RAN  第5章

Kazumoto Iguchi's blog
2013年 10月 13日
「清王朝崩壊」から「日本軍南京入城」までの歴史!これが真実!

南京大虐殺に対する日本と中国の認識には一定の溝が存在するようだ。中国側は2―3カ月という期間に30万人の中国人が日本軍によって虐殺されたと主張している。このブログは中国人ブロガーが南京大虐殺が行われていた期間中、中国の軍隊は何処で何をしていたのかという質問に対しての考えを綴ったものである。
以下はそのブログより。

2013年10月13日11:00
アメリカ人「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」中国人「資料に載ってないから分からない
【中国ブログ】南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?

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米国人の友人と食事をした際、一つの質問を受けた。
「中国人はずっと、日本人は南京大虐殺で中国人を大量に殺害したと言っている。この大虐殺は2―3カ月もの間続いたと言っているが、その間中国の軍人はどこにいたのか?2カ月も続いていたとすれば、どこにいても駆けつけることができたはずだ。日本軍人はわずかに5000人だったそうだが、中国軍はなぜ南京の市民を守らなかったのか?」
以上が、米国人の友人から受けた質問だ。私はこの質問を聞いて唖然としてしまった。私はこれまでこのような問題について考えたことが無かったし、私の周りの人間も考えたことが無かっただろう。
米国人の友人は私に「当時、共産党や国民党は一体何をしていたのか?」と尋ねてきたが、外国人たちは、これについて、「彼らは旨いものを食っていたに違いない」と言っていた。私はこれに対して、それはあまりにも誇張された考え方だと反論したが、確かに良い質問だと感じ、帰って調べ、後でメールすると答えた。

資料を調べて分かったのは、当時南京に侵攻した日本軍は5000人ではなく6万人であったことと、南京にいたのは多くの売国奴であったということだった。友人からの質問は私を大いに混乱させることとなった。また、私はGoogleで検索したのだが、何の資料も見つけることができなかった。当時、中国軍が何処で何をしていたのか、一切の記述が無いのである。私は友人に対してどのように答えれば良いのだろうか?(編集担当:畠山栄)

いかに現在のアメリカ人と中国人が馬鹿かよく分かる。
簡単に言えば、いわゆる「南京大虐殺」に至るまでには、20年ほどの重大な歴史的流れがあった。それは、次のようなものである。
明治44(1912)年、清王朝の崩壊

明治44(1912)年1月1日に、南京で孫文(そんぶん)が中華民国臨時政府を樹立

大正5(1916)年、袁世凱(えんせいがい)が、中華帝国を名乗り、初代皇帝に即位

大正6(1917)年、ロシア革命

大正9(1920)年、「尼港事件(にこうじけん)」

昭和3(1928)年5月3日、「済南事件(せいなんじけん)」

昭和12(1937)年7月29日、「通州事件(つうしゅうじけん)」

昭和12(1937)年12月17日、日本軍の「南京入城」

ところが、いつしか「南京大虐殺」を元朝日新聞記者の本多勝一と社会党の田辺が言い出す。そして、それに乗じて、まだインターネットも写真技術もそんなに発展していなかった頃だから、昔の尼港事件や済南事件や通州事件の写真や映像をミックスして「南京大虐殺」を捏造した。
どうやらこれが真実の歴史である。

(あ)「尼港事件」
まず最初に「尼港事件」があった。これはこんな事件であったらしい。
…そうした中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」です。
「尼港事件」というのは、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、支那人約四千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)にいた石田領事以下約七百名余の日本人居留民を虐殺したという事件です。
その様相は、まるで映画バイオハザードでゾンビの大軍に取り囲まれた少数の人間の戦いそのものです。衆寡敵せず、日本人居留民は極めて残虐な方法で全員殺害されています。

済南事件より
(い)「済南事件」
その次に昭和3(1928)年5月3日に「済南事件」が起こった。これは、山東省の済南の場所で南軍の総司令官であった「蒋介石」の軍が引き起こした虐殺事件であった。これは、こういう事件であった。
このとき南軍の総司令が蒋介石です。
蒋介石は、「治安は国民党軍が確実に確保するので、日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本に要請してきました。
目の前で戦いが行われているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、軍事的にはあり得ません。
けれど、現場は、中央の指示によってこれを受入れ、5月2日に、バリケードを撤去したのです。
そして事件は起こりました。
ことのおこりは、蒋介石の国民党軍の暴兵が、満州日報取次販売店を襲撃して掠奪を働いたことにはじまりました。
ここで注意したいのは、昨今の支那の反日デモのような「暴徒」ではなく、当時済南であったのは、武器を持った兵であったということです。
武器がなくても、あれだけ暴れ回るのが支那人です。
それが武器を手にしていたら、どうなるか。
暴兵たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
すると支那兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきたのです。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで、一斉に国民党兵による乱射や掠奪、暴行がはじまったのです。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
現に、そのすこし前の日に、国民党の総統であり、最高司令官である蒋介石みずからが日本軍の司令の前で、「済南の治安は国民党が守る、日本人は一切を国民党に任せて、バリケードも解いてよろしい、安全は自分が保証する」と約束しているのです。
ところが白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、支那兵は銃撃を加え、一方的に射殺しました。
市内全域は、たちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されたのです。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。
この事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が、凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けました。

当時の外務省公電にある公式文書です。
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腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
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現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
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予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
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ちなみに(上に掲載されている)女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件の支那人被害者として流用し、展示しています。

この紹介石こそ、第二次世界大戦中に結局台湾に逃げていって初代台湾総統に収まった人物である。簡単にいえば、島流し。悪党の追放である。

(う)「通州事件」
日本は何度も何度も残虐な虐殺によって民間婦女子が被害を受けていたのに、弱腰外交で相手の口車に乗ったばかりにさらにまた大虐殺事件を受けたのである。それが「通州事件」であった。
「通州事件」は、1937年7月29日に起こった。中国の北京の西の通州という場所で、日本軍が手薄になった時を見計らって、中国保安隊と学生による前代未聞の民間婦女子の大殺害事件が起こったのである。それを「通州事件」と呼んでいる。
が、しかし、これはほとんど日本でも韓国でも中国でもアメリカでも世界中の普通の歴史書には載っていないらしい…。

ねずさんのひとりごと(通州事件から学ぶべきこと 12月13日は南京陥落の日)より

7月29日は、日本人のみならず、人類史として決して忘れてはならない「通州事件(つうしゅうじけん)」が起こった日です。
事件が発生したのは、昭和12(1937)年7月29日のことです。
ねずブロでこの事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことですが、当時この事件について知る人は、限られたごく一部の人たちだけでしたし、事件そのものについても、名前を聞いた事があるくらで、それがいかなる非道行為であったかについてまで知る人は、ほとんど稀という情況でした。

通州事件の証言:
現地にいたフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズの証言

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私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
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いまは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、もっと多くの人に、日本の常識、世界の常識として知っていただかなくてはならない、まだまだ拡散し続けなければならない事件であると思っています。
(以上「ねずさんのひとりごと」より)

(え)「南京入城」。
蒋介石や暴徒化した中国人の暴挙によって南京が非常に不安定な状況になったために、ついに日本軍が制圧に向かった。そして、南京に平穏を敷いたのが日本軍の「南京入城」であった。
この日本の南京入城によってカオス化してしまっていた南京に治安が戻り、平和が訪れた。結果として衛生状態もよくなって人口も増大した。これが真実の歴史である。
なんかどこかで聞いたような話ではないだろうか?
そう、韓半島の韓国併合の歴史とまったく同じなのである。日本が併合した結果、人口が倍増、治安増大、経済発展。しかし、日本の敗戦と同時に歴史が捏造され、すべてを逆にした。
(以下略)


徳島の保守
2010-07-30
通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。
通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。
かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。
通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。
通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。

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Sさんの体験談

私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。

(中略)

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。
(中略)
そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。耳を覆ってみても聞こえるのです。又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。この女の人は何もしゃべれないのです。恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。これで事態が一変しました。若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。するとどうでしょう。この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。日本の男の人はぐったりなって横たわりました。それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。私はあんな残酷な光景は見たことはありません。これはもう人間の行為ではありません。悪魔の行為です。悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。私はTさんにすがりついたままです。何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。フラフラと立ち上がりました。そして一生懸命逃げようとしたのです。見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。妊婦はバッタリ倒れたのです。すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。私は何をするのだろうかと思いました。そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。赤い血がパーッと飛び散りました。私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。私の心は通じておりません。そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。これは一体どういうことでしょう。私には全然わかりません。只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。そして見たくはなかったけど池を見ました。真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

ねずさんのひとりごとより
…ちなみに文中に出て来るSさんの夫、支那人のTさんは、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさんは、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。
因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。
日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさんの心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。
そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。


門馬は窓を開けると、暗い空を見上げた。
その日、通州の空は青かったのだろうか。雲は白く、陽の光は、明るく地上を照らしていたのだろうか…。
門馬はパソコンに向かうと、キーを打ち始めた。
「知ること、知らしめることは、果たして亡くなられた方たちの供養になるのだろうか。こんな事件は二度と起こることはないと、記憶から消し、水に流すことが果たして善いことなのだろうか」
「こんな目にあうのは、自分たちだけで沢山だ。だから、忘れずに覚えていて…」
先人たちは、そう囁いている…。
掌に穴を開ける…。元寇の時と同じではないか。
700年前、壱岐、対馬の島民が皆殺しにされた元寇も、このような地獄絵図が繰り広げられていたのか…。九州から遥か離れた津軽地方の子守歌に、モッコ(蒙古)の恐怖が今も語り継がれているという。
中国大陸において被害にあった日本人の遺体写真を「南京大虐殺」の証拠写真として流用する。そしてそれに嬉々として加担する日本の中の知識人たち。
ああ、怒りを通り越して、頭が変になりそうだ。
もしも。
この「Sさんの体験談」が、作り話だろうと言う人がいるとすれば、その人は嘘をつくが常識の民族なのだろう。かつて「毒餃子事件」の折、警察の科学調査による報告に対して、鼻であしらったコメンテーターは、証拠なんてものは捏造するのが当たり前の国に住んでいるのだろう。世論調査で、数字は当てにならないというニュースキャスターは、世論調査、ひいては報道において、何らかの操作をするのが常識、ヤラセなんて日常茶飯事の世界に住んでいるのだろう。
かつて「オウム真理教」は地元住人との話し合いの際、相手側から出された「お茶」に決して手をつけなかったという。彼らにとって、その中に「毒」を入れるなんてことは常識、当たり前のことだったのだろう。
「日韓併合」にしても、過酷な植民地政策をとっていた国ならば、日本は朝鮮半島の人々に相当酷いことをしたに違いない、それが当たり前のことだと考えるだろう。李氏朝鮮による、苛烈な支配を500年に渡って受け続けた人々は、支配されるとはそういうこと、しかもそれが他民族によってならば、どんなに辛い毎日であったかと想像しその中で悶え苦しむのだ。
中韓は過去に生きている。ネットで見かけた、その言葉の意味が今は良くわかる。

そして、もう一つの呪いの言葉「従軍慰安婦(性奴隷)」!
世界中に嘘をばらまかれ、永遠に性犯罪者の烙印を押される。従軍慰安婦であると名乗り出ている方たちが生きている間に、真相を究明しなければ。このままでは、歴史的事実として世界中から認定されてしまう。
戦争という極限状態はそこまで人を変えるのかと、日本人は考え苦しむ。
「南京大虐殺」「従軍慰安婦」。世界中から永久に非難されることをしでかしたご先祖様たちを恨みながら理解しようと苦しみながら、こうべを垂れて生きている。日本人は嘘をつくのを最も嫌う民族だから、まさか、それが捏造であるとは考えが及ばない。人を騙さないから、マスコミや政治家にまんまと騙されているとは、想像が及ばない。真実から目を背け、その問題に蓋をし、「さわらぬ神に祟りなし」とばかりに。それは濡れ衣だ!と声を上げる心ある有志を、社会的に葬り去ろうとさえする…」
門馬は次のサイトを開いた。

RAN  第4章

Kazumoto Iguchi's blog
2013年 12月 13日
12月13日今日は何の日?:日本軍による南京陥落の日=南京に平和が訪れた日!
今日は何の日か知っているだろうか?
今日12月13日は、「南京陥落」の日である。そして、12月17日が「日本軍南京城入城」の日である。
私が、いわゆる「南京大虐殺が捏造だった」と気がついたのはいつ頃の事だったのだろうか?それほど昔ではなかったと思う。
日本の大和民族が古代イスラエルの失われた10支族であるという研究をしていた、マーヴィン・トケイヤー氏と中丸馨氏の対談で、トケイヤーが「当時の南京には日本政府の建てた河豚計画というものがあって、非常にたくさんのユダヤ人が西洋から逃げて住んでいたが、南京で日本軍による虐殺はなかったと証言している」という話を読んでからだったのではないかと思う。

(い)さて、前置きが非常に長くなってしまったが、この南京入城にまつわる歴史を、ねずさんが見事にまとめておられるので、それをここにもメモしておこう。以下のものである…。

四度あった南京事件

中共がいう南京大虐殺は、ねつ造でしかありませんが、南京には、実際に起こった虐殺事件があります。
これは史実です。
その南京虐殺事件は、以下の4つです。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して
  虐殺、強姦、略奪を行った事件
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京
  に入り込み、
  城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、
  日本軍がやってくるからと城内で
  虐殺、強姦、略奪を行った事件。
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、
  強姦、略奪を行った事件。

1~2では、在留邦人も被害にあっています。
3は、中共政府が宣伝する南京大虐殺の「前」に実際にあった出来事です。
4は、昭和24年ですから、すでに大東亜戦争も終わり、日本とはまるで関係のない状態で起こった事件です。
以下、順にその概要をみてみます。
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第一次南京事件
大正2(1913)年
──────────
この事件は、大正2(1913)年8月に起こりました。
支那では清朝政府が辛亥革命によって倒れるのですが、このあと孫文の後を受けて袁世凱が新政府の大統領に就任します。
ところが袁世凱の狙いは、支那の民主化とはほど遠く、単に自らが皇帝となろうとする卑しいものであったため、これを不服とする孫文派の革命功績者たちが、袁世凱と激しく対立します。
その対立者たちを押さえこむために、袁世凱は軍事力にものを言わせるのですが、この年の8月31日に南京城内に乱入した袁世凱派の張勲が、南京城内で約一ヶ月にわたり、虐殺、強姦、略奪の限りをつくしています。
この事件で、南京城内では、支那人の市民に数千人におよぶ死者がでたのですが、それだけでなく張勲らは、外国人居留区にまで侵入し、そこで日本人商店も襲撃して、少なくとも日本人10数名を殺害しました。
このとき襲われた商店は、ちゃんと日章旗を掲げていたにもかかわらず、張勲らは日本人を襲撃し、日本人商店で働く邦人を虐殺し、女性を強姦し殺害しています。
当然のことながら、このとき日本国内の世論は激昂しましたが、支那との紛争を回避したい日本政府は、あくまで穏便にと報復措置をとらず、襲われたのは単に張勲軍の何かの手違いにすぎなかったのではないか、などと理屈にもならない答弁をしています。

このため怒った暴徒によって、9月5日には、阿部政務局長が日本国内で斬殺されるという事件まで起こりました。
本来なら、このとき外地にいる邦人居留民保護のため、軍が即応できる体制をとっていれば良かったのです。
欧米諸国は、すべてそのようにしていました。自国民が被害にあった場合、即時断固とした報復攻撃を行っていたのです。

ところが日本政府は、穏便な事態の収拾を図るためにと、軍の動員をしていません。
当時の日本陸軍は、国歌対国家の大きな戦争を前提として組織されており、勅命がなければ一切動くことができない機構になっていたのです。
このことが後日、支那人たちを増長させ、さらに被害を拡大する原因となったことは、歴史に学ぶべき大きな反省事項だと思います。
(中略)
他方、支那という国は、権力者ないし軍事強者が弱者を虐殺、強姦、略奪するのは、むしろあたりまえの風習です。秦の始皇帝の時代から、その歴史は繰り返され続けている。
暴れ出したら、虐殺強姦収奪は当たり前の支那社会に対し、あくまで国家として軍は正々堂々とあるべきであり、奉勅があってはじめて軍が動員されるという日本社会。両者のこの違いは、さらに東亜を共倒れにし、漁父の利を狙おうとする欧米諸国に付け入る隙を与え、政情をますます複雑なものにしていきます。

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第二次南京事件
昭和2(1927)年
──────────
第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。
昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
支那国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城しているのです。
ところが、入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然、襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしたのです。
この事件で、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、他1名の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。
29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。

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弓削南京特派員二十九日発

24日午前5時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約2000名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、
われ等在留日本人は、「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」と安堵の胸を撫でていた矢先き、6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、餓狼の如く闖入して来た。
そしてピストル、銃剣を突きつけて、第一に現金を強奪し、眼鏡や時計、指輪をはじめ、身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。それに勢を得た群衆まで交って、手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った。
かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。
国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、金庫の中に奉安したが、これを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負い、さらに右横腹を突かれた。
病気で臥床中の森岡領事は、二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
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新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。
さらに日本領事館に侵入した支那人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。
当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっている。
被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けたのです。
英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。
このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。

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第三次南京事件
昭和12(1937)年
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次に起こったのが、第三次南京事件です。
第二次南京事件からちょうど10年後の出来事です。
そしてこの第三次南京事件のあとに起こったとねつ造されているのが、いわゆる「南京大虐殺」です。

第三次南京事件には前段があります。
それが第二次上海事件です。
概要をかいつまんで申し上げると、まずこの年の7月7日に、盧溝橋事件が起こっています。
当時の支那は、清国政府が倒れて、いまのソマリアのような無政府状態になっていたのです。
しかも欧米列強の駐留に対し、一方には露骨な外国人排斥運動があり、諸国は治安維持と自国民の保護のために支那に駐留軍を国際協調で置いていたのです。

そうした中で、露骨な日本への挑発行為として起こったのが盧溝橋事件で、この事件のあと近衛内閣は支那の華北地区への派兵を決定しています。
ただしこの派兵は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけで、内地からの派兵は行っていません。
つまりこの派兵は、あくまで戦闘の不拡大を目的とした支那への既存の派遣軍の移動にすぎないものだったのです。

ところが日本のこうした戦闘の不拡大方針を「甘い」と見て取った蒋介石は、すかさず北京で日本兵が乗っていたトラックを爆破し、日本人4人を殺害する。

それでも戦闘不拡大を唱える日本の近衛内閣をさらに「甘い」と見て取った蒋介石は、「日本の出方次第では徹底抗戦する」とオダをあげています。
これは非常に政治的な言い回しです。
日本が戦闘行為を行わないと宣言したから、日本と戦うぞと宣言しているのです。
国際社会で「舐められる」というのは、こういうことを指します。
(中略)
さて、昭和12年の日本は、なんとか支那との和平の道を探ろうと外交上の努力をしようとするのだけれど、盧溝橋事件のわずか12日後には、再び盧溝橋で、今度は日本軍に対して一斉射撃をしてくる。
さらに7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃する。
7月26日には、国民党軍の「依頼を受けて」広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。

この事件などひどいもので、支那側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。
すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。
城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。

つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している。
そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。
この事件で、日本側は、兵士15名が死亡し、他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名が命をおとしています。

そしてさらに3日後の7月29日に起こったのが「通州事件」です。
この事件では、北京にほど近い通州で、支那軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺しました。
これにより通州特務機関は全滅し、女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、あまりにも酸鼻極まりない姿で嬲り殺しに遭っています。

ここまで日本を挑発すれば、日本はついに支那大陸に攻め込んでくるに違いない。
これを待ち受け、徹底して日本を叩こうとする蒋介石は、ドイツから豊富な最新式兵器の供給を受け、上海に部隊を集結させたのです。
本来、当時の上海は、昭和7年の多国間上海事変停戦協定によって、国際的に「非武装地帯」に指定されていたのです。
ところがドイツ軍によって指導された蒋介石軍は、日本軍を上海に上陸させ、ここで大殲滅作戦を展開しようと、上海の港から市街に至るエリアに、なんと2万カ所もの重武装したトーチカを築き、日本を待ち受けた。

そして8月19日午前10時半、上海商務館付近にいた国民党軍が、突然日本軍陣地に機関銃射撃を行って来たのです。
このとき、上海にいた日本軍は、海軍陸戦隊の4千名です。
これを包囲して機関銃を撃ち込んで来た蒋介石軍は、なんと5万の兵力です。
機関銃をめくら撃ちに撃ちまくる国民党軍に対し、それでも日本の海軍陸戦隊は応戦していません。
戦闘状態になることを防ごうとしたのです。
ですから支那軍の爆撃機が超低空飛行で、日本の陸戦隊を挑発したときも、日本側は対空砲火をしていない。
そんな日本軍の姿を見て、蒋介石軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破してしまいます。日本軍の戦車などの援軍が来れなくなるようにし、日本海軍陸戦隊を孤立させるためです。
そして日本の海軍陸戦隊4千名を包囲し、猛烈な砲撃を開始してきた。
このままでは、日本側は全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、陸戦隊全軍に、戦闘配置を命令した。

けれど支那軍は最新鋭の重装備の5万の兵力、包囲された日本の海軍陸戦隊はわずか4千の兵力です。
戦力差はあきらかで、このままでは、4千の兵士全員が死んでしまうのは時間の問題です。
そこで8月22日、日本は、ここまできてようやく松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団を、上海北部沿岸に上陸させます。

けれど上陸した上海派遣軍が海軍陸戦隊が立てこもる上海租界地まで到達するには、支那軍が構築した2万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかも支那軍の兵員は、中央軍の精鋭14~15師であり、トーチカはドイツ参謀部が詳細に検討して構築した、網の目状に張り巡らされた火点です。
それだけではありません。支那軍は、追加兵力を次々と投入し、ついにその数、60万の大軍に膨れ上がります。

松井石根大将は、その中でおよそ2ヶ月半果敢に戦い、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながら、ついに支那軍を蹴散らします。
そしてなんと11月9日までに、支那軍60万の兵力のうち20万人以上を倒し、支那軍をほぼ壊滅させてしまう。
そして11日までに、上海から支那軍を全員追い払ってしまいます。
ところがこのときひと悶着が起こる。
支那軍は、退却の際に上海市内で徹底した掠奪、破壊、強姦をしぬいているのです。

支那軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼は支那の住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たと記録にあります。
また、支那の敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もある。要するにこれは事実なのです。

そして国民党兵士たちが去った後、上海の「英字新聞」には、次のような記事が載りました。
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国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
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こうして上海の治安は回復されました。
そして上海を追われた蒋介石以下の支那軍の兵士たちが、次に向かったのが「南京」だったのです。
支那軍(支那軍最強の訓練され最新式装備を施された正規軍)の兵士たちは、南京に向かって落ちのびる途中、民家を襲っては、略奪、殺戮、強姦をほしいままにしています。
(中略)

上海に集結した国民党軍は、約60万の兵力でした。
そのうち20万が、我が軍に敗れて死傷し、残りの40万の兵力が南京方面に向かって逃走したのです。
逃走した国民党軍のうち10万は、途中の街に隠れ、追撃する日本軍と応戦し、5万が死傷し、5万が逃散しています。
そうして南京には、30万の国民党軍がなだれ込んだのです。
武力を持たない南京市は、この敗残兵を城内に招き入れるしかなかった。
国民党の正規軍なのです。よもや非道はするまいと考えた。
その甘さが悲劇を招きます。
南京城内に入り込んだ国民党軍は、そこにいる市民の誰もが「漢奸(日本びいきの人々を彼らはそう呼んだ)」に見えた。そして南京市民を虐殺し出したのです。

当時の南京市民たちは、そういう国民党軍を恐れ、多くが南京市から逃げ出します。
そして逃遅れた者たちは、国民党兵士に捕まり、ある者は虐殺され、ある者は城外のトーチカに縛り付けられ、またある者は強姦され、家屋には侵入して財物を片端から強奪され、挙げ句、市民の住むエリア全部に火をつけられ一切合切を燃やされた。
そういうところに、12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中支那方面軍12万が到着したのです。

到着した日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行いました。
けれどなんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまいています。
そして10日の午後一時まで、投降を待った。
けれど、城内からは、何の回答も反応もなかったのです。
南京城を囲んだのが12月4日です。そしてこの日が10日です。
もう6日も待っている。
その間、南京城の城外では、一部の国民党兵士からの発砲もあったし、便衣兵(民間服を着て、民間人を装った支那兵士)による執拗な攻撃も受けています。

けれど松井大将は、待った。
つまり松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
戦場において、これほどの相手に対する誠意はありません。
そこまでして、それでもなんの反応もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始したのです。
日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと、なんと11日には、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
けれどその日は、現場ではまだ南京城外で、激しい攻防戦が行われている最中でした。

そして13日、南京城は陥落し、日本軍が南京城内に入城しました。
入城した日本軍は、兵を城内の左右いっぱいに横一列に並べ、城内を前進します。
城内の敵の掃討のためです。

この「城内を横一列で」という部分には注意が必要です。
本来なら城内には民家が建ち並び、横一列での行進は無理なのです。
けれどそのときの南京城内は、民家がすべて焼き払われ、焼土と化した状態にありました。
だからこそ、日本軍は、横一列による前進ができたのです。
こうして東西と南から城内に入った日本軍に対し、国民党軍の兵士たちは南京城の北側の下関と呼ばれる門から、いっせいに逃げ出そうとします。
そこは南京城が揚子江と接しているところで、川を渡って逃げ延びようとしたのです。

ところが川に浮かんでいた筈の船は、総大将の蒋介石や、南京城の防衛司令官だった唐生智らが、戦いの最中にそくさくと逃げ出した際、後ろから日本軍が船で追いかけて来たら困るからと、そこそこの大きさの船は、みんな底に穴をあけて沈めてしまっていた。
つまり、下関には小舟しか残っていなかったのです。
そこに国民党の兵士たちが逃げようとして押し寄せた。
船に乗れずに、舷側に捕まろうとする者、多人数が舷側につかまったら、船が沈んでしまうからと、そのつかまる仲間の手を切り落とす者、すさまじい地獄絵図がそこで描かれています。
一方、日本軍は、13日から15日までの3日間、城内掃討(ほとんど戦いらしい戦いはない)を実施し、城内の平穏を確保したあと、17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行います。
当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれた。さらに18日には、両軍の死者を弔うため、合同慰霊祭を行い、敵味方の区別なく、慰霊を捧げています。
そしてその翌日には、上海派遣軍の各部隊は、部隊毎にそれぞれ他の戦闘地域への移動を開始しています。

また日本軍の入城によって治安が回復した南京城には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。
そうして帰還した支那人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っている。
南京城に、笑顔が戻ったのです。

この昭和12(1937)年の南京事件において、日本軍による南京大虐殺が行われたと主張する者たちは、12月13日の日本軍の南京入城直後から、約6週間にわたって日本軍が無辜の市民30万人を大量虐殺したと主張しています。
けれど攻城戦が行われる前の時点で南京にいた市民の数は20万人。
戦闘開始前に、市民の多くは城外に避難し、日本軍の入城後に城内に帰って来ています。
そして近隣の都市からも安全と安心を求めて避難民が集まり、南京の人口は25万人に膨れ上がった。
どこでどうやったら、そこで30万人の虐殺が行われたことになるのか、さっぱりわかりません。
要するに南京虐殺など、「なかった」のです。

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第四次南京事件
昭和24(1949)年
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昭和12年の日本軍の南京城入城によって治安が回復した南京市では、日本軍に勤務する若い女性が、ひとりでショッピングのために市場に出かけても、まったく安全で、豊かな経済生活が行われる普通の街に戻ります。
当時南京にいた方々のお話を聞くと、戦時中、内地(日本国内)では、食事が制限され、国民はひもじい生活を余儀なくされていたと聞いているが、自分たちは食べ物も豊かで、明るく安心な南京生活を楽しむことができて、なんだか申し訳ない気がする、などとおっしゃいます。
けれどそうした治安の保たれた南京市も、大東亜戦争の終戦によって様相が一変します。
そして起こったのが、第四次南京事件です。

昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争における戦闘行為を終結させました。
これに先だつ8月14日、蒋介石率いる国民党は、中ソ友好同盟条約を締結しています。要するに日本と対立するために、ソ連と同盟関係を結んだわけです。

この頃の蒋介石軍は、米英から軍事物資等の豊富な援助を得ていました。
米英にとって、人種の平等、民族の自立を主張する日本は、白人種が有色人種を支配し収奪する植民地主義を維持するにあたり、ひらたくいえば「邪魔な存在」だったのです。
だから同じく有色人種である支那人の蒋介石に武器弾薬、食料、資金を与え、双方を疲弊させる戦略を採っています。

おかげで蒋介石率いる国民党は、連合国の一員であり、戦後は戦勝国として高い地位を与えられ、東京裁判においても判事を出す国となっています。
ところが、ではこの当時において、支那が蒋介石率いる国民党軍によって成立する「国家」であったかというと、実はそんなことはない。
当時の支那には、南京に汪兆銘を首班とする南京政府があり、支那奥地には毛沢東率いる支那共産党があり、三者がそれぞれ、我こそは正当な支那の国家政権であるとそれぞれに主張していたのです。

そして戦争が終わった。
米英が蒋介石に支援物資を与えていたのは、あくまで日本と戦うためです。
当然、日本が戦争を終わらせれば、蒋介石は用済みで、終戦とともに蒋介石のもとには米英からの援助物資が途絶えてしまう。
数十万の兵を養わなければならない蒋介石にとって、兵を養うカネがないというのは、まさに党の死活問題です。

一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は、終戦にともなって日本軍の武装解除によって日本軍から得た銃器や弾薬が大量に余ってしまった。
その銃器弾薬を、ソ連は毛沢東率いる支那共産党軍にまるごと引き渡します。
すでに補給を失った蒋介石軍、突然豊富な補給物資を得た毛沢東軍、両者はあちこちで戦い、毛沢東側が圧勝します。
蒋介石は追われ、ついに南京に向かって逃げ出した。

南京には、戦時中、汪兆銘率いる南京政府がありました。
この南京政府は、親日政権で、おかげで南京は戦時中、ずっと豊かで平穏な社会を維持することができた。
要するに、蒋介石にとって、豊かな南京に行けば、失った米英からの援助に代わる富を得ることができる。

こうして蒋介石は再び南京に攻め込みます。
そして南京市民から再び収奪を行った。

さらに前年の昭和19年に亡くなっていた汪兆銘の墓をあばき、遺体を焼き、さらに彼の一族50余名を逮捕し、虐殺すると、その遺体をゴミとして廃棄した。
また親日的だった支那人たちを次々と殺害し、婦女を暴行しています。
そして資産家の家に乱入し、戦時徴発と称して、金品をさかんに巻き上げた。
けれど、南京市民にとって、まだ汪兆銘憎しと目先の利益を追求した国民党軍はまだマシだったのです。
事件はその後に起こった。

国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度はその国民党軍を追った支那共産党軍がやってきたのです。
この時点でろくな武器を持たない国民党軍は、共産党軍がやってくると算を乱して逃げ出します。
その後に、共産党軍が城内に乱入する。
乱入した共産党軍にとって、南京市民の全部が敵です。
彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と殺害し、通州同様に南京市民を虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮した。

なにせ共産主義者たちにとって、普通の経済生活を行う市民はブルジョアです。
そしてブルジョアから富を奪い、それを共産主義者たちに分配することが、彼らにとっての正義なのです。
そして奪うものは財物だけではない。
人としての尊厳や貞操、生きる権利の全てが否定の対象だった。
この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。
(中略)

南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して「どの南京虐殺事件のことなの?」と質問していただきたいのです。
そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じ支那人による南京に住む支那人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。

尚、本件について、アネモネさんがご自身のブログ「東アジア黙示録」でも、詳しい紹介が出ていますので、是非ご参照ください。

本当にあった南京大屠殺…シナ残虐史のリメイク
<< 作成日時 : 2012/03/02 00:12 >>

日本領事館を不逞シナ人が襲撃…それが史実の南京事件だ。同胞の悲劇を無視して“加害”を強調する捏造派。なぜ連中は“虐殺の動機”を無視するのか?その答えが、南京の血塗られた歴史にある。


「眼鏡を奪い取られ、目が見えないまま二階から飛び降りたそうです。腹と足を刺され、父は重傷を負いました。(略)その時に着ていた血だらけの背広をわが家では大事にとっておりました」(門田隆将著『この命、義に捧ぐ』73頁)

我が陸軍・根本博中将の長女は、そう語る。九死に一生を得た南京事件の生々しい記憶だ。根本中将は昭和24年、再び戦場に赴き、中共の台湾侵攻を水際で食い止めた日台の英雄である。

昭和2年(’27)3月24日、武官として南京の日本領事館に勤務していた根本少佐(当時)は、そこで南京事件に遭遇。乱入したシナ人集団に素手て立ち向かったが、銃剣で刺され、深い傷を負った。
領事館を襲撃したシナ人集団は、蒋介石率いる国民革命軍の正規兵だった。北伐の途上にあった国民革命軍は、その日の朝早く、南京に入城。当初は平穏であったが、程なく城内は騒擾状態に陥った。

国民革命軍の一部兵士と“民間人”が在外公館や外国人居留地を襲撃、暴行・略奪を繰り返した。事件当時、南京に居住していた日本人は約500人。その家屋は軒並み襲撃を受けた。

▼南京の日本領事館S12年当時
日本領事館に侵入した不逞シナ人集団は館員を襲い、金品を強奪するだけではなく、領事夫人を陵辱するといったショッキングな事件も引き起こした。今も昔も変わらないシナ人の典型的な狼藉である。
外交上の大事件だった。ところが、我が国や標的となった列強による蒋介石追及は甘かった。この事件の背後にも、誕生間もない中共とコミンテルンが控えていたのだ。

ソ連が国民党に送り込んだ政治顧問ボロディンは、コミンテルンの工作員。南京に入城した第6軍・第2軍の政治部主任も共産分子だった。列強の公館襲撃で蒋介石を孤立化させる作戦である。

共産革命のアジア輸出…南京事件の構図は、そのまま南京攻略戦をめぐるフィクションにつながる。反日メディアが媚中学者が、この南京事件を一切無視する理由も判りやすい。

1927年に居留外国人が襲撃された事件は、第2次南京事件とも呼ばれる。1913年8月には袁世凱の腹心・張勲による第1次南京事件が発生。日系商店が襲われ、日本人10数人が虐殺されている。

シナ人の暴虐事件が繰り返される南京。だが、ほんの少し時代を遡ると、その地では事件という概念を超える惨事が起きている。

【シナ人による大虐殺との共通点】

「南京の北東の門の前に、爆薬二十トンを爆発させた。爆発の煙が消えたとき、その軍隊は市内になだれ込み、飢えた住民に襲いかかった。王宮と他の宮殿は、火を放たれた」(K・S・カロル著『毛沢東の中国』)

もちろん昭和12年の南京攻略戦に関する記述ではない。ここに登場する軍隊とは、清朝末期の漢族軍人・曽国藩が率いる湘軍だ。想像を絶する凄惨な歴史事実…情景は更に、こう描写されている。

「続く三日間に、十万人以上の人々が殺されたが、投降した反徒はひとりもいなかった。われわれはポンペイを思わせる人影のない街路を前進したが、焼死者の悪臭にたえられなかった」(前掲書)

これが1864年に起きたジェノサイド、本当の南京大屠殺だ。19世紀半ばに始まった「太平天国の乱」の結末である。シナ近代史を彩る著名な異教徒の叛乱だが、残酷なエンディングは余り知られていない。

「五十万と推定された人口のうち、生き残ったのは、たった五百人に過ぎなかった」

カロルの提示する犠牲者数は水増しだろう。正確な数は不明だが、今では「犠牲者20万人」が定説になっている模様だ。この20万人という規模は、示唆に富んでいる。
▼太平天国軍と清軍の長江戦図
また曽国藩の幕僚であった趙烈文は、著書『能静居士日記』の中で、虐殺は1ヵ月間続き、財宝を運び出す車列は延々3ヵ月続いたと記している。加害者側の告白であることが重要だ。

20万人の犠牲者数と3ヵ月という期間。どこかで聞いた覚えがある…20万人とは市ヶ谷で中華民国側が掲げた捏造話の犠牲者数。3ヵ月は、反日勢力が絶叫する昭和12年末からの南京の混乱期間である。

見事に一致するのは、偶然ではない。そして、南京を舞台にした殺戮の嵐は、19世紀から第2次南京事件まで続いた特異な出来事でもない。

【繰り返された南京落城の惨状】

「軍中では食糧が欠乏したので、士卒を放って民間の米穀、財宝、子女を掠奪してまわった」(『資治通鑑・梁記17』)

「数ヶ月の間に人びとが互いに食いあうに至っても、餓死を免れなかった。生き残ったものは百人中、一、二人しかいなかった」(『資治通鑑・梁記17』)

これらは548年の「侯景の乱」に関する記述だ。評論家の黄文雄氏は、南京が六朝の都として栄えた4~6世紀の間に何度も大虐殺が繰り返されたとして、複数の例を挙げて紹介している。

☆王敦の乱…322年(東晋時代)
☆蘇峻祖約の乱…329年(東晋時代)
☆桓玄の乱…402年(東晋時代)
☆王僧弁の南京大屠殺…552年(梁時代)
☆晋王楊広の南京討伐…589年(隋時代)

血塗られた南京の歴史を踏まえて「大虐殺」はこの時代の名物だったと黄文雄氏は説く。
(中略)
20世紀に創作された物語を否定するのに、1500年前の史実を持ち出すことは突飛に見えるかも知れない。だが、これが南京捏造話を暴く核心にもなるのだ。

【中共は「動機」を設定し忘れた】

朝日新聞が南京に関する虚偽報道を始めてから既に40年以上が経過した。異様な超長期キャンペーンだが、その中で捏造派が今でも創作できないのが「大虐殺の動機」だ。

犯罪を立証する上で重要なのは物証だが、故意と認定するには動機が欠かせない。捏造派は無関係の写真流用やトリミングなどの悪質な手法で“証拠”を示してきたが、軒並み嘘が暴かれた。

物証もなく、動機も示せない…それが現在の“南京論争”の状況だ。一部の頭の弱い捏造派は「軍命令の為に兵士に動機はない」などと主張するが、命令書など存在せず、自爆に自爆を重ねる始末だ。

中共も“大虐殺”の動機を挙げていない。無関心なのだ。ここで虐殺のシナ史が役に立つ。シナ人にとって、首都決戦で迫る敵軍がジェノサイドを行うことは常識。しかも舞台は歴史的な“虐殺都市”だった。

高い城壁に囲まれた南京。そこを包囲したシナ人の軍勢が先ず火を放ち、突入後に略奪・暴行・殺戮を繰り返すことは「通常パターン」だったのである。

最初から国民党も中共も、動機を説明する必要性に気付かなかったのだ。更に中共が「動機」を党認定しなかった為に、我が国の捏造派が独自論を展開することも出来なかった。

それがリメイクの限界だ。ゼロからフィクションを作り上げるのは難しい。昭和12年の南京捏造話は、こまでのシナ人による南京大屠殺、取り分け「太平天国の乱」のラストシーンをネタ元にしているのだ。

慰安婦捏造話は、農村の少女を拉致して売り飛ばすという朝鮮の歴史的暗部を下敷きにしていた。同様に南京捏造話も自民族が抱える物語を色濃く反映している。

南京にある捏造紀念館には、今年の段階で30万人という犠牲者数がクリップされている。この人数が論争の焦点であるが、特に逆上する必要はない。その数は「太平天国の乱」の死者数を明示している。

殺戮の手口も狼藉の伝統スタイルも、実際はシナ人のものだ。間違っているのは、1937~38年という年代と加害者。パネルや軍服を付け替えれば、そのままシナ虐殺資料館として明日にもオープン可能だ。

RAN 第3章

門馬は自分のパソコンを開くと、暗い窓の外を見た。
かつて、日本が全世界を敵に回すかのような無謀な戦いに突入していった。日本人は何に戦いを挑み、何と必死に戦ったのか、その正体を暴かなければならない。 16世紀、インカ帝国をあっという間に滅ぼしたとされるピサロ(インカ皇帝の身代金として、莫大な貴金属を受け取ったが、約束を反故にして処刑した)のことは知ってはいたが…。死屍累々であろうことは容易に想像していたが…。門馬は深いため息をひとつもらすと、あるサイトを開いた。

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叡智の禁書図書館<情報と書評>
ダ・ヴィンチ・コード関連情報の探索と濫読書評のブログ  by alice-room
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 ラスカサス著

何かの本で紹介されていて気になっていた本。会社休んで神田の古書店街をうろついていてGETしました。
コロンブスが新大陸を発見後、スペイン人が続々とおとずれ、原住民のインディオ達を虐殺しまくり、金を奪い、人々を奴隷として虐げるまさに『生き地獄』が始まる。本書はスペイン本国には届かない(隠されたいた征服行為の実態を)そういった非道の行為をスペイン国王に訴え、直ちに禁止しようと働きかける為に書かれたレポートです。

本書を書いたのはカトリックのドミニコ会の聖職者。

著者はスペイン人の侵略者と混じって現地へ布教を目的に渡ったものの、大陸で見たものは、キリスト教の福音を広めるどころか、悪魔そのものの行動で原住民のインディオを略奪、拷問、虐殺するスペイン人の同胞達。

インディオにとって、キリスト教・キリスト教徒とは、悪魔の宗教とその僕に他ならず、この世の楽園のような平和が『金』を求める侵略者に蹂躙される様を数十年に渡って見続け、あまりの理不尽さと憐れみから、インディオ達によるスペイン人の殺害さえも正義の行為と看做すなど、当時にあっては、むしろ例外的な存在だった人物だったようです。
本書を読むと、その半端ではない侵略行為の凄まじさに言葉を失います。
本来はキリスト教の福音を広める為という建前の下で植民者へ付与された権利は捻じ曲げられ、ひたすら『金』と『奴隷』獲得を目的とする侵略行為を正当化に使われます。

実際、彼らが行った結果は、数百万、数十万人のインディオが住んでいた島々を全滅させ、あるいは数十人しか生き残っていない状態にまでしました。島は荒廃し、この世の楽園は見るも無残な生き地獄と化したのです。

しかもそれを行ったスペイン人は、厳しい航海で生死の境にあった時に、無償で食料と住居を提供してくれた非常に慈悲深いインディオ達に対して、その返礼として為されたのでした。

原住民のインディオは、非常に穏健且つ従順であり、また善良であったが故に、スペイン人の求めるままに食料や金まで差し出したのですが、彼等はより多くのものを求め、効率良く『金』を集める為に、人々を虐殺したのです。

本書では彼らが為した極悪非道の所業が延々と羅列されています。現実の役に立つとは思えない道徳の教科書よりは、本書を一読することをお薦めしますね。いかほども教育効果が高いでしょう。戦争はいけないとか、正義とか、立派なお題目はさておき、『正義』は勝ち取ってこその正義であります。イエーリングの「権利のための闘争」を読むまでもありません。現実の世界に、水戸黄門や遠山の金さんはいないのです。(ランボーもいませんけどね)

『大航海時代』なんて、所詮、こんなもんです。某国が石油利権の為に堂々と侵略戦争を行って未だに撤退しないのと五十歩百歩の行動原理です。利益の為に、人は大胆且つリスクテーカーとして行動するのであって、決して善意の為ではありません(例外はあるし、否定はしませんが・・・)。人の行動は今も昔も変わりません。

正義ではなくて、強者が勝つんだなあ~と思いました(勝てば官軍って訳です!)。欲望への執着心こそ、最強の行動原理かもしれませんね。

だからといって、正義を踏みにじって利益の為に邁進するのも私の人生哲学に反するのでできませんが、負け惜しみで綺麗事の『正義』を主張するのもいかがなものかと思います。

世界史の副読本として、こういうの読まないとねぇ~。世界史の先生自体が世界を知らないのでは話になりませんが・・・。まあ、期待してはいけないかも?

まあ、論より証拠で本文より印象に残った部分を抜粋してみます。実はあまりにも凄過ぎてキリがないのですが・・・。
ある日、ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出掛けた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹をすかしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた、犬がそれを食い尽くすと、さらに彼はその小さな胴体と投げ与えた。
無法者のドイツ人総督はインディオをその妻子をできるだけ大勢捕らえるよう命じた。そこで部下たちは特別に作っておいた大きな囲いのような木の柵の中へインディオ達を閉じ込めた。邪悪な総督は、そこから出て自由になりたい者は身代金として一定量の金を差し出さなければならないと知らせた。同じように、妻や子を身請けしなけれなかった。総督はインディオ達を一層苦しめようと考え、要求した身代金を持参するまでは彼らに食事をいっさい与えてはならないと命じた。大勢のインディオは、使いの者を金を取りに家へやり、そうして、それぞれがあるだけの金を差し出し、自由を取り戻した。このようにして解放されたインディオ達は畑は戻り、食事の用意をするために家へ帰った。

ところが、その無法者はこうして一度自由の身となった哀れなインディオたちをふたたび捕らえるために、数人のスペイン人略奪者を派遣した。彼等はインディオたちを元の囲いへ連れ戻し、ふたたび身請けされるまで、彼らに飢えと渇きの苦しみを味わわせた。インディオたちの中にはニ、三度捕らえられ、その都度身請けされた者もいたし、また、持っていた金を既に残らず差し出してしまっていたために、もはやそれも叶わず、まったく身代金も無い者もいた。無法者は彼らをずっと囲いの中に閉じ込めておいたので彼等は餓死してしまった。
彼は奥地へと遠征し、無数のインディオを連行したが、インディオたちは鎖に繋がれ、重さ3、4アローバの荷物を担がされた。なかには空腹と過酷な仕事、それに生来の虚弱さのために疲労し、気をうしなったりするインディオたちが幾人かいた。その時、彼等は一番外側の首枷につないだインディオたちをいちいち止めて鎖を外すのが面倒なので、即座に、倒れたインディオの首枷の辺りを斬りつけた。すると、首と胴体はそれぞれ別の方向へ転げ落ちた。彼等はそのインディオが担いでいた荷物を沸け、ほかのインディオたちの荷物のうえにのせた。
既述したとおり、スペイン人たちはインディオたちを殺し、八つ裂きにするために獰猛で凶暴な犬を仕込み、飼いならしていた。真のキリスト教徒である人々、また、そうでない人も彼らがその犬のえさとして大勢のインディオを鎖につないで道中連れて歩いたという事実を知っていただきたい。おそらく、そのような行為をこれまでに耳にしたことはないであろう。インディオたちはまるで豚の群れと変わらなかった。スペイン人たちはインディオたちを殺し、その肉を公然と売っていた。「申し訳ないが、拙者が別な奴を殺すまで、どれでもいいからその辺の奴の四半分ほど貸してくれ。犬に食べさせてやりたいのだ」と、まるで豚か羊の肉の四半分を貸し借りするように、彼等は話し合っていた。

別のスペイン人たちは、朝、犬を連れて狩りに出掛け、昼食を取りに戻り、そこで互いに狩の成果を尋ねあう。すると、ある者は「上々だ。拙者の犬は十五、二十人ぐらい奴らを食い殺したよ」と答えていた。島々では、牝馬一頭につき、理性を備えた人間であるインディオの八十名が交換された。

その無法者はいつも次のような手口を用いた。村や地方へ戦いをしかけに行く時、からは既にスペイン人たちに降伏していたインディオたちをできるだけ大勢連れて行き、彼らを他のインディオたちと戦わせた。彼はだいたい一万人か二万人のインディオを連れて行ったが、彼らには食事を与えなかった。その代わり、彼はそのインディオたちに、彼らが捕まえたインディオたちを食べるのを許していた。そういうわけで、彼の陣営の中には、人肉を売る店が現われ、そこでは彼の立会いのもとで子供が殺され、焼かれ、また、男が手足を切断されて殺された。人体の中でもっとも美味とされるのが手足だったからである。ほかの地方に住むインディオたちはみなその非道ぶりを耳にして恐れのあまり、どこに身を隠してよいか判らなくなった。

ローマ皇帝のネロもまだ良心的に感じられてしまいます。人ってここまで卑しくなれるんですね。他にも国王から金を根こそぎ絞り取る為に、拷問に次ぐ拷問をする話や、王妃を乱暴して陵辱し、殺す話など、いくら過去のことはいえ、鬱になりそうな話が載っています。

それがあの華々しい大航海時代、スペインの繁栄だったりするわけです。ルネサンスももうすぐだしね。

極論すれば、世界史なんて本書の本を一冊読んだ方が得られるものが多いような気がします。教科書の内容はすぐ忘れますが、本書の内容を忘れられる人はなかなかいないでしょう。

日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね。まあ、リアルタイムでパックス・アメリカーナも大差ないことしてますけど・・・。

いろいろと勉強になる一冊でした。

そうそう、面白いことに本書はその後の歴史で、当初の意図とは全く異なる使われ方をしたそうです。最初は、西欧諸国によるスペイン支配への反対の資料として。また、アメリカ独立戦争や第二次大戦後のアフリカにおける植民地の独立運動など、多彩な方面で本書がたびたび採り上げられたそうです。

実際に、スペインで禁書にされたようで、うちのブログで扱うにはうってつけだったりする(・・・って、オイ)。

う~ん、歴史って予想もつかないもんです。あまりにも酷過ぎる描写故に、インパクトがあるのでその時代時代で都合のいいように利用されたんでしょうね。
でも、そういった経緯は別にしても読んでおいて悪くない本です。人というものについて、改めて考えさせられることが多い本です。

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暗澹たる思いで、門馬はそのサイトを閉じた。
「それにしても」
大多数の日本人の頭の中は、洗脳教育により、惨たらしく何十万人もの人々を虐殺する日本兵の姿が刷り込まれ、思考停止状態になっている…。えっ・・・? 
「日本人が南京大虐殺で行ったことや、満州帝国が阿片の利益で運営されていたことなど、他人事ではないんだけどね」
ひょっとして、ここの管理人はこれを刷り込みたくて、この本の紹介をしたのか? いや、自分も蘭太郎に「倭寇」のことを、軽率に海賊だと伝えてしまっていた・・・。
どちらにしても、人間なんて一皮むけば、みんな同じだという諦念が心の中にあるのだろう・・・。

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大和心を語るねずさんのひとりごと

阿片戦争

阿片(アヘン)戦争といえば、多くの人々の一般的認識は「日本の幕末の頃、大英帝国が支那に阿片を無理矢理売り付けようとして起こした侵略戦争」というものであろうと思います。

実際はどうだったのでしょうか。

なるほど当時の英国が、植民地主義国家であったことは事実です。
けれど本当に英国は、支那人を麻薬漬けにするために阿片を大量に支那に持ち込んでいたのでしょうか。

「阿片窟」という言葉もあります。
阿片の吸引所で、そこでは阿片中毒になった男女が、性的モラルを失って薬物とセックスに浸り込んでいる。
そんなイメージで語られるところです。
実際に、そのようなものがあったのでしょうか。
阿片(アヘン)戦争といえば、多くの人々の一般的認識は「日本の幕末の頃、大英帝国が支那に阿片を無理矢理売り付けようとして起こした侵略戦争」というものであろうと思います。

実際はどうだったのでしょうか。

実際に、そのようなものがあったのでしょうか。
歴史は、現在の価値観で図ろうとすると、大きな間違いを犯すことになります。
当時の時代背景を、まずよくみてみないといけない。

そういう目でこの時代を見ると、実はこの当時、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬類」の販売、所持、吸引など、まったく規制外であったことがわかります。

たとえば、有名なシャーロック・ホームズは、コカイン常習者です。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、薬物で酩酊状態になったときの世界観を表現した小説とされています。

なかでも阿片についていえば、当時は麻薬ではなく、むしろ沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、普通にそこらで売られていた商品でした。

そもそも当時の阿片は、精製がさほどよくありません。
ですから阿片の吸引で、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者などいなかったし、ましてや阿片窟などというものも、存在などしていなかったのです。

このことは、タバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
けれどタバコを吸ったからといって、ショック死する人はいません。これと同じことだったのです。

阿片は、ケシ(芥子)の実から生産されます。

芥子という植物は、赤くて大きな花を咲かせますが、この花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残ります。
これが芥子坊主(けしぼうず)で、この芥子坊主にナイフなどで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片です。

ちなみに阿片を精製して、アルカロイドを抽出すると「モルヒネ」になります。
モルヒネといえば、戦時中、痛み止めとして広く使われていたのは、みなさまご存知の通りです。

モルヒネの純度をさらに高めると「ヘロイン」になります。
ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなります。

ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出方法が確立されたのは、阿片が土台となっていて、日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネを分離抽出に成功したのがはじまりです。

いまではカフェインをはじめ、様々な医薬品に、このアルカロイド抽出の技法が役立てられていますが、要するに、阿片は毒物や麻薬という認識ではなく、咳止め、痛み止めとして広く使われていたものだったのです。

そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされています。
5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が、芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前には、芥子はヨーロッパや、中東、中央アフリカなどで広く栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書で明らかになっています。
いずれも、麻薬や金儲けのための薬物としてではなく、鎮痛剤や、睡眠導入剤として、普及していたものです。

阿片は、シルクロードを経由して、支那に医薬品として持ち込まれています。
三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬が、阿片です。

阿片が日本にやってきたのは、室町時代のことで、支那からもたらされています。
当時の日本では、阿片は「阿芙蓉(あふよう)」と呼ばれ、医療用の鎮痛剤として、ほんの少量流通していたにすぎません。

ちなみによく時代劇などで、長崎奉行が悪徳商人と結託して、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせて我がものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘です。
実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬として、医師の専管物でしたし、そもそも当時は阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていなかったからです。
阿片が、日本国内に広く普及するようになったのは、幕末の頃です。
なぜ普及したかというと、浪士たちが斬り合いをして、大怪我をしたからです。
その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになったのです。

江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心で、全国的に広く普及したのでしょう。

さて、こうして鎮痛のための特効薬としての阿片は、1830年代には、世界貿易の主役となりました。
とりわけ大英帝国の東インド会社が精製したインド・ベンガル産の阿片は、とびきり品質が良く、効き目の高い特産品として世界中に広く輸出されました。
誤解をしてはいけないので、くどく書いておきますが、悪質な麻薬としてではなく、あくまで健全な医薬品として流通していたのです。

医薬品というのは、少量でも高単価です。
しかも栽培地が植民地で、極端に安い土地と労働力で栽培された阿片は、原価が極端に低く、しかも単価が高く、貿易用商品としては、極端に効率性の良い商売だったわけです。
おかげで東インド会社は、ベンガル阿片でたいへんな利益をあげています。

このように阿片は、国際貿易の主力商品だったわけですから、当然英国は支那に大量の阿片を輸出し、販売します。
繰り返しますが、当時阿片は合法的な医薬品です。

あたりまえのことですが、支那人だって怪我をすれば痛いし、傷を負えば辛いのです。
ところが阿片を用いれば、痛みの負担なく手術を受けられるし、副作用も起こらない。
そりゃ普及してあたりまえです。

けれど、このことが大きな問題をひき起したのです。

だいたい他の誰かが大もうけしていると知ると、すぐにそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で売りまくるのが今も昔も変わらない、支那人です。

支那人たちは、阿片が儲かると知ると、芥子を支那国内で大量に栽培し、英国の阿片の半値で売りまくったのです。
ただし、粗悪品です。

これだけなら、まだ良かったのです。
問題は、その商売のやり方です。

英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。

これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。

こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。

それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。
英国は、貿易は、民間会社が行います。
そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して保護します。

これに対し支那は、民間が商売で設けると、そこに官僚が割って入って法外な賄賂をとり、さらには商売そのものを官営にして取り上げてしまう。

こうなると値段も吊り上がります。
結果、英国製の阿片も、支那産の阿片も、たいして値段はかわらない。

それでいて英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良いとなると、当然、売れるのは英国産ばかりになります。

ちなみに、昔、バイアグラが大流行したときに、支那に旅行した友人が、空港で輸入品のバイアグラと支那製のバイアグラの両方を買って来たのを自慢していました。
効き目は、やはり普通のバイアグラの方がはるかによかったそうです。
値段はと聞いたら、きもち支那製の方が安かったという。
なぁんだ、昔の阿片と同じだなあと、しみじみ思ったものです。

当時、英国は陶磁器や茶などを支那から大量に買い付けていました。
一方で良質な阿片を支那に販売していたわけです。

ところが、英国産阿片がたいへんな人気となったことから、英国側の貿易収支は、当然大黒字、支那からみれば、対英貿易は大赤字です。
貿易通貨としての銀が、支那から大量に流出してしまう。

当時の支那政府は、清朝です。
このことに青くなった清朝政府は、二つの理由から、阿片の輸入の規制に乗り出します。

ひとつは、国内産の阿片商売の独占のため。
もうひとつは、銀の流出阻止のため。

そして阿片問題解決のための特命大臣に林則徐を任命し、上海に向かわせます。

さて、「なるほど。政府が規制したのなら英国産の阿片は、輸入が相当減ったのだろうなあ」
そう思うのが、日本人のお人好しなところです。
支那では、そうは問屋が卸さない。

中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けしたのです。
特命大臣の林則徐などは、まさにこれで大儲けしました。

結局、官僚たちの賄賂の分だけ、支那国内で流通する英国産阿片の値が高くなっただけで、阿片の流通はまるで止まらない。当然、清国内の銀の流出も止まらない。

こうなるといきなり過激になるのも、支那の特徴です。
なんと清朝政府は、天保9(1838)年、英国産阿片を吸引した者は死刑にするというお布令を出したのです。
要するに、英国産の阿片は使うな。使うなら支那産の阿片を使え、というわけです。

これでは英国の東インド会社は、商売になりません。
当然特命大臣の林則徐に猛抗議します。

けれど今度は林則徐も強硬です。
「今後一切阿片を清国に持ち込まないと誓約書を差し出せ」と英国側に申し入れたのです。

支那人にとっては、誓約書というのは、一時しのぎのための建前のための紙でしかない、というのが常識です。
別に、紙くらい、いくらでも書けば良いではないか、と彼らは考える。

けれど、西欧社会では、誓約書を差し出すことは、イコール、契約を交わすことです。
破れば法外な損害賠償を請求されると考えます。

つまり、誓約書を差し出すことは、今後の商売そのものの根幹にかかわると考える。
当然、英国は、これを拒否します。

ところが、民間貿易というのは複雑なもので、同じ英国商船でも、トマス・カウツという商船は、阿片以外の商材を扱っていたことから、ハイハイと、気軽に誓約書を書いてしまった。
トマス・カウスが書いたのに、なぜ他の船は書けないのか。
清国官僚の林則徐にしてみれば、実に不思議不思議なことでしかありません。
貿易は貿易、あくまで誓約書だけは先に出しなさいと、さらに強硬に英国側に申し入れます。

英国にしてみれば、阿片を規制してこれまでさんざん法外な賄賂をとったあげく、こんどは誓約書を差し出せ、阿片交易に関わりのない船が誓約書を出したのだから、他の船も誓約書を出せ。
誓約書を書いたら、今度は何を要求されるのかわかったものではありません。

当時、英国政府を代表して対清国貿易の観察を行っていたチャールズ・エリオット卿は、他の商船までトマス号に便乗して誓約書を出そうとしたから、これを軍艦を出して引き止めます。
ところが、清国特命大臣の林則徐は、これに対して、口頭で拒否します、と答えます。
エリオット卿は、国家を代表して書面で要望書を出したのです。
これを、夜郎自大にも、口頭で回答した。
まさに失礼千万です。

そもそも、昔の国際交易というのは、根底に法がありません。
約束を守らないなら、武力をもってお答えする、という軍事力が背景となって国際貿易の安全性が担保されていたのが、19世紀の国際交易です。

チャールズ卿は、事態の趨勢を英国議会に報告します。
英国議会は賛成多数で清国に対する武力による威嚇を承認します。
そして天保9(1838)年11月3日に、勃発したのが、阿片戦争なのです。

繰り返しになりますが、この当時、阿片は規制された麻薬ではありません。
正当な医薬品として広く用いられていた普及品です。
さて、開戦許可をもらうと、エリオット卿は、いきなり上海にいた清国海軍を全滅させ、その日のうちに清国首都の北京近郊にある天津に英国海軍を出現させ、清国政府に圧力をかけます。

当時の清国というのは、人口が3億5000万人です。
今の人口の15億という数字が頭にある皆様は、え、そんなに少ないの?と思われるかもしれません。
けれど記録にある事実は、日本でいう幕末頃の支那の人口はそんなものです。
そもそも、現在支那共産党が保持する、チベット、ウイグル、満州は、清国ではない。
さらにいまと違って、支那の食料事情は極端に悪かったのです。
支那が人口を激増させたのは、戦時中に日本が支那人たちに農業指導をし、農地を開墾させたことが理由です。
つまり、食えるようになった分だけ、人口が増えたのです。
さて、当時の清国が動員できる軍事力は、20万人程度であったとされています。
装備も、旧式です。
武装は主に青龍刀で、これでは大砲や銃の火力の前にひとたまりもありません。
つまり、国際関係において、清国は弱小の部類です。
要するに、戦えば必ず負けるという状況にあった。

よく、当時の清国を称して、「眠れる獅子とよばれる大国だった」などという教科書や教師がいます。
大嘘です。
獅子どころか、軍事弱国でしかなかった。
では何故、英国などの列強は、支那を植民地にしなかったのか、という疑問が残ろうかと思います。
その理由は、ひとつには支那が広大であることが挙げられようかと思います。
けれど、もっと大きな理由は、支那が清国政府という外来王朝であった、ということです。

そもそも欧米が東洋諸国を植民地支配した諸国では、華人、つまり支那人の漢人たちを、支配地の統治のために用いています。
たとえばマレーシアなら、そもそものマレー人達を支配するのに際して、マレー半島に住む少数民族である漢人たちに、準支配者としての地位を与え、彼らに利権を与えることで、マレー人の反乱を阻止し、国土を制してきたのです。
これを「分断統治」といいます。
同じ国に住む貧しい少数民族に利権を与え、これを用いることで自分たちは直接には手を汚さずに現地人を支配し、収奪するという手法がとられていたのです。

これに対し、支那は、はじめから逆転した状態にあります。
つまり、少数民族である女真人(満州人)が、大多数の国民である漢民族を支配していたのです。
しかもその漢民族は、東亜各地で、自分たちの植民地支配のための手伝いをしてくれている者たちです。

ならば、その大多数いる漢人たちに清国政府打倒ののろしをあげさせれば良いではないかと思われるかもしれませんが、そうはできない。
なぜなら、女真人たちに支配された漢人たちが、あまりに無教養で使い物にならなかったからです。

日本は、東亜諸国において、支配者となっていた白人と、こうした華人(漢人)たちを駆逐し、現地人に国家としての独立を果たさせました。
けれどそのために、日本は被支配階層として、まるでゾンビ状態に陥っていた現地人達に、猛烈な訓練を施し、教養を与え、現地人による現地人のための行政機構を作り、その運営まで指導してきています。
これは日本に、現地の支配ではなく、現地人による自治こそが彼らにとっての幸せ、という現地の独立という明確な意思があったからのことです。

支配しようとするなら、現地人に教養を与えたり、行政機構を与えたりするのは、まったく逆効果です。
阿片戦争が勃発した当時の支那は、欧米列強から見たら、すでに少数民族の清朝が政権をとっていました。
支那を植民地支配するなら、この清朝政府を支配下に置くか、新たに別な少数民族を清朝に代わる統治者に据える必要があったのです。
けれど、そうなると、既に植民地支配している東亜諸国の華人の配下たちが反乱を起こす危険がある。
こうなると、二兎を追う者は一兎を得ずとなります。

つまり、そうした微妙な国際政治のバランスの中で、ただただ支那にいる漢人たちのレベルが低かったから、当時の支那は植民地統治されずに済んでいた、というのが実際のところだったのです。

さて、そうした背景の中で、英国艦隊は、北京のすぐそばに、姿を現したのです。
これは日本で言ったら、江戸湾に黒船が現れたというのとまったく同様の大事件で、清朝政府は上を下への大騒ぎになる。

清朝政府は、英国艦隊を前にすると、いとも簡単に、阿片の取り締まりのための特命大臣だった林則徐を解任し、阿片交易についても態度を軟化させてしまいます。

けれど、ここまで来たら、英国もただで引き下がるわけにはいきません。
なぜなら、軍事展開をした以上、そのために使った費用をちゃんと賠償してもらわなきゃならない。

そのために英国は、賠償金として香港の割譲を要求します。
ところが自尊大国の清国は、これを拒否する。
阿片の輸入を認めてやったんだから、それでいいだろう、というわけです。

天保12(1841)年1月7日、香港割譲を拒否した清国に対し、英国は艦隊攻撃を開始しました。
圧倒的な力の差を見せつけたのです。
英国艦隊を前に布陣していた清国軍は、まさに瞬く間に粉砕されてしまいます。

さらに英国艦隊は、2月になると、黄档・永安・靖遠・鎮遠・威遠・鞏固の諸砲台を砲撃のうえ陥落させ、3月には黄埔を占領する。
清国側はほとんど一方的な損害を被ります。
この戦いで、捕虜だけで数千人、戦死者は数万の規模に達したといいます。
まさに清国の完敗となったのです。
エリオット卿は、ここで広東市内への進入を停止させ、外交交渉への移行を提案し、戦闘を休止させます。

ところが清国側は、5月まで広州付近に陸兵を集結させます。
そして5月21日の深夜、陸兵を小舟に乗せ、広州湾に浮かぶ英国艦船に、奇襲攻撃しかけたのです。

どうやったかというと、タキギを満載した船を夜陰にまぎれて英国艦隊に近づけ、放火し、火勢に乗って英国人たちを皆殺しにしようという作戦です。

それだけ聞くと、なにやら理にかなっていると思うかもしれませんが、それはあくまで英国艦隊が、支那の艦隊と同じ木造戦艦だった場合のことです。
ご存知の通り、当時の英国艦隊は、鋼鉄戦艦です。
そもそも作戦が甘いと言わざるを得ません。

近づこうとした支那人たちの軍船は、英国軍艦の歩哨に、事前に発見されます。
そして、百隻以上の支那人の兵船は、瞬く間に英国軍艦の重砲火によって、撃沈され、全滅してしまったのです。

さらに英国は、英国海軍の陸戦隊2万4000を広東に上陸させ、陸に残存した清国兵を蹴散らすと、広東市街の砲台を占領。
支那兵たちは、慌てて広東城内に逃げ込みます。

エリオット卿は、あまりの支那軍のだらしなさに、これ以上の進撃はもはやなぶり殺し以外のなにものでもない、と判断します。
そして広東城に立てこもる奕山、祁貢という二人の将軍に対し、賠償金として600万ドルの支払いと、支那兵の退去をすれば、占領した砲台はすべて支那に返すともちかけました。

二人の支那の将軍は、これを受け入れ、支那兵を退去させ、賠償金を支払いました。

ところが、ここで二つの事件が起こります。
これも日本人なら、ちょっと考えられない出来事です。

何があったかというと、清国の二人の将軍は、清国皇帝の道光帝に対して、まるで真逆の報告をしているのです。
どういう内容かというと、
~~~~~~~~
広東湾の戦いにおいて、英兵は溺死者、死傷者が多く、清国側の損害は軽微。
戦いは支那側の大勝利に終わった。
~~~~~~~~
というものです。

客観的にみれば、あきらかにデタラメの報告ですが、当時の清では、奕山、祁貢の両将軍とも、こう報告しないと、極刑に遭うどころか、身内親族一同まで、残虐な方法で皆殺しにされてしまう。

では、この二人の将軍、賠償金の600万ドルはどうやって支払ったかというと、これはもう広東場内に住むありとあらゆる民間人から、金という金をかき集め、文句を言う者は殺しまくって支払った。
これではなんのための軍なのかと思われるかもしれませんが、外来王朝である清朝政府にとっては、漢人など、人ですらなかったのですから、当然といえば当然の行動ともいえます。

騙されたのは、清国皇帝の道光帝だけではありません。
英国代表のエリオット卿も、この二人の将軍が、清国政府を代表しての恭順の回答であると信じ、5月30日、英国軍を約束通り広東から退去させています。

この退去に際して、ひとつの事件が起こっているのでご紹介します。
それは広東郊外の三元里という場所です。

撤収して港に向かう英国軍に対し、「平英団」を名乗る支那人の集団が、英国軍に殴り込みをかけたのです。
この事件で、英国側はインド兵1名が死亡しただけで、「平英団」は壊滅し、算を乱して逃げ出しました。

小競り合いなのですが、そもそも勝負にならないのです。
なぜなら平英団は、支那人の民間人の集まりです。
おそらくは広東場内で、奕山、祁貢の両将軍たちに身内を殺され、悲しみの中に寄り集まって、英国軍に無茶な戦いを挑んだ人たちであろうといわれています。
ろくな武器もない。
英国正規軍との戦いは、竹槍部隊と重機関銃部隊の戦いのようなもので、勝負にならないのです。

ただ、この三元里での平英団による襲撃事件のことが、ウイキペディアの解説では、まるで異なる内容に書き換えられていました。
おもしろいので、ご紹介します。

~~~~~~~~~~~
【三元里事件】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83%E9%87%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1841年5月、イギリス軍は広州城において靖逆将軍愛新覚羅奕山ら清の首脳部と停戦協定を締結していたが、一部のイギリス軍は郊外の三元里で略奪や暴行事件を起こし民衆の怒りを買っていた。
このため三元里並びに周辺郷村の民衆1万余が決起して水勇統領林福祥らの指揮の元「平英団」を名乗り、ヒュー・ゴフ少将が率いるイギリス軍を包囲して攻撃した。

このとき民衆が手にしていたのは大刀や長矛などの伝統的な武器であり、本来であれば銃砲を有するイギリス軍に敵うべくもない戦力ではあったが、民衆は地の利を得ていて巧みに遮蔽物に隠れながら戦うことができたこと、大雨によりイギリス軍の火砲が使用不能に陥ったことなどの条件に恵まれ、数で優位に立つ平英団は徐々にイギリス軍を包囲、殲滅の危機に陥れた。

このため英軍は清朝の広州知府であった余保純に停戦協定違反を抗議し、併せて戦後の報復を示唆して平英団を解散させ、包囲を解くように求めた。
このため清当局によって平英団は解散させられ、戦闘は終結した。
~~~~~~~~~~~

もっともらしく書かれていますが、大嘘です。
だいたいもし英国軍が包囲殲滅されるという事件が起こっていなら、このあと徹底的な報復戦が行われています。それが当時の戦争なのです。
実際に起こったのは、先に述べた通り、インド人兵1名が死亡しただけでしかない。
こうやって歴史をねつ造するのは、支那の伝統的お家芸だということです。

もうひとつ、書いておきます。
ではなぜ、それだけ圧倒的な武力を持っていた英国は、そのまま北京にまで攻め込み、一気に紫禁城を制圧して清国政府を壊滅させなかったのか、ということです。

答えは簡単です。
戦争とは、国家の目的遂行のための究極の手段であるからです。
当時の英国にとって、阿片戦争は、あくまで阿片貿易の継続のために行われたものにすぎません。
仮に紫禁城を制圧し、女真人による外来王朝である清朝政府を打ち倒し、漢民族による政権を支那に誕生させたら、どうなるのでしょう。

漢人たちは、英国が東亜諸国の植民地統治するために、あくまで少数民族の準支配階層として、汚れ役をやるための手足として使っている人たちです。
その手足に、広大な領地を持った自前の国家を与える。

植民地統治は、あくまで民族の分断統治が大原則です。
その分断のはずが、漢民族に国家を与えることは、統合を与えることになります。
いままで、英国人にとっての被支配階層であった東亜諸国の漢人たちに、広大な国家を与えたら何が起こるか。
下手をすれば英国が統治している東亜諸国の植民地で面倒な反乱が続発しないとも限りません。

そんなバカなことをするくらいなら、まだ女真人による外来王朝を支那に継続させておいた方が、英国にとって、まだメリットがあるというものです。

さて、こうして天保13(1842)年8月29日、清国と英国の両国は、南京条約を調印し、阿片戦争が終結しました。

南京条約で、清は多額の賠償金の支払いと香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを認めます。

そして英国の勝利に便乗した米国、フランスなどが、それぞれ清国政府との間で、望厦条約、黄埔条約を締結し、清国は国力をさらに低下させることになるのです。

以上が、阿片戦争のおおまかな顛末です。

かなり学校などで習った阿片戦争と、イメージが違うので驚かれた方も多いのではないかと思います。
けれど、時代背景をキチンとみれば、逆に私たちが教わって来たいわゆる「常識」が、実はとんでもなく支那万歳であったりする、インチキであったことがわかります。

戦後の日本は、ちゃんとした歴史観を失った国となってしまいました。
歴史を取り戻すこと。
それは日本が覚醒する第一歩なのではないかと思っています・・・。

当時の支那に、阿片窟など存在しません。
あったのは、民間医療施設で、治療を受ける者達が、阿片を吸引し、痛みを和らげていた、という姿です。

けれどもし、後世の人たちがいまの日本の喫煙所を見たら、きっとこれを阿片窟ならぬ、異様な「煙草窟」とでもみるのではないかと想像して、おもわず笑ってしまいました。

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「人間なんて、みんな似たり寄ったりさ。スペイン人がインディオたちにしたことを、日本人だって中国人にしてたんだ。だから日本人は恨まれて当たり前、1000年たっても許してもらえるはずもない。日本人に生まれてきたというだけで心の中に闇を抱え、生きていかなければならない…」
日本人の中の日本人、普通の善良な人々ほど、そう、思い込んでいる。
中国韓国から理不尽な要求をされても、受け入れなければならない。罪滅ぼしのために…、いつかは許してくれると信じて…。
「南京大虐殺」
「従軍慰安婦」
この忌まわしい濡れ衣を今晴らさなければ、未来永劫、何世紀にも渡って我々の子々孫々に祟るであろう。
恐るべきことに、すでにその兆候は表れている。。
日本中を震撼させた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1989年)
その数年前、「従軍慰安婦問題」、朝日新聞による捏造報道があった。単なる戦時売春婦としての実態からかけ離れた「性奴隷」の物語をマスコミはセンセーショナルに取り上げた。
「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などの反日プロパガンダが、少年たちの精神に異常な影響を与えたであろうことは否定できない。もし犯人の少年たちが生粋の日本人であるならば、自分たちも同様のことをしてみたいという欲望に駆られて、もしそうでないならば、日本人に対する復讐劇として、事件は起こった。
 
新聞というものはいつの時代も、国民を間違った方向に導こうとするものなのか? 「サラエボの悲劇」も、新聞報道が扇動し火をつけた。かつて、サッカー元日本代表監督のオシムは述懐している。
惨殺された、女子高校生の断末魔の叫びが聞こえるか? マスコミで働く人たちは、自分の子供や孫やその子供たちに恐ろしい厄災が降りかかる、そのことに考えが及ばないのか?
こんな腐ったマスコミこそ、日本の永久戦犯ではないのか!

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が、事実であるのか、そうではないのかと延々と論じる前に、そこには、最も大切な「教育」という観点がすっぽり抜け落ちている。
本来、無邪気で天使のようであるべき(中国の)子供たちは、反日教育という毒(憎しみ)を吹き込まれ、モンスターに育てられている。
これらの悪意によって、日本人がいかに不利益を被るか、危険にさらされているか、想像するだけで恐ろしい。海外で日本人が巻き込まれる悲劇的な事件、もしかしたら、その大半は…。

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日本人小学生の放った言葉に中国人家族が絶句、「われわれの愛国教育は間違っていた!」―中国メディア
Record China 1月13日(月)0時10分配信


2014年1月8日、中国のゆがんだ愛国主義教育が、純粋な子供の心をねじ曲げてしまったことを如実に示すエピソードを、中国人ユーザーが軍事関連ネット掲示板・米尓社区に投稿した。以下はその内容。

日本人男性と結婚した従姉が、夫と彼の親戚の男の子を連れて中国に里帰りした。男の子は俊夫という名の小学校1年生。見知らぬ国で言葉の通じない人々に囲まれて、とても緊張している様子だったが、一生懸命カタコトの中国語で私たちに挨拶し、深々とお辞儀をした。その姿がとても愛らしく、私たちはいっぺんで俊夫のことが大好きになった。

だが、その従姉の一番上の姉の子、小学3年生の鵬鵬(ポンポン)だけは違った。最初から敵意むき出しの顔で俊夫をにらみつけ、こぶしを振り上げると「打倒小日本(ちっぽけな日本をやっつけろ)!」と叫んだのだ。これには俊夫も周りの大人もビックリ。鵬鵬の父親が彼を叱ると、「だって、日本人は中国人の敵じゃないか!学校の先生もそう言ってたもん。パパたちは中国を愛してないんだ!」と言って泣き出した。そこで、「先生が言っているのは歴史だ。今は日本と仲良くしなきゃ。それに俊夫は私たちの大切なお客さんなんだから」と言い聞かせると、「じゃあ、パパやママはなぜ毎日、日本が中国の土地を奪ったから日本製品をボイコットするなんて言ってるんだよ?学校で見せられた教育アニメでも、日本帝国主義を打倒しろって言ってたよ!」と反論した。

幸いなことに、中国語の分からない俊夫に鵬鵬と父親の会話の中身を知られることはなかった。俊夫は本当にいい子で、自分でできることは自分で全部する。礼儀正しく、大人を敬い、食事の際は全員が箸をとり、従姉が日本語で「いただきます」と言ってから、自分の箸をとる。それに比べて、鵬鵬はどうだ。部屋は汚い。自分では何もしない。食事は当然のように自分が好きな料理を一人占めし、彼を溺愛する大人たちもわざわざ好物を取り分けてやる。

私たちは「鵬鵬が俊夫みたいだったらいいのに」と心から思ったものだ。そんな鵬鵬もだんだん俊夫に打ち解け、2人で遊ぶことも多くなった。お互いに日本語や中国を教え合っている姿を見て、「やっぱり、子供は子供同士だ」と安心した。

最後の晩、従姉とその夫は買い物に出かけていて、私たちはみんなでテレビを見ていた。そこへ鵬鵬が得意げな顔で俊夫を連れてきて「俊夫がみんなに言いたいことがあるって」と言った。俊夫は顔を赤くしながら恥ずかしそうにほほ笑んで、たどたどしい中国語でこう言った。

「僕は死んで当然の日本人です。僕は中国人に謝ります」

俊夫のこの言葉にその場の大人たちは全員凍りついた。鵬鵬の父親はすぐさま彼をトイレに引きずって行き、中から「パン!」と引っぱたく大きな音が聞こえた。真相はこうだ。鵬鵬は俊夫に「みんなが喜ぶ言葉がある」とだまして、あの言葉を覚えさせたのだ。

こんな小さな子供がここまで日本を憎むとは、あまりにもおかしい。鵬鵬の愛国観はすでにゆがんでしまっている。善良で純粋で友好的な日本の子供を前にして、中国の子供がどれほど恐ろしい敵意と憎しみを日本に抱いているかを私たちは思い知らされた。中国の愛国教育はもっと客観的で冷静であるべきではないのか。(翻訳・編集/本郷)

蘭太郎の瞳が曇るのを見たくはない。人間であることが嫌になるような、おぞましい出来事は知らせたくない。だが、日本の美しい夜明けを迎えるためには、この、暗く厳しい夜に耐えなければならない…。
「南京大虐殺」の嘘から、「通州事件」の真実まで、私たちは目を背けずに目撃しなければならない…。

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RAN 第2章

翌日の放課後のことだった。
「君は知っているか? 靖国神社には坂本竜馬も祀られていることを」
突然の門馬の問いに、そうなのか?という風に蘭太郎は目を見開いた。
「伊藤博文は、日韓併合に反対していた」
(何だって! 賛成だからこそ暗殺され、今も、安重根は日本に抵抗した英雄として、かの国では称えられているのではないのか?)
「国際連合には敵国条項といって、日独など敗戦国に対して、加盟国は安保理の許可なく独自の軍事行動ができることを容認している」
(旧敵国? 国際連合は何と言ったらいいか…平和の象徴ではないのか? 世界の良心ではないのか? 終戦後60年経た今も、要するに戦勝国連合ということか…!) 
「君は知っているか? ハワイの名歌「アロハ・オエ」の本当の意味を」
(本当の意味?)蘭太郎は「アロハ・オエ」の甘く切ないメロディーを思い浮かべた。
門馬の矢継ぎ早の質問に蘭太郎は混乱し、ため息をついた。自分は世の中のことを何て何も知らないんだろう。自分で自分が情けない・・・。
僕は少し急ぎすぎているのかもしれない、門馬はそう思った。
「蘭太郎君、ゆっくりでいいんだ。自分の頭で考え、感じてくれたまえ」
蘭太郎は黙って頷き、門馬から手渡された資料に目を落とした。


          国の滅亡とアロハ・オエ

18世紀末にハワイを発見したのは、有名なキャプテン・クックです。そのクックを先頭に、ハワイに来島した白人たちが持ち込んだのが、貿易商、キリスト教宣教師たちなのですが、彼らが持ち込んだのは実はそれだけではありません。
麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒までも持ち込んだのです。
これは、かつての太平洋の島々に共通していた事項なのですが、彼らにはもともと「土地所有」という概念がありません。
その代わり、たとえばバナナの木などは、誰の所有かが、かなり厳格に定められたりしています。そんなハワイの人々に、欧米から来た白人達は、ただ同然で土地を買い占めました。
なんと、国土の75%以上を所有してしまったのです。
ハワイの先住民たちは、追いつめられ、クックが来島した頃30万人だった人口が、1872年にはわずか5万7千人にまでに減少してしまいました。国民の8割の人口が失われてしまったのです。ちなみに欧米によって植民地化された国は、ほぼ例外なく人口が8〜9割減少しています…。
…ハワイ諸島を統一したのは、カメハメハ大王です。大王がハワイ諸島を統一したのは、19世紀、日本の明治のはじめ頃のことでした。大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一したのです。
武器購入資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行等によって、国力は徐々に衰退していってしまいました。
実は、カメハメハ大王の孫にあたるカラカウワ大王が、1881年に日本に来日しています。当時の日本は、有色人種で唯一の独立国でした。有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の大王、つまり要人が日本に来た、最初のできごとでした。
来日したカラカウワ大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れ、密かに赤坂離宮を訪れて明治天皇との会見を願い出ました。天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見に応じました。
大王は、明治天皇にハワイ王国の内憂外患の窮状を述べました。そして、5つの事柄について、日本の協力を要請しました。
1 日本人移民の実現
ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
2 やがて王位を継ぐことになる、姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。
3 日本・ハワイの合邦
(ハワイを日本にしたいと申し出たのです)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現。

しかし、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗できるだけの力はありません。やむなく明治天皇は、翌年カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しました。ただ、移民については実現し、1884年、日本・ハワイ移民協約が締結します。
明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。このときハワイでは盛大な歓迎式典が行われ、カラカウア大王自身もこれに列席しています。そして日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。

明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死し、後を継いで後継者に、大王の実妹のリリウオカラニが女王に即位しました。
明治26(1893)年1月15日のことです。リリウオカラニ女王は、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。宮殿前には、女王を支持するハワイの大勢の民衆が集まりました。
けれど、この憲法改正案には、ひとつ問題がありました。
この憲法が施行されると、市民権を持っていない白人たちは、選挙権が得られない、つまり参政権を否定されるのです。
米国公使のスティーブンスは、翌16日、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称して、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧します。そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿に合わせます。宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっているのです。スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行しました。
ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたのですが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意します。この瞬間、ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
危機感を持ったカラカウア大王が来日から僅か12年後のことでした。
しかしハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植しています。そこで急きょ、日本から派遣されたのが、巡洋艦「浪速」と「金剛」でした。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。けれど、完全な臨戦態勢です。ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンは沈没を免れないからです。
東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。ですからフラダンスの父と呼ばれています。
そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。

Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば 
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと

とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲「アロハ・オエの」美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。

このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。
そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。

古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。これは世界中がそのような歴史にいろどられています。
けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。
日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。

日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています」

蘭太郎は顔をあげ、門馬を見つめた。門馬の瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
「いわゆるA級戦犯のことばかり、まるで鬼の首でも取ったかのようにマスコミは取り上げるが…。靖国神社には、黒船来航以降、日本の為に命を捧げた人々が祀られている。歴史というものは、その当時の常識というものを知ることが、最も重要かつ困難なことであるというが、黒船来襲の恐ろしさを、現代に生きる自分たちにとって、果たしてどれほど感じとることができるだろうか」
「今でいうなら、UFOだろうか…。家康をはじめ徳川幕府のトップたちは、植民地にされること、奴隷にされることを心底恐怖していた。そのため鎖国をし、長崎にある出島から、世界の情勢を正確に掴んでいた。魔の手が迫ってくるのを、ひしひしと感じていたのではないだろうか・・・。以前、テレビで偶然見たのだが…。徳川将軍の霊廟が調査された時、驚くべき将軍たちの姿が報告された。将軍たちは死してなお、江戸の町を守るように埋葬されていた。何重にも重なったお棺の中に納められた将軍達は、正座をし、太刀を傍に置き、今でも江戸の町を見守り続けているようだったという」
「そうか。それは初めて知った…」
門馬は、美しく輝く蘭太郎の瞳を見つめた。
(かつてイギリスの植民地であったミャンマーでは、国民の求心力を失わせるため、イギリスによって王室が追放され、王女は妾とされた。日本のマスコミは何故か報じないが、イギリス人と結婚し、すっかりイギリス人になっているスーチー女史に対して、ミャンマーの国民は複雑な気持ちを抱いている。中国は先ほどの敵国条項を念頭に置き、尖閣諸島を日本が国有化したのは侵略行為であると会見している。…かつて中国でおきた通州事件のことを思うと、今でも心が悲鳴を上げる。日本に原爆を2回落としたアメリカは、日本の復讐に怯え、すなわち、水に流してしまう日本とは真逆の自分自身の影に怯え、今も日本に絶対核兵器を持たせないよう、知識人やマスコミを総動員して、日本人に贖罪感を植え付け続けている…。第二次世界大戦で、ベルリン陥落のおり、ソ連軍によってレイプされたドイツ人女性は13万人、うち1万人が自殺したという。世界は危険で何と腹黒いんだろう・・・。
いわゆる従軍慰安婦問題が度々取り上げられるが、彼女たちにとって、例えそれがどんなに意に染まぬことであったとしても職業であり、高給取りであったことは、全くと言っていいほど言及されない。諸外国のことを知れば知るほど、日本の素晴らしさが見えてくる。泥の中に咲く、一本の蓮の花のようだ。だが当の蓮の花は、自分の美しさを知らない。そしてマスコミや歴史教科書という魔法の鏡によって、自分たちはこの世で一番醜いかのように思い込まされている。
だがしかし、この心も体も清らかな蘭太郎に、世界は汚い、ほら、こんな酷いことをしている国ばかりだよと吹き込んで何になるのだろう。
門馬は一瞬、深い物思いに落ちた。

「…日本にA級戦犯はいないんだ」
「えっ?」
門馬は顔を上げると、分厚いファイルの中から、数枚の資料を蘭太郎に手渡した。

ひめのブログ
いまの幸せをまもりたい、それだけです
■A級戦犯は日本に存在しない。歴史も知らない議員やマスコミ。
2010-06-17 03:28:37

「A級戦犯合祀の問題から首相や閣僚の公式参拝には問題がある。
首相在任中に参拝するつもりはない」
15日、菅首相は参院本会議の代表質問で発言。
毎度まいどよく聞くセリフです。
この宣言さえすれば、日本にたくさんいる、左巻きお花畑に批判されないんですね。
「靖国参拝する」と言えば、ここぞとばかり反日マスコミが叩きます。
何が問題なのか・・ 具体的に聞いたことありますか?
外国要人・外交官・駐在武官・軍隊‥ 靖国参拝してること知らないのかね。
リトアニア共和国首相、在日米軍横田基地将校会‥各国指導者の参拝は、スリランカ・タイ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・スロベニア・ロシア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア・パラオ・ソロモン諸島‥

「問題がある」ですか? じゃあ抗議したのかよ?w
問題にしてるのは特アだけだろ。
それも、もともとは何とも、思ってなかったのに、朝日新聞がわざわざ中国へちくりに行くから、
「批判した方が得らしい」ってことになっただけ。
韓国も、それを真似してるだけw
あほらし。
まぁ菅首相は日本の歴史上、中国を一番たくさん訪問した人なので(数十回)
中国への忠誠はヒトイチバイかもしれませんが!
そしてそもそも、【A級戦犯】というものは日本にはない。
菅だけじゃないよ。
やたらA級戦犯って言う議員、マスコミ、自称評論家‥たくさんいる。
あのかたがたは、A級戦犯⇒戦争の原因を作った犯罪者 のつもりなようですが、ぜんぜん違いますから!
いかに日本史を勉強してないか、いかにあほかと宣言しているようなものですw

*昭和20年8月30日
日本に到着したマッカーサーの第一声
「東條を逮捕する。そして早急に戦争犯罪人のリストを作れ」
「戦犯第一号はパールハーバー攻撃の東條内閣の閣僚たちだ」
真珠湾攻撃は東條の仕組んだ先制攻撃だと言わんばかり。
(それも後でニュースで知った)
マッカーサーは自分がフィリピン方面軍司令官の時に日本軍に敗れ、
「アイ・シャル・リターン」と言って逃げた時の復讐のために、
当時司令官だった本間雅晴中将の名前も戦犯にした。
こんな感じで『A級戦犯』28名決定。

来日したソ連が「俺らにも選定させろ」と言いだし、 重光葵、梅津美治郎の2人をA級戦犯に追加。
ソ連は『日露戦争』の復讐で東京裁判に参加。 日本はソ連に戦争犯罪がなかったから、大東亜戦争以前の日ソの戦い、つまり日ソ間で解決ずみの張鼓峰事件(1938)やノモンハン事件(1939)を持ちだして、
「日本の侵略だ!」と主張
びっくりするぐらい適当に選ばれた『A級戦犯』が、
いまだに首相の答弁で、悪者扱いされてるってどんだけあほなの?

戦後、東京裁判が行なわれた。
ほんとなら日本人自身が国家指導者の責任を追及すべきなのに、
戦勝国が一方的に裁いて断罪した
その時勝手に選ばれた指導者達は、判決に従うことで、戦争責任を負った形となりました。
でもね。
独立回復後、日本は国会で、A級戦犯を含むすべての戦犯の死を 「法務死」として遺族への年金や恩給を支払うことにした。
遺族の救済や名誉の回復を行なうことを決めた。

*昭和27年4月
まだ服役しなければならない1224名の「戦犯」に対して国民の同情が集まった。

*昭和27年7月
日本じゅうで戦犯の早期釈放を求める署名運動。
約4000万人の国民署名が集まった。
当時の日本人口、約8581万人。単純計算で、国民の2人に1人が署名した。

*昭和28年8月
「戦犯釈放を求める国会決議」が決議された。
国会決議は【全員一致】
国家指導者の政治的責任や道義的責任という問題と慰霊とは別の問題です。

昭和53年、靖国神社にいわゆるA級戦犯が合祀された。
昭和60年に中国が批判するまで、問題だなんて誰も言わなかった。

日本人は、戦争中でも敵国兵士の墓を作った。
これは武士道の伝統。 敵国の兵士をも弔うんだから、自国の指導者に対しては死者に鞭打つことをしないのが日本人・・・。

そしてその合祀は厚生省が提出した名簿に基づくもの。
名簿は国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたもの。
つまり靖国神社がA級戦犯を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは
法律に基づき、行政の通知に従って実行したもの。
靖国神社が批判を受けるって意味わからない。知らんだけだろw
A級戦犯だった人の合祀を批判したいのなら、 厚生省のその名簿を作った奴を批判しろ。
戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、国会で、法律として決めてある。
別に靖国神社が勝手に合祀したわけじゃないし、遺族が決めたわけでもない。
(靖国合祀の関係法→戦没者遺族援護法・恩給法など)

*昭和28年8月
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」「恩給法」の改正
「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者としないことにした。
決定は【全員一致】
彼らの死を戦争による公務死としたことは主権独立国家として正当な決定。
「A級戦犯」も「B・C級」も関係なく公務死とした。これは日本人が決めたこと。
サンフランシスコ講和条約第11条第2項で、 東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになってた。

日本はこれをまじめに取り組み、
国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。
そして‥
*昭和31年3月
 「A級戦犯」全員赦免・釈放
*昭和33年5月
 「BC級戦犯」全員赦免・釈放
これを正式に勝ち取った!!
わかるよね。
日本に「戦争犯罪人」はいない! 「A級戦犯」もいない!!!
世界中がそれで納得してる。

*昭和50年11月21日
昭和天皇がいつも通り靖国神社を参拝。
突然、社会党が「問題だ」と言い出した。
それが原因で、天皇陛下は靖国参拝ができなくなった。

*昭和60年
突然、首相の公式参拝を中国が抗議してきた。
中曽根首相は参拝をやめた。
国民はそれほど騒がなかった。 マスコミが靖国参拝を騒ぐようになった。
(以下略)

依存症の独り言
2005/05/29
A級戦犯
森岡正宏厚生労働政務官は26日の自民党代議士会で、小泉首相の靖国神社参拝を「大変良いことだ」と支持する考えを示したうえで、「極東国際軍事裁判は、平和や人道に対する罪を勝手に占領軍が作った一方的な裁判だ。A級戦犯の遺族には年金をもらっていただいており、日本国内ではその人たち(A級戦犯)はもう罪人ではない」と述べた。(後略)
2005年5月26日(朝日新聞)

上記の発言が物議を醸している。
この発言を肯定する人もいれば、民主党の岡田代表のように「東京裁判を認めないとなれば、戦争責任を負わないことになる。更迭を求めるのは当然だが、その前に政府がきちんと対応すべきだ」と罷免を求める意見もある。

もちろん、中国は猛烈に反発している。
発言のタイミングはともかくとして、その是非を問うには、まず、そもそも極東国際軍事裁判とは何か、戦犯とは何か、から考えてみる必要がある。

極東国際軍事裁判は、ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、11カ国の連合国名によって(イ)「平和ニ対スル罪」、(ロ)「通例ノ戦争犯罪」、(ハ)「人道ニ対スル罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づいて行われた。英訳すると(イ)(ロ)(ハ)はa、b、cになる。
裁判所は、東京 市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂に設置された。

(中略)

極東国際軍事裁判には、その構成上及び制度上の問題と裁判そのものの正当性の
問題の両方がある。まず、構成上及び制度上の問題から述べてみよう。

①11人の判事中、中立国からは一人も選ばれなかった。
②仏・ソ2カ国の判事は、裁判の公用語である英語と日本語を理解できなかった。
③ソ連は中立条約を破って日本を一方的に攻撃した典型的な条例違反国なのに、罪を問われるどころか、この裁判で検事として、あるいは判事として、日本を訴追する権利まで与えられた。
④判事の中には、法曹経験の全くない者(中国の梅汝敖判事)もいた。
⑤民主主義にとっては当たり前の上告制度がなかった。
以上が構成上及び制度上の疑義である。
次に、最も重要な裁判そのものの正当性の問題について述べる。
①大東亜戦争は侵略戦争だったのか?
②戦争に対する共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪は、当時の国際法等に規定があったのか?
③そもそも、このような戦勝国が敗戦国を裁く裁判は何を根拠にして成り立つのか?
①に関して云うと、1941年12月8日に開始された太平洋戦争は侵略戦争ではなかったと断言できる。これは、帝国主義国家間による植民地争奪戦争だった。
米国はフィリピンを、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島を、フランスはインドシナを、オランダは東インド(現在のインドネシア)を植民地支配し、搾取と収奪をほしいままにしていた。
欧米列強は、本国は民主主義だったが、ほぼアジア全域で過酷な植民地支配を行っていたのだ。そこでは数々の弾圧と虐殺があった。フランスとオランダは、戦後も独立を宣言した旧植民地を再侵略している。

このような国々と日本は戦ったのである。これのどこが侵略なのか?
1937年に始まった日中戦争は、確かに侵略戦争だったかもしれない。しかし、それは今だから云えることである。当時は「侵略」の定義さえ定かではない時代だった。
また、欧米列強も租界を初めとする数々の特権を中国に対して持っていた。イギリスに至っては、歴史上最低の部類に属するアヘン戦争で香港を強奪していた。
注意してほしいのは、だからといって、日中戦争を肯定しているわけではないと云う事である。当時の欧米列強が正義で日本が悪だという構図は、勝者の論理に過ぎないと云いたいのだ。
②に関して云えば、事後(敗戦後)に裁判所条例により制定されたもので、当時の国際法等には何の規定もない。法治社会の鉄則である法の不遡及に反しており、罪刑法定主義からも逸脱している。
③に関して云えば、根拠などどこにもない。極東国際軍事裁判それ自体が、原則に
反する違法なものなのである。
これには、さすがに判事の間にも異論があった。11人の判事中、少数意見の判事が5人いた。

(中略)

インドのラダ・ビノード・パール判事に至っては、「連合国は法を引用したのでもなければ、適用したのでもない。単に戦勝国の権力を誇示したにすぎない。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であると慣習法にするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。国際法、照らして戦争は犯罪ではない。日本は無罪だ」と主張し、アメリカの原爆投下を非難した。

(中略)

※オランダのレーリング判事は、帰国後に著した「東京裁判とその後(ザ・トウキョウ・
トライアル・アンド・ビョンド)」の中で、次のように述懐している。
「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。
われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。
もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」と・・・

・・・A級戦犯とされた被告は東條英機以下27名。
精神異常による訴追免除及び病死を除く25名が起訴される。
絞首刑は、東條英機(軍人)、板垣征四郎(軍人)、木村兵太郎(軍人)、土肥原賢二(軍人)、松井石根(軍人)、武藤章(軍人)、廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)の計7名。昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、まもなく横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨は遺族に引き渡されることなく、米軍により砕かれて東京湾に捨てられてしまった。

この裁判は、昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)を選んで起訴され、 死刑執行は皇太子(現天皇)の誕生日である12月23日に執行された。
(中略)

A級戦犯として絞首刑に処された人々は、1978年10月から靖国神社に“昭和受難者”として合祀された。また、国内法では「刑死」ではなく「公務死」の扱いになって
おり、1953年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。それなりに名誉が回復されたわけである。

なお、B、C級戦犯として約5600人が、横浜以外に上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所で逮捕、投獄され、裁判の体をなしていない軍事裁判にかけられて約1000名が戦犯の名のもとに処刑された。

横浜以外で行われた裁判は、私刑であったといっても過言ではない。
以上からして、極東国際軍事裁判は、構成上及び制度上の疑義と裁判そのものの
正当性の疑義の両面から認めることはできない。
百歩譲って裁判を認めたとしても、近代法の理念に基づけば、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅する。従って処刑されたA級戦犯は、現在では犯罪者ではない。
戦犯の名誉回復は日本の主権に属する問題である。また日本の国内法上において、そもそも「戦犯」という用語を用いた規定は存在しない。
したがって、靖国神社にA級戦犯とされた人々が合祀されていても、国内はもちろん外国からもとやかく言われる所以は全くない。また、日本国総理大臣が参拝しても何の問題もない。

・・・最後に、米軍の無差別爆撃による日本の非戦闘員の被害は以下のとおりである。
東京大空襲の被害者は死者10万人(推定)
広島の原爆被害者は死者約14万人(誤差±1万人)
長崎の原爆被害者は死者7.5万人
その他の空襲による死者20万人
これに対して、ジョン・F・ケネディ政権で国防長官だったマクナマラは何と回顧しているか。
マクナマラは経営管理の理論を戦争に応用。攻撃効率を高めるため、統計を取り、分析する。だが彼の報告書を元に、日本に無差別絨毯爆撃が行われた。指揮官は後に広島・長崎に原爆を落としたカーティス・E・ルメイ少将。
「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
THE FOG OF WAR(マクナマラ元米国防長官の告白)


読み終わり、何度も読み返し、蘭太郎は終始無言だった。
そして振り絞るように、
「(A級戦犯の)遺体を家族に返さずに、東京湾に捨てたのか…!」
「文官としては唯一の、A級戦犯として処刑された広田弘毅の妻は、捕えられた夫が後顧の憂い無きよう、思い出の地で自ら命を絶った。二人は幼馴染だった…。戦後日本を占領したGHQは、靖国神社を破壊し、ドッグランにしようとしていた」
「ドッグラン!」蘭太郎は絶句した。アメリカの黒船来襲以来、日本のために命を捧げた人達を祀っている神社を、ドッグランに・・・! 「お前たちは、負け犬・・・いや、犬以下だということか・・・」
駅まで続く長い道を、二人は黙って歩いた。夕闇が迫り、時折冬を思わせるような冷たい風が吹き過ぎた。
蘭太郎は、神風特別攻撃隊が遺した言葉を思い出していた。
「アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。歴史に見るインディアンやハワイ民族のように、闘魂のある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう」
戦争は、終わってはいない、日本は、負け続けている。A級戦犯がと騒いでいるマスコミ、政治家、教科書に至るまで、敵の手の中に堕ちている・・・。蘭太郎は拳を握りしめた。きらきら光る瞳の中に、静かに燃える炎が宿った。

門馬は考えていた。米軍の無差別爆撃により、無残に殺された日本人、その数何と50数万人・・・。そうか、だからいわゆる南京大虐殺が必要だったのだ。戦時下の日本人は、その罪を我が身をもって償わなければならなかったとする為に。アメリカが無辜の民を50万人以上も焼き殺した大罪は、虚構の「南京大虐殺」に真っ黒に塗りつぶされ、歴史の闇の中に葬り去られるであろう。だが恐るべきことに、捏造された「南京大虐殺」は、世界の歴史となり常識となり、日本人による史上最も凶悪な悪魔の所業として、永遠に記憶され続ける。
我が国において、最大にして最強の権力を誇るマスコミは、「言論の自由」「報道しない自由」を振りかざし、時に「印象操作」を駆使し、「捏造」することさえ厭わず、日々、日本人を洗脳し続ける。
日本人であることを恥ずかしく思え。誇りなど、断じてもってはならない。平和憲法を守り、丸腰のままでいろ。常に卑屈であれ。
核兵器を持とうなどと、夢にも考えてはならない。原爆を投下された日本は、世界平和のため、永久に反省し続けなければならない。周辺諸国に何をされても「大人の対応をし」「粘り強く話し合いを続け」、されるがままでいろ。
何故なら、かつて日本人は恐ろしい罪を犯したのだから。世界中、特にアジア諸国に、史上他に類を見ないほどの苦痛と厄災をもたらしたのだから。だから赦しを乞い続けろ。戦争犯罪者を祀った靖国神社に総理大臣の参拝など、言語道断。日本人は悪魔のような民族であり、自分たちの体の中には凶悪で卑劣な犯罪者の血が脈々と流れていることを、決して忘れてはならない・・・。

思わず門馬は笑いだしそうになった。まるで、敵国の報道機関そのものではないか。同時に恐ろしさに身震いする。
あなた方の祖先は猿真似で中国から朝鮮半島を通してありとあらゆることを教えてもらった挙句、調子に乗って朝鮮半島を手に入れ女性は性奴隷にし、中国では民間人を残虐に殺しまくった、その子供たちです、と教科書やマスコミから朝から晩まで吹き込まれ続けて、まともな人間に育つだろうか。まともな人間を育てられるだろうか・・・?
誇りを失った、誇りを持てない、ご先祖様を敬えない、自分自身を大切にできない、さまよえる魂の矛先が、幼い供たちに惨く向けられている・・・そんな気がしてならない。戦争は確かに悲惨だが、親に虐待されながら殺されていく子供たちよりも、悲惨な境遇が、この世に存在するだろうか?
一生のうちで最も愛され祝福され、一番幸福な時間を過ごすはずの幼少期を地獄に変える。「児童虐待」は、自虐史観の最も忌まわしい「成果」なのではないか・・・。
だが、悪夢はもうすぐ終わる。いや、終わらせなければならない。
まさに、インターネットは救世主であったのだ。

もし、原爆の開発がもう少し早かったなら、日本によるアジア人の解放は成し遂げられなかったであろう。世界は、白人による有色人種の支配という構造が、恐らく永久に続いたであろう。
もし、インターネットが開発されなかったなら、日本人は未来永劫、自虐史観に囚われ、贖罪意識に苛まれ、日本人に生まれてきたことを心のどこかで呪いながら生きていったことだろう・・・。

いつの間にか、駅に着いていた。あちらこちらに明かりがともり、賑やかに人々が行き交う、路線バスがゆるやかに音を立てて走っていく、普通の日常の、ありふれた駅前の光景。それらをもたらしてくれたのが、「命よりも大切なもの」を知っていた先人たちであると、その人たちの孫や子供たちは、、それを知らない。知らされることなく、生きている。

「門馬君?」
蘭太郎の声に、門馬は我に返った。
「次は、倭寇の話を詳しく聞かせてくれないか? 日本人が海賊で暴れまわったというのは、本当のことなのか? 日本近海は昔、今とは真逆の状態だったということか。今は、中国北朝鮮の船から日本が被害をこうむっているが。日本史の教科書は日本人=悪と思いこませる、それが目的で作られているのではないか?」 だがもし日本人が本当に悪魔なら、悪に再び目覚めることを心底恐れ、あなた方は。本当は心優しい民族ですと、美しい言葉を散りばめた歴史教科書を敵は与えるのではないだろうか。 もしかしたら、日本人が善良な民族であると、誰よりも信じているのは・・・。
いつもの蘭太郎と、どこか違う、そう思いながら、門馬は記憶をたどり考えを巡らせた。・・・そう言えば、元寇との絡みで、倭寇はその復讐であると蘭太郎には簡単に説明してしまったが、肝心なことは、ひとつひとつ丁寧に伝えていかなければ・・・。
「元寇の時には言及しなかったが、倭寇は前期倭寇と後期倭寇に分けられ、後期倭寇のボスは中国人だ。その話の続きは、また・・・」
蘭太郎と別れ、駅のホームへと続く階段を上りながら、門馬は考えていた。思うに、どうしてこうも日本人は次から次へと濡れ衣を着せられ続けるのだろう…。その濡れ衣をひとつひとう晴らすため、長い年月と気の遠くなるような地道な検証が必要となるのだろう・・・。自分にはもう時間が無い。体がもうそろそろ限界に近づいている・・・。
「門馬!」
蘭太郎の声に門馬は振り返った。
「明日も会えるかな!」
門馬は頷いた。
「また、明日!」
そう言って、蘭太郎が大きく手を振るのが見えた。

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