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RAN 第1章

RAN

「歴史とは虹のようなものである」~オーウェン・バーフィールド~

夕焼けの中を、二人歩いていた。
歩道に伸びた二つの長い人影は、時に離れ、時に重なり合い、まるで楽しく語らいあっているかのようだった。だが、校門を出てから、否、同じタイミングで教室を出てから、ずっと二人は無言のままだった。
駅に近づいたときだった。不意に、家々やビルの間から空が大きく開いた。その時、長い黒髪の井上蘭太郎の全身を、赤みがかった初秋の日の光りが輝くように包んだ。
授業中眠っている蘭太郎、美しい着物を身にまとい舞台で踊る蘭太郎、面をつけ、誰よりも激しく相手を打ち付ける蘭太郎、そのどれとも違うもうすぐ16歳の少年の姿がそこにあった。
蘭太郎は足を止めた。うつむき加減に、ほんの少し後ろを歩いていた門馬慎之介も、つられるように歩みを止めた。
前を向いたまま、蘭太郎は門馬に声をかけた。
「きのう、不思議な夢をみたんだ」
「え?」
門馬は、蘭太郎の横顔をまぶしそうに見つめた。
日舞の家元の母と剣道の道場を持つ父との間に生まれ、母の美貌を受け継ぎ、剣の腕も素晴らしく確かな蘭太郎の周りにはいつも人が群がっていて、門馬は遠くそれを眺めていた。こうして学校から駅まで一緒に帰るのは高校に入学し、クラスメイトとして出会って以来、初めてのことだった。
「初めて話をする君に、こんなことを言うのは、ちょっと変かもしれないが」
「気にしないで、何でも言ってくれたまえ」
蘭太郎は微笑んだ。
何だろう、この感じ。名前のせいだけではなく、門馬には、侍の姿が良く似合うと、蘭太郎は思った。それも戦国時代の戦う侍の姿ではなく、平和な江戸時代の書物に囲まれた姿なのだ。例えていうと、そう、寺子屋の先生のような・・・。それにしても、どうしてあんな夢をみたのだろう。
門馬の顔を、蘭太郎はまっすぐに見つめた。
「鹿児島の、知覧に行ったことはあるかな?」
「・・・いや、無い。特攻平和祈念館のある場所だね。近くに開聞岳のある」
「ああ。富士山に似た、素朴で美しい山だ。君は特攻隊員だった。無駄死にするなと必死に引き止める僕を振り切って、五百年後、千年後の世には必ず蘇える。そう言って君は、たかく、大空に消えていった」
スローモーションのように、夢の中で静かに門馬の口元が語りかけている。だがその声は爆音にかき消され、ほとんど聞こえない・・・。
切なさと苦しさの中で蘭太郎は、泣きながら目を覚ましたのだった。

門馬は驚いていた。昨日、いつものように眠れぬままネットを彷徨い、初めて「神風特別攻撃隊 フィリピン編」の動画を見て涙し、眠りについたのだった。
心の中で、門馬は呟いた。
「もう、戦争は続けるべきではない。
しかし敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない。では何故見込みのないのに、このような強行をするのか・・・」
そのあとの言葉を、門馬は口に出して呟いていた。
「ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」
「君はそう言っていたのか!」
思わず、蘭太郎はそう尋ねた。
「これは、『神風特別攻撃隊 フィリピン編』の中の言葉だ」
蘭太郎は、不思議そうに門馬の口元を見つめた。
「知らなかったのか? わりと有名なサイトだと思うが」
「僕はパソコンは苦手だ。家に一台あるにはあるが、母のお弟子さんが管理している・・・」
静かな時が流れた。蘭太郎は空を見上げた。
気がつけば、太陽は、西の空に茜色を残し消えていた。
「彼らは勇者だった。馬鹿馬鹿しい戦争の、哀れな被害者だと思っていた、自分が恥ずかしい」
夕暮れの空に、星がひとつ輝いた。


翌日のことだった。
どちらからともなく待ち合わせた蘭太郎と門馬は、二人で駅までの通学路を歩いていた。
話は自然に、日本史の授業中、いつも寝ている蘭太郎の話題になった。
「歴史なんて、特に日本史なんてクソクラエだ」
女の子のように可憐な蘭太郎の唇から、激しい言葉が次々と飛び出すのを、門馬は面白そうに眺めた。
「まず第一に、僕が教科書は信用ならないと思ったのは、鎌倉時代の元寇だ。元軍は寄せ集めの兵士たちだから、やる気なくて鎌倉武士に負けちゃいましただと! 冗談じゃない! 戦さはスポーツじゃないんだ。負けるってことは、すなわち死ぬこと、殺されることだ。そんなことも分らないのか? 教科書を作っている人たちは? そして、その信用ならない教科書を使って、平気な顔をして授業をする先生って、一体何なんだ?」
「元寇で対馬と壱岐はモンゴルと高麗軍に蹂躙され、両島民はほぼ全滅した。男たちは皆殺し、女子供は手の平に穴を開けられ縄を通されて船縁に吊るされ、食料にされた。二百人の少年少女が拉致され、高麗王に献上された・・・」
蘭太郎は呆然と門馬の顔を眺めた。
「ちょっと待ってくれ。食料・・・? それは、本当のことか?」
「まず真実を知ることが大切だ。余りに残酷だからといって、目を背けてはならない・・・・。彼らは人肉食の文化というか、そういう習慣を持っていたのだ。人の肉は「両脚羊(ヤンシャオロウ)」と言われ、普通の市場でも売られていた」
「要するに、極限状態で仕方なくではなく、普段からやってた、ということか・・・」
「倭寇は、知っているね」
「日本の海賊だろ」
「正確に言うと前期倭寇、後期倭寇に分類されるのだが、前期倭寇は元寇に対する復讐だ」
「復讐・・・」蘭太郎は足を止めた。
「高麗王に献上されたという子供たちはその後、どうなったんだ?」
門馬は暗い顔で首を振った。
「僕はこう思う」蘭太郎は空を見上げた。「拉致された家族が仲間が、万が一にも生きているかもしれない。何としてでも助け出したいって気持ちもあったんじゃないかな。今も昔も人の心はそんなには変わらないと思う。まして、同じ日本人だ・・・。
『防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思ひもせず』・・・僕は万葉集に出てくる、この歌が好きだ。千年以上昔に生きた、名も無い女の人の悲しみを、僕はありありと感じることができる」
「「防人の歌」だね。そう言えば、君は古文の時間は起きてる」
蘭太郎は微笑んだ。そして、歩き始めた。
「そうだ・・・。防人の歌だ。そんな昔から、わが国は大陸からの侵攻に備えていた。ましてや鎌倉幕府は戦さのプロだ」
門馬は深く頷いた。
「日本はそれまでにも、たびたび侵略を受けていた。「刀伊の入寇」が有名だが、その後にも、(1097年)、異賊船100隻、賊徒数万が攻め寄せ、それを撃退したとの記録がある。教科書を読んでいると、日本が侵略を受けたのは、元寇が初めてであるかのように思い込みがちだが・・・。いや、そう思うよう仕向けられている。
教科書曰く。鎌倉幕府は大陸情勢に疎く、元から使者がきて驚いた。(実際は、日本は幾度も侵略を受けてきた。鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事として捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていた)
教科書曰く。時の執権北条時宗は、世界的な一般常識である、絶対やってはいけないこと、つまり元からの使者を、いきなり切り捨てた。(実際は元の使者を切ったのは、文永の役のあとのこと。壱岐、対馬の住人に対する、余りの残虐行為を憤ってのことだ。文永の役の前は、拒絶して帰らせている)
教科書曰く。武士はバカみたいに一人ずつ元軍に名乗りをあげて、一騎打ち戦法で戦いに挑んだ。(実際は、幕府は集団戦法の徹底を命じていた。武士たちは、後に恩賞の証人になってもらうため、日本人同士、味方同士で名乗りあった)
教科書曰く。武士が劣勢だったというのは、竹崎季長が恩賞欲しさに書かせた「蒙古襲来絵詞」という、世界的にも貴重な証拠もある。(実際は、全体的に武士が優勢で元兵が負傷し逃げ惑っている。それを、武士が劣勢に見えるよう、教科書では絵の一部を切り取って使っている)
教科書曰く。敗戦濃厚だった、わが国は文永の役と弘安の役の二回とも偶然の大風、つまり神風で救われた。(実際は鎌倉武士の奮戦による日本の完勝だった。日本人が強いことを快く思わないGHQにより、歴史を捻じ曲げられ、二回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまった)
わが国の歴史教科書による、その後のストーリーは、おおまかにいうとこうだ。元寇以来日本は自分たちのことを神の国だと勘違いし、そのことが、やがて明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと駆り立て、そして世界中に迷惑をかけ、日本が侵略したアジアの国々から、未来永劫許してもらえないくらい、ものすごく嫌われている。だから日本人は永遠に謝罪し続けなければならない・・・」
蘭太郎は暗い顔をして頷いた。
「本当に悲しいことだ。中国で開かれたサッカーのアジアカップのとき、日本人が今でも、相当な憎しみを持たれていることを、ひしひしと感じた・・・」
「元寇について調べること、そして、そのことについて自分の頭でしっかり考えることは、今の僕たち、いや日本人にとって必要なことだと僕は思う。現在の日本の抱える様々な問題点があぶりだされ、それに対する、ごくシンプルな答えを、自分の中に見出すことができる」
「自分の頭で考え、自分の中に答えを見つける・・・」
「例えば、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞欲しさに描かせたものではない。元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちを査定する立場にあった恩人である、安達泰盛の供養のために書かせたものだ。恩賞のためではなく、恩人の供養のためだ。かなり真実に近い描写であると、僕は考えている」
蘭太郎は頷いた。
「死んだ人に嘘はつけないからな。日本画は、画材が高価でなかなか金がかかる。今でさえそうなんだから、昔は相当な出費だったろう。考えてみれば、恩賞欲しさという説に違和感を持たない方がおかしい。
それと、鎌倉武士が、「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて、元軍に一騎打ちを挑んだという説も、考えてみれば相当変だ。言葉の通じない外国人相手に、しかも戦場で、そんな無駄で間抜けなことをするはずがない。証人になってもらうために日本人同士で名乗りあった、という君の話を聞いて、僕はかなり納得した。うん。正解に近いような気がする」
「高麗、つまり今の朝鮮半島だが、日本に味方して、元寇に使う船を手抜きして作った、と主張する説がある。しかし、元のフビライに日本へ侵攻するよう進言したのは、他ならぬ高麗王なのだ・・・。
高麗は驚くべきことに、1231年から1273年まで40年以上に渡って、モンゴル軍に抵抗し蹂躙され続け、ついに屈服した。そしてその後も、余りにも過酷な運命が待っていた。例えばこれは1231年、元からの貢物の要求だが、百万人分の兵士の衣服、馬一万匹、男女1千人・・・。1274年、高麗は未婚の女性を元に献上するため、国中で結婚を禁止しなければならないほどだった。同じ1274年正月、元は高麗に対し、日本侵攻のための船を建造することを命じた。そして君も知っての通り、高麗は元軍らと共に、その年の11月日本に攻め入ったのだ・・・。僕は高麗の歴史によって、戦争に負けるとはどういうことか、属国になるとはどういうことかを目の当たりにした」
蘭太郎は舌を巻いた。
「君は相当優秀な人物だと知ってはいたが・・・。それにしても、どうしてそんなに詳しいんだ?」
「君の場合は教科書、僕の場合はサッカーだった・・・。
数年前、サッカーのワールドカップを見ていたときのことだ。試合を通して世界中の国々や人々の姿、もしかしたら、その民族の真の姿を僕はテレビを通して見ていた。僕は当然のことながら、日本に絶対勝って欲しい、何が何でも勝って欲しい! 僕は心底そう願い、テレビの前で叫び生まれて初めて心から神に祈った。でもその一方で、審判を買収したり故意に相手を痛めつけたり、そんな汚い手を使ってまで勝って欲しくない、そう考えている自分がいた。その時、分かったんだ。霧が晴れるように。みんな同じではないか。日本人だったら、誰しもそう考えるのではないか。今の日本人も昔の日本人も、そう考えるのではないか。
例えば中国のように、何度も何度も皆殺しに近い侵略を受け、昔と現在では民族が入れ替わってしまったと思われるような国もあるが。
日本の場合は、そうではない。万葉の時代から、いや縄文時代から、人々の心根は変わらないのではないか。海外で活躍するサッカー選手や野球選手の、サムライに似た頼もしい面構えを、僕は思い浮かべた・・・。
日本史の教科書やテレビで描かれる無能で醜い日本人、特に太平洋戦争中の残虐でおぞましい日本人とは、まるで違う日本人の姿が、そこにある。変だ。何かが絶対におかしい。もしかしてずっと、僕は騙されてきたのか? それから、真実を追い求め、僕は旅に出たんだ。パソコンの中の、ネットという迷宮(ラビリンス)に」
蘭太郎は、ふうっと深いため息をついた。
「日本史の時間に寝ていて正解だった・・・。だが僕が眠っている間、君は旅に出ていた」
二人は、小さな公園のベンチに腰をおろした。
「元寇について調べているとき、心に残る話があった。19歳で死んだ少年の話だ。名前は少弐資時(ショウニスケトキ)
彼の初陣は文永の役のおり、12歳の時のことだった。7年後の弘安の役当時、19歳になっていた少弐資時は壱岐の船匿(ふなかくし)城にいた。そして若き大将として元軍相手に小勢で必死に戦い、最後は家来数名を引き連れて元軍に果敢に切り込み、壮絶な最後を遂げた。
彼がいた船匿城跡からは、元軍が上陸した瀬戸浦が一望できるそうだ。何千もの船、何万もの大軍を見たとき、彼は一体何を思ったろう・・・」
蘭太郎は目を閉じた。
門馬の低く落ち着いた声を聞いていると、まるで自分がその場所に立っているかの気がしてくるのだった。
一瞬、深い眠りに落ちたような気がした。
ここはどこだ? 蘭太郎は辺りを見渡した。美しい入り江に出現した、夥しい敵の群れ。蘭太郎はハッとした。自分は資時なのか・・・?
「地元の人たちにずっと大切にされている「ショウニイ様」と呼ばれる墓があり、それが少弐資時の墓であることが分かったのは、明治時代のことだったそうだ・・・」
自分は眠ってはいない、さっきのは一体、何だったんだろう。蘭太郎は、門馬の話にじっと耳を傾けた。
「その後の弘安の役の戦いに、少弐資時の祖父・少弐資能(スケヨシ)も、84歳という高齢でありながら、参戦している。おそらく、孫の弔い合戦だったのだろう。そして乱戦の中で受けた傷がもとで、戦後間もなく亡くなった・・・」
突然、胸を締め付けられるような悲しみが蘭太郎を襲った。
「そうか。資時のじいさんが・・・」蘭太郎は空を見上げた。「・・・今日は、星も見えないな」
「ある人によると、歴史は虹のようなものだそうだ。余り近づきすぎると、水滴しか見えない。無数の歴史的事実の中には良いこと悪いこと、光もあれば影もある。日本の子供たちは戦争に負けてから、ずっと虹を見ることなく、今日のこの空のような暗黒の歴史を見せられている・・・」
「門馬君、僕に虹を見せてくれないか? 君が大空に描く、美しい虹が見たい」

「では、まず四大文明の嘘から始めよう」
二人は「虹の公園」と密かに名づけた小さな公園で、放課後落ち合った。
蘭太郎は、ワクワクと、門馬の次の言葉を待った。
門馬はおもむろに、プリントアウトした資料を蘭太郎に手渡した。そこには、「世界に誇る縄文文化」と書かれてある。
「門馬君。さっきの四大文明の嘘の話は・・・?」そう言いながら、蘭太郎はその資料に目を落とした。「これは・・・?」蘭太郎は目を瞠った。そこには・・・。
              


2005年の夏休みの頃のことです。
国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
上にあるのは、そのときのポスターの写真です。
実は、この写真、左が縄文人、右が弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。
ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。
ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらいまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代を新石器時代などと呼びます。
ですから日本の縄文時代というは、欧州や支那における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。
冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものだそうです。
鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。
鳥浜貝塚遺跡は、福井県若狭町にあります。
丘陵の先端部にあり、現在の地表面より3~7メートル下に埋まっていた遺跡です。
海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡で、河床の下で、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、いわば密閉されていた遺跡です。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。
第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。
縄文時代前期、日本最古の櫛とされています。
「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述がありますが、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。
発見された遺物の中からは、編み物も数多く見つかり、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかにされました。
これを復元して見せてくれているのが、冒頭の国立科学博物館の写真なのです。
縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人の姿などを想像してしまいますが。
どうやらこれは大嘘です。
こうした考え方は、「文明文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわち支那が親、朝鮮が兄、日本はおとんぼ、という歴史認識から生まれた、いわば政治的な創作です。
冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。
耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかも彫刻付きです。
耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
また服装は、布製で、極彩色の美しい模様が描かれています。
おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。
特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていた、というのではありません。
出土品の数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけがカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。
つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。
女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということです。
しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。
植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。
女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。
おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。
男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。
ちなみに、日本の縄文期の遺跡は、数千か所発掘されていますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだ発見されていません。
つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。
日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
これはすごいことです。
日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好む。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html

蘭太郎は、資料から顔をあげ、しばらくの間、黙り込んだ。
そしてもう一度、冒頭の女性の写真を眺めた。
「これは布か。縄文人って、こんな可愛い格好をしていたのか。今と変わらないじゃないか、いや、むしろ、こんな心のこもった、手作りのアクセサリーを身に付けていたとは」
そして考えをめぐらすように顔を傾げた。
「四大文明は・・・メソポタミヤ文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明。だいたい紀元前3000年前後・・・チグリス・ユーフラテス河、ナイル河、インダス河、黄河・・・。大河沿いに起こった・・・」
「ああ・・・」門馬はうなづき、蘭太郎の横顔を見つめた。
「世界の文明は、ここから始まったのかと思っていた。そして、そこから伝わった、と。人類の黎明期というか。人類の能力が格段に進歩した頃だと思っていた・・・」
「日本には、世界最古と思われる遺跡がある。青森県にある「大平山元|遺跡(おおだいやまもといちいせき)で、16500年前ものだ。少し、混乱させるかもしれないが、黄河文明はコーカソイドが担っていた。つまり、白人だ。それより前、中国にはモンゴロイドによる長江文明が栄えていた」
「え、コーカソイド? 白人? とりあえず今は四大文明に絞ってくれ・・・。
四大文明って一体何だ。世界共通の学説ではないのか? 人類共通の認識ではないのか?」
「まあ、一種のポエム(詩)だな」
「ポエム・・・!」
門馬はバッグの中からファイルを取り出し、その中の一枚を、蘭太郎に手渡した。

この「世界四大文明説」というのは、トインビーよりも少し古くて支那の梁啓超(りょうけいちょう)が「二十世紀太平洋歌」(明治33(1900)年出版)で唱えたのが最初です。
彼はこの本の中で、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べています。
梁啓超は日本に亡命し、日本で学び、支那の民主化運動を図った清朝末期の政治家です。
彼は、清朝末期に、国が乱れ、支那が国家として再生するうえで、支那人達に自国の歴史への誇りと自信を深めてもらうために、いわば目的的にこの本を書いています。
ようするに彼は政治家であって、「支那には世界の大文明の一翼を担った歴史があるのだから、俺たち支那人は、もっとこの国に誇りをもとうよ」という主張をするためにこの「世界四大文明説」を唱えています。
つまり「世界四大文明説」というものは、学説ではなく、政治的に生まれた造語です。
実際、この考え方は、誇りを取り戻そうとする支那人たちには大歓迎されたけれど、欧米ではまったく評価されなかった・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-791.html

「ふう・・・」
蘭太郎は、顔を上げた。
「世界史の教科書も油断ならないのか。それで、黄河文明は白人だったというのは?」
「最新のDNA検査というものは、目ざましいものがある。犯罪においてしかり、植物においてもしかり・・・」
門馬はファイルの中の資料を蘭太郎に手渡した。

平成12(2000)年のことです。
東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。
調査の対象となったのは、
1、約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨淄(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国     時代の斉の都)遺跡から出土した人骨
3 現代の臨淄住民
これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨淄人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。
約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。
現代の臨淄住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。
・・・考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。
そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されています。
時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。
遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。
関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイドの遺伝的特徴そのものである
そしてこの時代の人骨からは、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。

さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。・・・ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。
これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。
これは紀元前6000年~紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。
栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。
ちなみにジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあります。・・・いまから約8000年前に、日本には稲作文化がありました。
そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。
そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。
で、できたのが黄河文明です・・・。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html

蘭太郎は顔を上げた。
「それぞれの文明を、それぞれの民族が担っている・・・」蘭太郎は、壱岐対馬の住人を皆殺しにした元軍の恐ろしさを思い浮かべた。「大陸では、殺らなければ殺られる。滅ぼさなければ滅ぼされるということか。中国4千年、悠久の歴史とは一体・・・? あっ・・・!」
そしてもう一度、その資料に目を落とした。
「8千年前の日本に稲作文化? 稲作は弥生時代から始まったんじゃないのか・・・?」
「知っているか? 稲作は、日本から朝鮮半島へ伝わった」
門馬はファイルから別の資料を取り出した。
「もちろん・・・。えっ? 何だって!」
「北朝鮮は、現在でも稲作不適地だといわれている」
「そう言えば、北朝鮮はいつも大変そうだ。ニュースを見るたび、いつも思うんだ。畑はないのか? 田んぼはどうなってるんだ?」
そして蘭太郎は、門馬から渡された資料に目を落とした。


農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては中国南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。
しかし、7,8年前(2007年当時)からまず考古学の分野から変化が起き、次第に中国南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また中国の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは中国政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
・・・米の伝来は中国南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。
「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は中国の山東省付近という説がもっとも有力だ。
また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。

さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が中国からであることを裏付けている。
鵜飼の風習は中国の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。
ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。
なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は朝鮮における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
中国も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html

蘭太郎は笑い出した。
「気が付くと、こう考えている。常に、文化は中国から朝鮮半島に伝わり、そして日本に伝わったと。完璧に刷り込まれている。恐ろしいものだな。教育とは」
蘭太郎は、改めてその分厚いファイルを眺めた。そして「日本人はどこから来たのか」という、ところどころに鉛筆でメモ書きされた資料に目を留めた。
「いつか歴史小説を書きたくて、気に入った資料を集めてるんだ」門馬ははにかんだように微笑んだ。「だが皮肉なことに、余りに調べすぎると、想像力の翼が縮んでしまう・・・」
「門馬君、読んでもらえないかな」
日はとっぷりと暮れ、門馬は街灯の明かりを頼りに語り始めた。蘭太郎は、夕闇に沈む風景を眺めた。何の変哲もない風景が、かけがえのないものに変わっていく。
「縄文人たちがどこから来たのかということについては、最近の遺伝子の研究で、ずいぶん明らかにされています。
・・・日本人とそっくりの遺伝子を持っているのは、どうやらバイカル湖のほとりあたりの人たちです。
日本人のルーツは、北方型蒙古系民族に属するもので、その起源はシベリアのバイカル湖畔にあるようです。
もうひとつ大切なファクターがあります。
気温の変化です。
過去35000年の気温変化をみると、一万八千年前~二万年前に極寒期があり、現在より気温が7~8℃低かったのです。このときの海水面は現在より120~140m低かったのだそうです。
海峡深度との比較から、北海道は宗谷海峡、間宮海峡がシベリアとかなりの期間繋がっていた。つまり、もともとバイカル湖畔あたりにいた人たちが、地球気温の寒冷化によって南下をはじめ、樺太から北海道を経て、日本の本州に棲みついたというのが真相のようです・・・」
「北海道から渡ってきた。そうか、だから世界最古の遺跡は青森県にあるのか・・・」
「日本人がどこから来たのか考えるとき、なぜか、小さな男とその両親の姿が浮かぶんだ・・・。極寒の寒さから逃れ、身を守るため、凍った津軽海峡を渡る、小さな男の子とその父親と母親の姿が目に浮かぶ。先頭に立って進もうとする父親に、男の子はこう言うのだ。「僕の方が軽いから」
そう言って、男の子は長い棒を持ち、氷の感触を確かめるように先頭に立って歩き始める。夜明けを待って、出発したのだろうか。空には有明の月が残っていたのだろうか。どれくらい歩いたら、陸地に辿り着けたのだろうか・・・」
蘭太郎は微笑んだ。
「その男の子は、俺たちのじいさんだ。勇敢で、心優しき男(おのこ)だ。・・・名前は、何ていうんだ?」
「えっ?」
「その男の子の名前だ。人は人に、いつから名前をつけるようになったんだろう」
「名前をつける。まさに、人が人になった瞬間かもしれない。・・・歴史とは、推理小説であり、恋愛小説であり、戦国武将の生き様などから経営者の心得を学ぶ場でもあり、DNAを筆頭とする科学の実証の場でもある・・・。そして、気象学でもあり天文学でもある」
「天文学・・・?」
門馬は頷いた。
「卑弥呼が殺されたのは、西暦二四八年九月五日。皆既日食のあった日だった。・・・。本能寺の変が起こったのは旧暦の六月一日。空に月は無かった」
門馬はオリオン座を指差した。
「あの星の名はペテルギウス。地球からの距離は五百光年。今、僕達が見ているあの星の光は、信長の時代のものだ・・・」
それから二人は空を見上げた。オリオン座の三ツ星、その先の全天一の輝きを放つシリウス。今は見えない、真夏の夜空を大きく彩るさそり座。南の空にあるという南十字星。
その夜のことを、その美しい星の夜を、門馬も蘭太郎も生涯忘れないだろう…。

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