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RAN 第3章

門馬は自分のパソコンを開くと、暗い窓の外を見た。
かつて、日本が全世界を敵に回すかのような無謀な戦いに突入していった。日本人は何に戦いを挑み、何と必死に戦ったのか、その正体を暴かなければならない。 16世紀、インカ帝国をあっという間に滅ぼしたとされるピサロ(インカ皇帝の身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、約束を反故にして処刑した)のことは知ってはいたが…。死屍累々であろうことは容易に想像していたが…。門馬は深いため息をひとつもらすと、あるサイトを開いた。

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叡智の禁書図書館<情報と書評>
ダ・ヴィンチ・コード関連情報の探索と濫読書評のブログ  by alice-room
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 ラスカサス著

何かの本で紹介されていて気になっていた本。会社休んで神田の古書店街をうろついていてGETしました。
コロンブスが新大陸を発見後、スペイン人が続々とおとずれ、原住民のインディオ達を虐殺しまくり、金を奪い、人々を奴隷として虐げるまさに『生き地獄』が始まる。本書はスペイン本国には届かない(隠されたいた征服行為の実態を)そういった非道の行為をスペイン国王に訴え、直ちに禁止しようと働きかける為に書かれたレポートです。

本書を書いたのはカトリックのドミニコ会の聖職者。

著者はスペイン人の侵略者と混じって現地へ布教を目的に渡ったものの、大陸で見たものは、キリスト教の福音を広めるどころか、悪魔そのものの行動で原住民のインディオを略奪、拷問、虐殺するスペイン人の同胞達。

インディオにとって、キリスト教・キリスト教徒とは、悪魔の宗教とその僕に他ならず、この世の楽園のような平和が『金』を求める侵略者に蹂躙される様を数十年に渡って見続け、あまりの理不尽さと憐れみから、インディオ達によるスペイン人の殺害さえも正義の行為と看做すなど、当時にあっては、むしろ例外的な存在だった人物だったようです。
本書を読むと、その半端ではない侵略行為の凄まじさに言葉を失います。
本来はキリスト教の福音を広める為という建前の下で植民者へ付与された権利は捻じ曲げられ、ひたすら『金』と『奴隷』獲得を目的とする侵略行為を正当化に使われます。

実際、彼らが行った結果は、数百万、数十万人のインディオが住んでいた島々を全滅させ、あるいは数十人しか生き残っていない状態にまでしました。島は荒廃し、この世の楽園は見るも無残な生き地獄と化したのです。

しかもそれを行ったスペイン人は、厳しい航海で生死の境にあった時に、無償で食料と住居を提供してくれた非常に慈悲深いインディオ達に対して、その返礼として為されたのでした。

原住民のインディオは、非常に穏健且つ従順であり、また善良であったが故に、スペイン人の求めるままに食料や金まで差し出したのですが、彼等はより多くのものを求め、効率良く『金』を集める為に、人々を虐殺したのです。

本書では彼らが為した極悪非道の所業が延々と羅列されています。現実の役に立つとは思えない道徳の教科書よりは、本書を一読することをお薦めしますね。いかほども教育効果が高いでしょう。戦争はいけないとか、正義とか、立派なお題目はさておき、『正義』は勝ち取ってこその正義であります。イエーリングの「権利のための闘争」を読むまでもありません。現実の世界に、水戸黄門や遠山の金さんはいないのです。(ランボーもいませんけどね)

『大航海時代』なんて、所詮、こんなもんです。某国が石油利権の為に堂々と侵略戦争を行って未だに撤退しないのと五十歩百歩の行動原理です。利益の為に、人は大胆且つリスクテーカーとして行動するのであって、決して善意の為ではありません(例外はあるし、否定はしませんが・・・)。人の行動は今も昔も変わりません。

正義ではなくて、強者が勝つんだなあ~と思いました(勝てば官軍って訳です!)。欲望への執着心こそ、最強の行動原理かもしれませんね。

だからといって、正義を踏みにじって利益の為に邁進するのも私の人生哲学に反するのでできませんが、負け惜しみで綺麗事の『正義』を主張するのもいかがなものかと思います。

世界史の副読本として、こういうの読まないとねぇ~。世界史の先生自体が世界を知らないのでは話になりませんが・・・。まあ、期待してはいけないかも?

まあ、論より証拠で本文より印象に残った部分を抜粋してみます。実はあまりにも凄過ぎてキリがないのですが・・・。
ある日、ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出掛けた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹をすかしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた、犬がそれを食い尽くすと、さらに彼はその小さな胴体と投げ与えた。
無法者のドイツ人総督はインディオをその妻子をできるだけ大勢捕らえるよう命じた。そこで部下たちは特別に作っておいた大きな囲いのような木の柵の中へインディオ達を閉じ込めた。邪悪な総督は、そこから出て自由になりたい者は身代金として一定量の金を差し出さなければならないと知らせた。同じように、妻や子を身請けしなけれなかった。総督はインディオ達を一層苦しめようと考え、要求した身代金を持参するまでは彼らに食事をいっさい与えてはならないと命じた。大勢のインディオは、使いの者を金を取りに家へやり、そうして、それぞれがあるだけの金を差し出し、自由を取り戻した。このようにして解放されたインディオ達は畑は戻り、食事の用意をするために家へ帰った。

ところが、その無法者はこうして一度自由の身となった哀れなインディオたちをふたたび捕らえるために、数人のスペイン人略奪者を派遣した。彼等はインディオたちを元の囲いへ連れ戻し、ふたたび身請けされるまで、彼らに飢えと渇きの苦しみを味わわせた。インディオたちの中にはニ、三度捕らえられ、その都度身請けされた者もいたし、また、持っていた金を既に残らず差し出してしまっていたために、もはやそれも叶わず、まったく身代金も無い者もいた。無法者は彼らをずっと囲いの中に閉じ込めておいたので彼等は餓死してしまった。
彼は奥地へと遠征し、無数のインディオを連行したが、インディオたちは鎖に繋がれ、重さ3、4アローバの荷物を担がされた。なかには空腹と過酷な仕事、それに生来の虚弱さのために疲労し、気をうしなったりするインディオたちが幾人かいた。その時、彼等は一番外側の首枷につないだインディオたちをいちいち止めて鎖を外すのが面倒なので、即座に、倒れたインディオの首枷の辺りを斬りつけた。すると、首と胴体はそれぞれ別の方向へ転げ落ちた。彼等はそのインディオが担いでいた荷物を沸け、ほかのインディオたちの荷物のうえにのせた。
既述したとおり、スペイン人たちはインディオたちを殺し、八つ裂きにするために獰猛で凶暴な犬を仕込み、飼いならしていた。真のキリスト教徒である人々、また、そうでない人も彼らがその犬のえさとして大勢のインディオを鎖につないで道中連れて歩いたという事実を知っていただきたい。おそらく、そのような行為をこれまでに耳にしたことはないであろう。インディオたちはまるで豚の群れと変わらなかった。スペイン人たちはインディオたちを殺し、その肉を公然と売っていた。「申し訳ないが、拙者が別な奴を殺すまで、どれでもいいからその辺の奴の四半分ほど貸してくれ。犬に食べさせてやりたいのだ」と、まるで豚か羊の肉の四半分を貸し借りするように、彼等は話し合っていた。

別のスペイン人たちは、朝、犬を連れて狩りに出掛け、昼食を取りに戻り、そこで互いに狩の成果を尋ねあう。すると、ある者は「上々だ。拙者の犬は十五、二十人ぐらい奴らを食い殺したよ」と答えていた。島々では、牝馬一頭につき、理性を備えた人間であるインディオの八十名が交換された。

その無法者はいつも次のような手口を用いた。村や地方へ戦いをしかけに行く時、からは既にスペイン人たちに降伏していたインディオたちをできるだけ大勢連れて行き、彼らを他のインディオたちと戦わせた。彼はだいたい一万人か二万人のインディオを連れて行ったが、彼らには食事を与えなかった。その代わり、彼はそのインディオたちに、彼らが捕まえたインディオたちを食べるのを許していた。そういうわけで、彼の陣営の中には、人肉を売る店が現われ、そこでは彼の立会いのもとで子供が殺され、焼かれ、また、男が手足を切断されて殺された。人体の中でもっとも美味とされるのが手足だったからである。ほかの地方に住むインディオたちはみなその非道ぶりを耳にして恐れのあまり、どこに身を隠してよいか判らなくなった。

ローマ皇帝のネロもまだ良心的に感じられてしまいます。人ってここまで卑しくなれるんですね。他にも国王から金を根こそぎ絞り取る為に、拷問に次ぐ拷問をする話や、王妃を乱暴して陵辱し、殺す話など、いくら過去のことはいえ、鬱になりそうな話が載っています。

それがあの華々しい大航海時代、スペインの繁栄だったりするわけです。ルネサンスももうすぐだしね。

極論すれば、世界史なんて本書の本を一冊読んだ方が得られるものが多いような気がします。教科書の内容はすぐ忘れますが、本書の内容を忘れられる人はなかなかいないでしょう。

日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね。まあ、リアルタイムでパックス・アメリカーナも大差ないことしてますけど・・・。

いろいろと勉強になる一冊でした。

そうそう、面白いことに本書はその後の歴史で、当初の意図とは全く異なる使われ方をしたそうです。最初は、西欧諸国によるスペイン支配への反対の資料として。また、アメリカ独立戦争や第二次大戦後のアフリカにおける植民地の独立運動など、多彩な方面で本書がたびたび採り上げられたそうです。

実際に、スペインで禁書にされたようで、うちのブログで扱うにはうってつけだったりする(・・・って、オイ)。

う~ん、歴史って予想もつかないもんです。あまりにも酷過ぎる描写故に、インパクトがあるのでその時代時代で都合のいいように利用されたんでしょうね。
でも、そういった経緯は別にしても読んでおいて悪くない本です。人というものについて、改めて考えさせられることが多い本です。

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暗澹たる思いで、門馬はそのサイトを閉じた。
「それにしても」
大多数の日本人の頭の中は、洗脳教育により、惨たらしく何十万人もの人々を虐殺する日本兵の姿が刷り込まれ、思考停止状態になっている…。えっ・・・? 
「日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね」
ひょっとして、ここの管理人はこれを刷り込みたくて、この本の紹介をしたのか? いや、自分も蘭太郎に「倭寇」のことを、軽率に海賊だと伝えてしまっていた・・・。
どちらにしても、人間なんて一皮むけば、みんな同じだという諦念が心の中にあるのだろう・・・。

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大和心を語るねずさんのひとりごと

阿片戦争

阿片(アヘン)戦争といえば、多くの人々の一般的認識は「日本の幕末の頃、大英帝国が支那に阿片を無理矢理売り付けようとして起こした侵略戦争」というものであろうと思います。

実際はどうだったのでしょうか。

なるほど当時の英国が、植民地主義国家であったことは事実です。
けれど本当に英国は、支那人を麻薬漬けにするために阿片を大量に支那に持ち込んでいたのでしょうか。

「阿片窟」という言葉もあります。
阿片の吸引所で、そこでは阿片中毒になった男女が、性的モラルを失って薬物とセックスに浸り込んでいる。
そんなイメージで語られるところです。
実際に、そのようなものがあったのでしょうか。
阿片(アヘン)戦争といえば、多くの人々の一般的認識は「日本の幕末の頃、大英帝国が支那に阿片を無理矢理売り付けようとして起こした侵略戦争」というものであろうと思います。

実際はどうだったのでしょうか。

実際に、そのようなものがあったのでしょうか。
歴史は、現在の価値観で図ろうとすると、大きな間違いを犯すことになります。
当時の時代背景を、まずよくみてみないといけない。

そういう目でこの時代を見ると、実はこの当時、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬類」の販売、所持、吸引など、まったく規制外であったことがわかります。

たとえば、有名なシャーロック・ホームズは、コカイン常習者です。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、薬物で酩酊状態になったときの世界観を表現した小説とされています。

なかでも阿片についていえば、当時は麻薬ではなく、むしろ沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、普通にそこらで売られていた商品でした。

そもそも当時の阿片は、精製がさほどよくありません。
ですから阿片の吸引で、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者などいなかったし、ましてや阿片窟などというものも、存在などしていなかったのです。

このことは、タバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
けれどタバコを吸ったからといって、ショック死する人はいません。これと同じことだったのです。

阿片は、ケシ(芥子)の実から生産されます。

芥子という植物は、赤くて大きな花を咲かせますが、この花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残ります。
これが芥子坊主(けしぼうず)で、この芥子坊主にナイフなどで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片です。

ちなみに阿片を精製して、アルカロイドを抽出すると「モルヒネ」になります。
モルヒネといえば、戦時中、痛み止めとして広く使われていたのは、みなさまご存知の通りです。

モルヒネの純度をさらに高めると「ヘロイン」になります。
ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなります。

ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出方法が確立されたのは、阿片が土台となっていて、日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネを分離抽出に成功したのがはじまりです。

いまではカフェインをはじめ、様々な医薬品に、このアルカロイド抽出の技法が役立てられていますが、要するに、阿片は毒物や麻薬という認識ではなく、咳止め、痛み止めとして広く使われていたものだったのです。

そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされています。
5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が、芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前には、芥子はヨーロッパや、中東、中央アフリカなどで広く栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書で明らかになっています。
いずれも、麻薬や金儲けのための薬物としてではなく、鎮痛剤や、睡眠導入剤として、普及していたものです。

阿片は、シルクロードを経由して、支那に医薬品として持ち込まれています。
三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬が、阿片です。

阿片が日本にやってきたのは、室町時代のことで、支那からもたらされています。
当時の日本では、阿片は「阿芙蓉(あふよう)」と呼ばれ、医療用の鎮痛剤として、ほんの少量流通していたにすぎません。

ちなみによく時代劇などで、長崎奉行が悪徳商人と結託して、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせて我がものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘です。
実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬として、医師の専管物でしたし、そもそも当時は阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていなかったからです。
阿片が、日本国内に広く普及するようになったのは、幕末の頃です。
なぜ普及したかというと、浪士たちが斬り合いをして、大怪我をしたからです。
その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになったのです。

江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心で、全国的に広く普及したのでしょう。

さて、こうして鎮痛のための特効薬としての阿片は、1830年代には、世界貿易の主役となりました。
とりわけ大英帝国の東インド会社が精製したインド・ベンガル産の阿片は、とびきり品質が良く、効き目の高い特産品として世界中に広く輸出されました。
誤解をしてはいけないので、くどく書いておきますが、悪質な麻薬としてではなく、あくまで健全な医薬品として流通していたのです。

医薬品というのは、少量でも高単価です。
しかも栽培地が植民地で、極端に安い土地と労働力で栽培された阿片は、原価が極端に低く、しかも単価が高く、貿易用商品としては、極端に効率性の良い商売だったわけです。
おかげで東インド会社は、ベンガル阿片でたいへんな利益をあげています。

このように阿片は、国際貿易の主力商品だったわけですから、当然英国は支那に大量の阿片を輸出し、販売します。
繰り返しますが、当時阿片は合法的な医薬品です。

あたりまえのことですが、支那人だって怪我をすれば痛いし、傷を負えば辛いのです。
ところが阿片を用いれば、痛みの負担なく手術を受けられるし、副作用も起こらない。
そりゃ普及してあたりまえです。

けれど、このことが大きな問題をひき起したのです。

だいたい他の誰かが大もうけしていると知ると、すぐにそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で売りまくるのが今も昔も変わらない、支那人です。

支那人たちは、阿片が儲かると知ると、芥子を支那国内で大量に栽培し、英国の阿片の半値で売りまくったのです。
ただし、粗悪品です。

これだけなら、まだ良かったのです。
問題は、その商売のやり方です。

英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。

これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。

こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。

それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。
英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。

これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。

こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。

それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。

ちなみに、昔、バイアグラが大流行したときに、支那に旅行した友人が、空港で輸入品のバイアグラと支那製のバイアグラの両方を買って来たのを自慢していました。
効き目は、やはり普通のバイアグラの方がはるかによかったそうです。
値段はと聞いたら、きもち支那製の方が安かったという。
なぁんだ、昔の阿片と同じだなあと、しみじみ思ったものです。

当時、英国は陶磁器や茶などを支那から大量に買い付けていました。
一方で良質な阿片を支那に販売していたわけです。

ところが、英国産阿片がたいへんな人気となったことから、英国側の貿易収支は、当然大黒字、支那からみれば、対英貿易は大赤字です。
貿易通貨としての銀が、支那から大量に流出してしまう。

当時の支那政府は、清朝です。
このことに青くなった清朝政府は、二つの理由から、阿片の輸入の規制に乗り出します。

ひとつは、国内産の阿片商売の独占のため。
もうひとつは、銀の流出阻止のため。

そして阿片問題解決のための特命大臣に林則徐を任命し、上海に向かわせます。

さて、「なるほど。政府が規制したのなら英国産の阿片は、輸入が相当減ったのだろうなあ」
そう思うのが、日本人のお人好しなところです。
支那では、そうは問屋が卸さない。

中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けしたのです。
特命大臣の林則徐などは、まさにこれで大儲けしました。

結局、官僚たちの賄賂の分だけ、支那国内で流通する英国産阿片の値が高くなっただけで、阿片の流通はまるで止まらない。当然、清国内の銀の流出も止まらない。

こうなるといきなり過激になるのも、支那の特徴です。
なんと清朝政府は、天保9(1838)年、英国産阿片を吸引した者は死刑にするというお布令を出したのです。
要するに、英国産の阿片は使うな。使うなら支那産の阿片を使え、というわけです。

これでは英国の東インド会社は、商売になりません。
当然特命大臣の林則徐に猛抗議します。

けれど今度は林則徐も強硬です。
「今後一切阿片を清国に持ち込まないと誓約書を差し出せ」と英国側に申し入れたのです。

支那人にとっては、誓約書というのは、一時しのぎのための建前のための紙でしかない、というのが常識です。
別に、紙くらい、いくらでも書けば良いではないか、と彼らは考える。

けれど、西欧社会では、誓約書を差し出すことは、イコール、契約を交わすことです。
破れば法外な損害賠償を請求されると考えます。

つまり、誓約書を差し出すことは、今後の商売そのものの根幹にかかわると考える。
当然、英国は、これを拒否します。

ところが、民間貿易というのは複雑なもので、同じ英国商船でも、トマス・カウツという商船は、阿片以外の商材を扱っていたことから、ハイハイと、気軽に誓約書を書いてしまった。
トマス・カウスが書いたのに、なぜ他の船は書けないのか。
清国官僚の林則徐にしてみれば、実に不思議不思議なことでしかありません。
貿易は貿易、あくまで誓約書だけは先に出しなさいと、さらに強硬に英国側に申し入れます。

英国にしてみれば、阿片を規制してこれまでさんざん法外な賄賂をとったあげく、こんどは誓約書を差し出せ、阿片交易に関わりのない船が誓約書を出したのだから、他の船も誓約書を出せ。
誓約書を書いたら、今度は何を要求されるのかわかったものではありません。

当時、英国政府を代表して対清国貿易の観察を行っていたチャールズ・エリオット卿は、他の商船までトマス号に便乗して誓約書を出そうとしたから、これを軍艦を出して引き止めます。
ところが、清国特命大臣の林則徐は、これに対して、口頭で拒否します、と答えます。
エリオット卿は、国家を代表して書面で要望書を出したのです。
これを、夜郎自大にも、口頭で回答した。
まさに失礼千万です。

そもそも、昔の国際交易というのは、根底に法がありません。
約束を守らないなら、武力をもってお答えする、という軍事力が背景となって国際貿易の安全性が担保されていたのが、19世紀の国際交易です。

チャールズ卿は、事態の趨勢を英国議会に報告します。
英国議会は賛成多数で清国に対する武力による威嚇を承認します。
そして天保9(1838)年11月3日に、勃発したのが、阿片戦争なのです。

繰り返しになりますが、この当時、阿片は規制された麻薬ではありません。
正当な医薬品として広く用いられていた普及品です。
さて、開戦許可をもらうと、エリオット卿は、いきなり上海にいた清国海軍を全滅させ、その日のうちに清国首都の北京近郊にある天津に英国海軍を出現させ、清国政府に圧力をかけます。

当時の清国というのは、人口が3億5000万人です。
今の人口の15億という数字が頭にある皆様は、え、そんなに少ないの?と思われるかもしれません。
けれど記録にある事実は、日本でいう幕末頃の支那の人口はそんなものです。
そもそも、現在支那共産党が保持する、チベット、ウイグル、満州は、清国ではない。
さらにいまと違って、支那の食料事情は極端に悪かったのです。
支那が人口を激増させたのは、戦時中に日本が支那人たちに農業指導をし、農地を開墾させたことが理由です。
つまり、食えるようになった分だけ、人口が増えたのです。
さて、当時の清国が動員できる軍事力は、20万人程度であったとされています。
装備も、旧式です。
武装は主に青龍刀で、これでは大砲や銃の火力の前にひとたまりもありません。
つまり、国際関係において、清国は弱小の部類です。
要するに、戦えば必ず負けるという状況にあった。

よく、当時の清国を称して、「眠れる獅子とよばれる大国だった」などという教科書や教師がいます。
大嘘です。
獅子どころか、軍事弱国でしかなかった。
では何故、英国などの列強は、支那を植民地にしなかったのか、という疑問が残ろうかと思います。
その理由は、ひとつには支那が広大であることが挙げられようかと思います。
けれど、もっと大きな理由は、支那が清国政府という外来王朝であった、ということです。

そもそも欧米が東洋諸国を植民地支配した諸国では、華人、つまり支那人の漢人たちを、支配地の統治のために用いています。
たとえばマレーシアなら、そもそものマレー人達を支配するのに際して、マレー半島に住む少数民族である漢人たちに、準支配者としての地位を与え、彼らに利権を与えることで、マレー人の反乱を阻止し、国土を制してきたのです。
これを「分断統治」といいます。
同じ国に住む貧しい少数民族に利権を与え、これを用いることで自分たちは直接には手を汚さずに現地人を支配し、収奪するという手法がとられていたのです。

これに対し、支那は、はじめから逆転した状態にあります。
つまり、少数民族である女真人(満州人)が、大多数の国民である漢民族を支配していたのです。
しかもその漢民族は、東亜各地で、自分たちの植民地支配のための手伝いをしてくれている者たちです。

ならば、その大多数いる漢人たちに清国政府打倒ののろしをあげさせれば良いではないかと思われるかもしれませんが、そうはできない。
なぜなら、女真人たちに支配された漢人たちが、あまりに無教養で使い物にならなかったからです。

日本は、東亜諸国において、支配者となっていた白人と、こうした華人(漢人)たちを駆逐し、現地人に国家としての独立を果たさせました。
けれどそのために、日本は被支配階層として、まるでゾンビ状態に陥っていた現地人達に、猛烈な訓練を施し、教養を与え、現地人による現地人のための行政機構を作り、その運営まで指導してきています。
これは日本に、現地の支配ではなく、現地人による自治こそが彼らにとっての幸せ、という現地の独立という明確な意思があったからのことです。

支配しようとするなら、現地人に教養を与えたり、行政機構を与えたりするのは、まったく逆効果です。
阿片戦争が勃発した当時の支那は、欧米列強から見たら、すでに少数民族の清朝が政権をとっていました。
支那を植民地支配するなら、この清朝政府を支配下に置くか、新たに別な少数民族を清朝に代わる統治者に据える必要があったのです。
けれど、そうなると、既に植民地支配している東亜諸国の華人の配下たちが反乱を起こす危険がある。
こうなると、二兎を追う者は一兎を得ずとなります。

つまり、そうした微妙な国際政治のバランスの中で、ただただ支那にいる漢人たちのレベルが低かったから、当時の支那は植民地統治されずに済んでいた、というのが実際のところだったのです。

さて、そうした背景の中で、英国艦隊は、北京のすぐそばに、姿を現したのです。
これは日本で言ったら、江戸湾に黒船が現れたというのとまったく同様の大事件で、清朝政府は上を下への大騒ぎになる。

清朝政府は、英国艦隊を前にすると、いとも簡単に、阿片の取り締まりのための特命大臣だった林則徐を解任し、阿片交易についても態度を軟化させてしまいます。

けれど、ここまで来たら、英国もただで引き下がるわけにはいきません。
なぜなら、軍事展開をした以上、そのために使った費用をちゃんと賠償してもらわなきゃならない。

そのために英国は、賠償金として香港の割譲を要求します。
ところが自尊大国の清国は、これを拒否する。
阿片の輸入を認めてやったんだから、それでいいだろう、というわけです。

天保12(1841)年1月7日、香港割譲を拒否した清国に対し、英国は艦隊攻撃を開始しました。
圧倒的な力の差を見せつけたのです。
英国艦隊を前に布陣していた清国軍は、まさに瞬く間に粉砕されてしまいます。

さらに英国艦隊は、2月になると、黄档・永安・靖遠・鎮遠・威遠・鞏固の諸砲台を砲撃のうえ陥落させ、3月には黄埔を占領する。
清国側はほとんど一方的な損害を被ります。
この戦いで、捕虜だけで数千人、戦死者は数万の規模に達したといいます。
まさに清国の完敗となったのです。
エリオット卿は、ここで広東市内への進入を停止させ、外交交渉への移行を提案し、戦闘を休止させます。

ところが清国側は、5月まで広州付近に陸兵を集結させます。
そして5月21日の深夜、陸兵を小舟に乗せ、広州湾に浮かぶ英国艦船に、奇襲攻撃しかけたのです。

どうやったかというと、タキギを満載した船を夜陰にまぎれて英国艦隊に近づけ、放火し、火勢に乗って英国人たちを皆殺しにしようという作戦です。

それだけ聞くと、なにやら理にかなっていると思うかもしれませんが、それはあくまで英国艦隊が、支那の艦隊と同じ木造戦艦だった場合のことです。
ご存知の通り、当時の英国艦隊は、鋼鉄戦艦です。
そもそも作戦が甘いと言わざるを得ません。

近づこうとした支那人たちの軍船は、英国軍艦の歩哨に、事前に発見されます。
そして、百隻以上の支那人の兵船は、瞬く間に英国軍艦の重砲火によって、撃沈され、全滅してしまったのです。

さらに英国は、英国海軍の陸戦隊2万4000を広東に上陸させ、陸に残存した清国兵を蹴散らすと、広東市街の砲台を占領。
支那兵たちは、慌てて広東城内に逃げ込みます。

エリオット卿は、あまりの支那軍のだらしなさに、これ以上の進撃はもはやなぶり殺し以外のなにものでもない、と判断します。
そして広東城に立てこもる奕山、祁貢という二人の将軍に対し、賠償金として600万ドルの支払いと、支那兵の退去をすれば、占領した砲台はすべて支那に返すともちかけました。

二人の支那の将軍は、これを受け入れ、支那兵を退去させ、賠償金を支払いました。

ところが、ここで二つの事件が起こります。
これも日本人なら、ちょっと考えられない出来事です。

何があったかというと、清国の二人の将軍は、清国皇帝の道光帝に対して、まるで真逆の報告をしているのです。
どういう内容かというと、
~~~~~~~~
広東湾の戦いにおいて、英兵は溺死者、死傷者が多く、清国側の損害は軽微。
戦いは支那側の大勝利に終わった。
~~~~~~~~
というものです。

客観的にみれば、あきらかにデタラメの報告ですが、当時の清では、奕山、祁貢の両将軍とも、こう報告しないと、極刑に遭うどころか、身内親族一同まで、残虐な方法で皆殺しにされてしまう。

では、この二人の将軍、賠償金の600万ドルはどうやって支払ったかというと、これはもう広東場内に住むありとあらゆる民間人から、金という金をかき集め、文句を言う者は殺しまくって支払った。
これではなんのための軍なのかと思われるかもしれませんが、外来王朝である清朝政府にとっては、漢人など、人ですらなかったのですから、当然といえば当然の行動ともいえます。

騙されたのは、清国皇帝の道光帝だけではありません。
英国代表のエリオット卿も、この二人の将軍が、清国政府を代表しての恭順の回答であると信じ、5月30日、英国軍を約束通り広東から退去させています。

この退去に際して、ひとつの事件が起こっているのでご紹介します。
それは広東郊外の三元里という場所です。

撤収して港に向かう英国軍に対し、「平英団」を名乗る支那人の集団が、英国軍に殴り込みをかけたのです。
この事件で、英国側はインド兵1名が死亡しただけで、「平英団」は壊滅し、算を乱して逃げ出しました。

小競り合いなのですが、そもそも勝負にならないのです。
なぜなら平英団は、支那人の民間人の集まりです。
おそらくは広東場内で、奕山、祁貢の両将軍たちに身内を殺され、悲しみの中に寄り集まって、英国軍に無茶な戦いを挑んだ人たちであろうといわれています。
ろくな武器もない。
英国正規軍との戦いは、竹槍部隊と重機関銃部隊の戦いのようなもので、勝負にならないのです。

ただ、この三元里での平英団による襲撃事件のことが、ウイキペディアの解説では、まるで異なる内容に書き換えられていました。
おもしろいので、ご紹介します。

~~~~~~~~~~~
【三元里事件】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83%E9%87%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1841年5月、イギリス軍は広州城において靖逆将軍愛新覚羅奕山ら清の首脳部と停戦協定を締結していたが、一部のイギリス軍は郊外の三元里で略奪や暴行事件を起こし民衆の怒りを買っていた。
このため三元里並びに周辺郷村の民衆1万余が決起して水勇統領林福祥らの指揮の元「平英団」を名乗り、ヒュー・ゴフ少将が率いるイギリス軍を包囲して攻撃した。

このとき民衆が手にしていたのは大刀や長矛などの伝統的な武器であり、本来であれば銃砲を有するイギリス軍に敵うべくもない戦力ではあったが、民衆は地の利を得ていて巧みに遮蔽物に隠れながら戦うことができたこと、大雨によりイギリス軍の火砲が使用不能に陥ったことなどの条件に恵まれ、数で優位に立つ平英団は徐々にイギリス軍を包囲、殲滅の危機に陥れた。

このため英軍は清朝の広州知府であった余保純に停戦協定違反を抗議し、併せて戦後の報復を示唆して平英団を解散させ、包囲を解くように求めた。
このため清当局によって平英団は解散させられ、戦闘は終結した。
~~~~~~~~~~~

もっともらしく書かれていますが、大嘘です。
だいたいもし英国軍が包囲殲滅されるという事件が起こっていなら、このあと徹底的な報復戦が行われています。それが当時の戦争なのです。
実際に起こったのは、先に述べた通り、インド人兵1名が死亡しただけでしかない。
こうやって歴史をねつ造するのは、支那の伝統的お家芸だということです。

もうひとつ、書いておきます。
ではなぜ、それだけ圧倒的な武力を持っていた英国は、そのまま北京にまで攻め込み、一気に紫禁城を制圧して清国政府を壊滅させなかったのか、ということです。

答えは簡単です。
戦争とは、国家の目的遂行のための究極の手段であるからです。
当時の英国にとって、阿片戦争は、あくまで阿片貿易の継続のために行われたものにすぎません。
仮に紫禁城を制圧し、女真人による外来王朝である清朝政府を打ち倒し、漢民族による政権を支那に誕生させたら、どうなるのでしょう。

漢人たちは、英国が東亜諸国の植民地統治するために、あくまで少数民族の準支配階層として、汚れ役をやるための手足として使っている人たちです。
その手足に、広大な領地を持った自前の国家を与える。

植民地統治は、あくまで民族の分断統治が大原則です。
その分断のはずが、漢民族に国家を与えることは、統合を与えることになります。
いままで、英国人にとっての被支配階層であった東亜諸国の漢人たちに、広大な国家を与えたら何が起こるか。
下手をすれば英国が統治している東亜諸国の植民地で面倒な反乱が続発しないとも限りません。

そんなバカなことをするくらいなら、まだ女真人による外来王朝を支那に継続させておいた方が、英国にとって、まだメリットがあるというものです。

さて、こうして天保13(1842)年8月29日、清国と英国の両国は、南京条約を調印し、阿片戦争が終結しました。

南京条約で、清は多額の賠償金の支払いと香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを認めます。

そして英国の勝利に便乗した米国、フランスなどが、それぞれ清国政府との間で、望厦条約、黄埔条約を締結し、清国は国力をさらに低下させることになるのです。

以上が、阿片戦争のおおまかな顛末です。

かなり学校などで習った阿片戦争と、イメージが違うので驚かれた方も多いのではないかと思います。
けれど、時代背景をキチンとみれば、逆に私たちが教わって来たいわゆる「常識」が、実はとんでもなく支那万歳であったりする、インチキであったことがわかります。

戦後の日本は、ちゃんとした歴史観を失った国となってしまいました。
歴史を取り戻すこと。
それは日本が覚醒する第一歩なのではないかと思っています・・・。

当時の支那に、阿片窟など存在しません。
あったのは、民間医療施設で、治療を受ける者達が、阿片を吸引し、痛みを和らげていた、という姿です。

けれどもし、後世の人たちがいまの日本の喫煙所を見たら、きっとこれを阿片窟ならぬ、異様な「煙草窟」とでもみるのではないかと想像して、おもわず笑ってしまいました。

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「人間なんて、みんな似たり寄ったりさ。スペイン人がインディオたちにしたことを、日本人だって中国人にしてたんだ。だから日本人は恨まれて当たり前、1000年たっても許してもらえるはずもない。日本人に生まれてきたというだけで心の中に闇を抱え、生きていかなければならない…」
日本人の中の日本人、普通の善良な人々ほど、そう、思い込んでいる。
中国韓国から理不尽な要求をされても、受け入れなければならない。罪滅ぼしのために…、いつかは許してくれると信じて…。
「南京大虐殺」
「従軍慰安婦」
この忌まわしい濡れ衣を今晴らさなければ、未来永劫、何世紀にも渡って我々の子々孫々に祟るであろう。
恐るべきことに、すでにその兆候は表れている。。
日本中を震撼させた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1989年)
その数年前、「従軍慰安婦問題」、朝日新聞による捏造報道があった。単なる戦時売春婦としての実態からかけ離れた「性奴隷」の物語をマスコミはセンセーショナルに取り上げた。
「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などの反日プロパガンダが、少年たちの精神に異常な影響を与えたであろうことは否定できない。もし犯人の少年たちが生粋の日本人であるならば、自分たちも同様のことをしてみたいという欲望に駆られて、もしそうでないならば、日本人に対する復讐劇として、事件は起こった。
 
新聞というものはいつの時代も、国民を間違った方向に導こうとするものなのか? 「サラエボの悲劇」も、新聞報道が扇動し火をつけた。かつて、サッカー元日本代表監督のオシムは述懐している。
惨殺された、女子高校生の断末魔の叫びが聞こえるか? マスコミで働く人たちは、自分の子供や孫やその子供たちに恐ろしい厄災が降りかかる、そのことに考えが及ばないのか?
こんな腐ったマスコミこそ、日本の永久戦犯ではないのか!

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が、事実であるのか、そうではないのかと延々と論じる前に、そこには、最も大切な「教育」という観点がすっぽり抜け落ちている。
本来、無邪気で天使のようであるべき(中国の)子供たちは、反日教育という毒(憎しみ)を吹き込まれ、モンスターに育てられている。
これらの悪意によって、日本人がいかに不利益を被るか、危険にさらされているか、想像するだけで恐ろしい。海外で日本人が巻き込まれる悲劇的な事件、もしかしたら、その大半は…。

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日本人小学生の放った言葉に中国人家族が絶句、「われわれの愛国教育は間違っていた!」―中国メディア
Record China 1月13日(月)0時10分配信


2014年1月8日、中国のゆがんだ愛国主義教育が、純粋な子供の心をねじ曲げてしまったことを如実に示すエピソードを、中国人ユーザーが軍事関連ネット掲示板・米尓社区に投稿した。以下はその内容。

日本人男性と結婚した従姉が、夫と彼の親戚の男の子を連れて中国に里帰りした。男の子は俊夫という名の小学校1年生。見知らぬ国で言葉の通じない人々に囲まれて、とても緊張している様子だったが、一生懸命カタコトの中国語で私たちに挨拶し、深々とお辞儀をした。その姿がとても愛らしく、私たちはいっぺんで俊夫のことが大好きになった。

だが、その従姉の一番上の姉の子、小学3年生の鵬鵬(ポンポン)だけは違った。最初から敵意むき出しの顔で俊夫をにらみつけ、こぶしを振り上げると「打倒小日本(ちっぽけな日本をやっつけろ)!」と叫んだのだ。これには俊夫も周りの大人もビックリ。鵬鵬の父親が彼を叱ると、「だって、日本人は中国人の敵じゃないか!学校の先生もそう言ってたもん。パパたちは中国を愛してないんだ!」と言って泣き出した。そこで、「先生が言っているのは歴史だ。今は日本と仲良くしなきゃ。それに俊夫は私たちの大切なお客さんなんだから」と言い聞かせると、「じゃあ、パパやママはなぜ毎日、日本が中国の土地を奪ったから日本製品をボイコットするなんて言ってるんだよ?学校で見せられた教育アニメでも、日本帝国主義を打倒しろって言ってたよ!」と反論した。

幸いなことに、中国語の分からない俊夫に鵬鵬と父親の会話の中身を知られることはなかった。俊夫は本当にいい子で、自分でできることは自分で全部する。礼儀正しく、大人を敬い、食事の際は全員が箸をとり、従姉が日本語で「いただきます」と言ってから、自分の箸をとる。それに比べて、鵬鵬はどうだ。部屋は汚い。自分では何もしない。食事は当然のように自分が好きな料理を一人占めし、彼を溺愛する大人たちもわざわざ好物を取り分けてやる。

私たちは「鵬鵬が俊夫みたいだったらいいのに」と心から思ったものだ。そんな鵬鵬もだんだん俊夫に打ち解け、2人で遊ぶことも多くなった。お互いに日本語や中国を教え合っている姿を見て、「やっぱり、子供は子供同士だ」と安心した。

最後の晩、従姉とその夫は買い物に出かけていて、私たちはみんなでテレビを見ていた。そこへ鵬鵬が得意げな顔で俊夫を連れてきて「俊夫がみんなに言いたいことがあるって」と言った。俊夫は顔を赤くしながら恥ずかしそうにほほ笑んで、たどたどしい中国語でこう言った。

「僕は死んで当然の日本人です。僕は中国人に謝ります」

俊夫のこの言葉にその場の大人たちは全員凍りついた。鵬鵬の父親はすぐさま彼をトイレに引きずって行き、中から「パン!」と引っぱたく大きな音が聞こえた。真相はこうだ。鵬鵬は俊夫に「みんなが喜ぶ言葉がある」とだまして、あの言葉を覚えさせたのだ。

こんな小さな子供がここまで日本を憎むとは、あまりにもおかしい。鵬鵬の愛国観はすでにゆがんでしまっている。善良で純粋で友好的な日本の子供を前にして、中国の子供がどれほど恐ろしい敵意と憎しみを日本に抱いているかを私たちは思い知らされた。中国の愛国教育はもっと客観的で冷静であるべきではないのか。(翻訳・編集/本郷)

蘭太郎の瞳が曇るのを見たくはない。人間であることが嫌になるような、おぞましい出来事は知らせたくない。だが、日本の美しい夜明けを迎えるためには、この、暗く厳しい夜に耐えなければならない…。
「南京大虐殺」の嘘から、「通州事件」の真実まで、私たちは目を背けずに目撃しなければならない…。
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