は水増しだろう。正確な数は不明だが、今では「犠牲者20万人」が定説になっている模様だ。この20万人という規模は、示唆に富んでいる。
▼太平天国軍と清軍の長江戦図
また曽国藩の幕僚であった趙烈文は、著書『能静居士日記』の中で、虐殺は1ヵ月間続き、財宝を運び出す車列は延々3ヵ月続いたと記している。加害者側の告白であることが重要だ。

20万人の犠牲者数と3ヵ月という期間。どこかで聞いた覚えがある…20万人とは市ヶ谷で中華民国側が掲げた捏造話の犠牲者数。3ヵ月は、反日勢力が絶叫する昭和12年末からの南京の混乱期間である。

見事に一致するのは、偶然ではない。そして、南京を舞台にした殺戮の嵐は、19世紀から第2次南京事件まで続いた特異な出来事でもない。

【繰り返された南京落城の惨状】

「軍中では食糧が欠乏したので、士卒を放って民間の米穀、財宝、子女を掠奪してまわった」(『資治通鑑・梁記17』)

「数ヶ月の間に人びとが互いに食いあうに至っても、餓死を免れなかった。生き残ったものは百人中、一、二人しかいなかった」(『資治通鑑・梁記17』)

これらは548年の「侯景の乱」に関する記述だ。評論家の黄文雄氏は、南京が六朝の都として栄えた4~6世紀の間に何度も大虐殺が繰り返されたとして、複数の例を挙げて紹介している。

☆王敦の乱…322年(東晋時代)
☆蘇峻祖約の乱…329年(東晋時代)
☆桓玄の乱…402年(東晋時代)
☆王僧弁の南京大屠殺…552年(梁時代)
☆晋王楊広の南京討伐…589年(隋時代)

血塗られた南京の歴史を踏まえて「大虐殺」はこの時代の名物だったと黄文雄氏は説く。
(中略)
20世紀に創作された物語を否定するのに、1500年前の史実を持ち出すことは突飛に見えるかも知れない。だが、これが南京捏造話を暴く核心にもなるのだ。

【中共は「動機」を設定し忘れた】

朝日新聞が南京に関する虚偽報道を始めてから既に40年以上が経過した。異様な超長期キャンペーンだが、その中で捏造派が今でも創作できないのが「大虐殺の動機」だ。

犯罪を立証する上で重要なのは物証だが、故意と認定するには動機が欠かせない。捏造派は無関係の写真流用やトリミングなどの悪質な手法で“証拠”を示してきたが、軒並み嘘が暴かれた。

物証もなく、動機も示せない…それが現在の“南京論争”の状況だ。一部の頭の弱い捏造派は「軍命令の為に兵士に動機はない」などと主張するが、命令書など存在せず、自爆に自爆を重ねる始末だ。

中共も“大虐殺”の動機を挙げていない。無関心なのだ。ここで虐殺のシナ史が役に立つ。シナ人にとって、首都決戦で迫る敵軍がジェノサイドを行うことは常識。しかも舞台は歴史的な“虐殺都市”だった。

高い城壁に囲まれた南京。そこを包囲したシナ人の軍勢が先ず火を放ち、突入後に略奪・暴行・殺戮を繰り返すことは「通常パターン」だったのである。

最初から国民党も中共も、動機を説明する必要性に気付かなかったのだ。更に中共が「動機」を党認定しなかった為に、我が国の捏造派が独自論を展開することも出来なかった。

それがリメイクの限界だ。ゼロからフィクションを作り上げるのは難しい。昭和12年の南京捏造話は、こまでのシナ人による南京大屠殺、取り分け「太平天国の乱」のラストシーンをネタ元にしているのだ。

慰安婦捏造話は、農村の少女を拉致して売り飛ばすという朝鮮の歴史的暗部を下敷きにしていた。同様に南京捏造話も自民族が抱える物語を色濃く反映している。

南京にある捏造紀念館には、今年の段階で30万人という犠牲者数がクリップされている。この人数が論争の焦点であるが、特に逆上する必要はない。その数は「太平天国の乱」の死者数を明示している。

殺戮の手口も狼藉の伝統スタイルも、実際はシナ人のものだ。間違っているのは、1937~38年という年代と加害者。パネルや軍服を付け替えれば、そのままシナ虐殺資料館として明日にもオープン可能だ。
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