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感謝

読んで下さって、ありがとうございます。もしかしたら、読者は私ひとりかもと思いながら、書いてます。

RAN  第7章

「葵、私決めたよ。歴史研究会を立ち上げる。小さな一歩だけど。始めようと思う。未来の子供たちのために」
葵は大きく頷いた。
「一番手強いのは、戦争を知らない世代。そしてネットの世界を知らない世代。。つまり、50代、60代のおじさんおばさんたちだけどね。テレビの言うことを、金科玉条のように信奉している世代」
葵は堰を切ったように話し始めた。
「麻生さんのいわゆるナチス発言をテレビのニュースで見たときには唖然とした。麻生さんの意図とは真逆の内容にして、いや、麻生さんの話した内容とは真逆の意図にして報道していた。あれが現国のテストだったら、上杉先生から0点以下、マイナスの点数をくらうのは確実だ。自分たちが馬鹿だから、視聴者はもっと馬鹿だと思っているのか。それ以来、ネットとテレビのニュース両方を見てる。間違い探しっていうか、こんな見えすいた嘘を平気でつくのかっていうか。…それと、戦争を美化。偏狭なナショナリズム。日本の右翼化。これ、あの人たちの常套句だよね。あと、差別、ナチスを加えてもいいかもしれない。これらの言葉を口にすれば、日本人なら誰でも黙ると思っている。伝家の宝刀だと思い込んでいる。実際、テレビで偏狭なナショナリズムって耳にしたときには、不謹慎だけど。感動した。うちのお父さん、テレビ大好きなんだ。ニュース番組好きだし。仕事終わって帰って少しお酒飲みながら、テレビ見て相槌打ったりしながら満足そうにしてる。言えないよ。それ、ほとんどヤラセと捏造だからって。その人たち、売国奴だからねって。父は嘆くと思う。どうして物事を素直に見られないんだ? 何でそんなひねくれた子に育ってしまったのかって。だから、父には言えない…。私、外国が、自分の国の国益のために日本にしかけてくるのは、嫌だけど仕方のないことだと思う。許せないのは、日本の中の反日勢力。左翼って諸悪の根源なのかな。良くわからないけど。悪の根源を辿っていくと、ルソーに辿り着くって誰かが言ってた。人間は平等であるって考え方に行き当たるらしい。ルソー自身とんでもない輩だったらしいけど。どの口でそんなこと言ってるんだって感じだよね。人間は平等じゃないんだよ。私のお母さんみたいに、私を産んですぐ死んじゃう人もいるし。門馬君みたいに、アトピーで苦しむ人もいる。蘭太郎のお母さん、綺麗な顔を隠すために、わざと一番似合わない伊達メガネをかけてるって知ってた? みんな同じじゃないんだよ。それだから、大変だし、そうだから面白い。何でそんな簡単で肝心なことがわからないんだろう。それと、すごく悲しいことだけど。ラスボスはひょっとしたらアメリカなのかなってこのごろ思う…」
「葵がそんな話するの、初めて聞いた」
「大切なことをネットで学んでいるのに。自分の中で完結してた。テレビを見て腹が立って悲しくて、一人の時「王様の耳はロバの耳!」って叫んでる」
葵の様子が目に浮かび、桜子は思わずくすっと笑った。
二人で顔を見合せて笑いあったのち、桜子は真顔になった。
「私が歴史を研究しようって思い立ったのは、もちろん、Sさんの証言がきっかけだけど。それだけじゃないんだ」
そう、桜子が切り出した。「最近、母と祖母と熱海の美術館に行ったでしょ。国宝の展示品が目当てだったんだけど」
「野々村仁清の壺。すごく良かったんでしょ。おばあちゃんが、これが見納めかもって、ずっと眺めていたという…」
「…うん」
「それで?」
「秀吉の黄金の茶室知ってるでしょ? それが美術館の中に忠実に復元してあって、でも、何だかほの暗くて、黒っぽくて、ほんとに黄金? 美術館だから、照明を暗くしてあるのかなって。係りの人の丁寧な説明を聞いて、まさに目から鱗だった。私、一体、今まで何を見てきたんだろうって。ある意味、衝撃だった。あれが、黄金の茶室の本当の姿だったんだ。秀吉だから金ぴかの成金。詫び寂の茶道にまでそんなもの持ち込むなんて悪趣味ここに極まれりって思って。頭から決めつけてた。目の前にあるのに、何にも見ていなかった…。一生懸命勉強しているつもりで、実は私何にも学んでいなかった。門馬君から借りた江戸時代の町の様子を書いてある話、想像とは、まるで違った。誇らしくて素敵で、心が躍った。もっと日本を知りたい。強く、そう思った」

門馬は旅行鞄に荷物を詰め終わると、パソコンに向かった。
「…そうだ。これも蘭太郎に送っておこう。彼らの死はいわゆる無駄死ではなかった。立派に戦果を上げていたのだ」

******************************

(ヤフー知恵袋より)
特攻隊の出撃は終戦直前の昭和20年8月13日まで続けられ、わずか百日にわたる特攻作戦(空のみ)で
海軍 2535人
陸軍 1844人
の戦死者を出したとのことです。また特攻により失われた飛行機の数は、参戦飛行機の数7852機の44%に該当する3461機(海軍2367機、陸軍1094機)でした。この参戦飛行機のうち、体当たりで散った機数は海軍983機、陸軍932機であり、そのうち132機が命中、122機が至近弾となりアメリカの艦船を撃沈しています。
さらに水上からの特攻で1344人(海軍1081人、陸軍263人)、水中から特攻で544人の尊い命が散っています。

なお特攻隊の戦果は
軍艦 32隻沈没
輸送艦 75隻沈没
損害を与えた艦船 223隻
死者 12260人
負傷者 33769人
とのことです。アメリカ側の史料では「日本の自殺機が連日連夜襲ってくるので、40日間将兵はまったく休む暇もなく、眠る暇もない」と、殆どノイローゼ状態だったといいます。





西村眞悟の時事通信 より。


やはり、八月十五日が近づいてきたのだ、と思う。
 暑くなるとともに、英霊のことを思う日が多くなっているからだ。特に、七月一日に沖縄の茂みのなかを歩いてから、この暑い日々に茂みに潜んで戦い続けた同胞のことがしきりに思われた。

 このような折、はっと気付かされたことがある。
 それは、日本人の死生観とほほ笑みのことである。

 蒙古襲来は、我が国最大の国難であった。
 蒙古は、文永十一年(西暦一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に襲来した。
 我が国はこの蒙古を撃退したのであるが、よく言われるように、神風によって撃退したのではなく、鎌倉武士の壮絶なる決死の戦いによって撃退したのである。
 特に、文永十一年、日本人として初めて三万の蒙古軍と相まみえた対馬の地頭、宗助国以下八十四騎の戦いは敵に強烈な印象を与えた。
 私は、対馬を訪れれば、よく蒙古がはじめに上陸してきた対馬西岸の古茂田浜に行く。そして、ここで奮戦して五体ばらばらになった宗助国の首塚と胴塚に参る。
 しかし、彼らが如何なる形相で奮戦したのか、いままで脳裏に浮かばなかった。それを数日前に頂いた本で教えられた。
 日本兵法研究会会長で元陸上自衛隊の戦術教官であった家村和幸中佐の近著である「兵法の天才 楠木正成を読む」(並木書房)は、宗助国等の奮戦の様子を次のように伝えてくれた。

「対馬で元軍を迎え撃った宗助国を頭とする八十四人の一族郎党は皆、顔に笑みを浮かべて群がり寄せる元軍の中に斬り込み、鬼神のように奮戦し、壮絶な最期を遂げた。
 このように大義に死す時、人生意気に感じた男たちは笑って死地に向かっていくものなのである。
 大軍を前に死ぬことがわかっていても、戦いを挑んでくる鎌倉武士達に元軍の大将キントも、『私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵と出会ったことはない』と驚き、絶賛に近い評価を下した。」

 これを読んだとき、対馬の古茂田浜の景色が瞼に浮かぶとともに、浜に群がる蒙古軍に向かって宗助国等八十四騎は、笑みを浮かべて突撃していったのかと感慨深いものがあった。
 そして、同じような笑みを浮かべている人達が昭和にもいたことを思ったのだ。それは、特攻隊員達の笑顔だった。
 多くの特攻隊の若者達は笑顔を写真に残している。
 
 私のホームページの表紙に載せている昭和二十年四月二十二日に台湾の桃園飛行場から沖縄方面の敵艦隊に特攻出撃していった十人の十八歳と十九歳の少年飛行兵と四人の学徒兵の合計十四名の若者も(陸軍特攻誠第百十九飛行隊)、出撃一時間半前に素晴らしい笑顔を写真に留めている。
 彼らは異口同音に「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたという。

 また、同じ沖縄方面に戦艦大和を率いて特攻出撃した第二艦隊司令長官伊藤整一海軍中将は、沈みゆく戦艦大和から総員退避を命じた後、「長官、死んではいけません」という副官に、
「私は残る、君たちが行くのは私の命令だ。お前たちは若いんだ。生き残って次の決戦にそなえよ」と決然と言い放って戦艦大和と運命を共にしてゆくが、
 生き残った士官の吉田満氏は、そのとき司令官室に向かう伊藤長官が微笑んだように思えたと書いている(吉田満著「戦艦大和の最後」)。

 これら、蒙古襲来から大東亜戦争まで、七百年の時空を越えて共通する死地に赴くときのほほ笑みは、何に由来するのだろうか。

 それは、「悠久の大義」に生きる者達のほほ笑みである。
 そして、日本人の「身は死しても魂は死なない」と思う死生観に由来している。

 蒙古との弘安の役から五十年後に湊川で自ら死地に赴いて死んだ楠木正成は、七度生まれて国に報いると七生報国を誓って死んでいった。
 彼は、本気で自分は七回生まれてくると信じていた。
 それから五百年以上の後、短い人生の中で湊川の楠木正成の墓に三度参って泣いた吉田松陰も、本気で魂は残ると信じていた。吉田松陰の、
 身はたとひ 武藏の野辺に 朽ぬとも 留め置まし 大和魂
という辞世の句は、本気でそう信じていたから詠んだのだ。

 楠木正成も吉田松陰も、二十世紀に生をうけていたら、
昭和二十年四月二十二日の十四名の少年飛行兵のように、
「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」
と語って満面の笑顔を写真に残したであろう。

 日本人は、「悠久の大義」に生きる、
 即ち、魂は死なないと思ったとき、
 ほほ笑みをたたえて死地に赴く民族である。
 二年前の東日本大震災の際にも、人々を救うために、そのような人々の、日本人の血に根ざした、知られざる咄嗟の行動が、あまたあったのだと思う。

 さて、
 このように思いを巡らしたとき、しみじみと、日本人にとって靖国神社が如何に大切な神社かが分かるのだ。
(以下略)

******************************

新しく発見された、吉田松陰の辞世の句を知るまで門馬は、若くして刑死し松陰は、どんなにか無念だったろう、憤怒の形相で死んでいったに違いないと想像していたのだった。
「此程(このほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)はけふ(きょう)きく古曽(こそ)嬉(うれ)しかりける」
「嬉しかりける…!」
吉田松陰もまた、微笑んで逝ったのだ…。

パソコンの電源がなかなか切れない。眠れない夜、絶望も喜びもすべて知っている自分の相棒…。まさか、パソコンが別れを惜しんでくれているのか。ふと、門馬は二度とここには戻って来れないような気がした。壁の傷、大きな時計。小学校の頃からある色のさめたカーテン。母親の鈴子が、毎日のように干してくれている折り畳み式のベッドの上の布団。見慣れた、当たり前の光景。ここには戻れない?そんなはずはない、どうしてそんな気がしたんだろう…。門馬は立ち上がると荷物を持ち静かにドアを閉めた。

「大丈夫か、蘭太郎」
門馬が心配そうにこちらを見ている。
「日本史の時間にたっぷり睡眠をとったから、体の方はすっかり回復した」
「さぞ盛大に寝てたんだろうな。さすがに小早川先生が気の毒になる」
「ははは…。それで、これからどうするか、だ。ようするに、政治家もマスコミも乗っ取られているんだろう」
「そうだな」
門馬は頷いた。
「こんな時、信長だったらどうするか。家康だったら? 秀吉だったら?
そうだ、門馬君に今から宿題を出す。朝から、Sさんの証言で俺を泣かせた罰だ。おかげで、生まれて初めて遅刻したぞ。…鳴かぬなら殺してしまえ、ほととぎす的な答えではダメだ。あ、いや、織田信長だったら、売国奴と認定した途端、さっさと始末してしまいそうだな。ここはやはり、鳴くまで待とうの家康がいいのかもしれんな。いや、そんな悠長なことは言っていられない。ことは急を要する。黒田官兵衛、竹中半兵衛を軍師にもつ、鳴かぬなら鳴かしてみしょうの豊臣秀吉に託すか。いや、あらゆる事情を鑑みて、抜群の安定感を誇る徳川家康による、鳴くまで待てないほととぎす作戦といこう」
「ははは…」
門馬が、楽しそうに笑った。
「そうだ。桜子と葵は、「楡の木会~歴史研究会~」なるものを立ち上げて、活動し始めたぞ。といっても、人数が集まりすぎて、まるで全校集会のようになっている」
「そうか」
「第一回目は何と」
「何と?」
「東条英機の遺言だった」
「直球勝負だな」
「真っ向勝負だ。女の子だけの特別授業もあった。~未来の子供たちのために、私たちの子供たちのために~ 従軍慰安婦を含め、戦中における女性問題に関する考察らしい。その場で、英語の柴田先生による爆弾発言もあったらしいぞ」
「あの、どうやら五大陸を制覇しているらしいという噂の熟女か」
「私の経験からいって、日本の男は可愛いというか優しくて、非常にあっさりしている。むしろ物足りないくらいだ。そんな日本人男性が女性を性奴隷にするなんて考えられないし想像すらできない。あなたたちも、そう思うでしょ?とのコメントだったらしい。思わず深く頷いてしまったのは、大人びた印象の細川先輩と守月葵。葵は、蘭太郎君を見てたら分かると言ったらしい。俺は特別に参加してほしいと言われていたが、丁重に断った。行かなくて正解だった…。

「ちょっと葵、それどういうこと?」
「何で蘭太郎君の名前、ここで出すの?」
「そういう関係だって、言いたいわけ?」
「私、まだ高校生だから…。靴下だって、ちゃんと朝からおろすし。お箸だってそう」
「はあ? 何訳分かんないこと言ってんのよ!」
「私は、まだ半人前だから…。それに、この人の子供なら産んでもいいと思う人としか、そういうことはしないよ。子供を産んで育てるのは、大変なんだよ。命がけなんだ。みんな、そんなこと、考えたことないでしょ。お母さんも、おばあちゃんも当たり前にいて、うっとうしいな、なんて思ってて、そんな幸せなことないのに。私のお母さん、私を産んですぐ死んじゃったの、知ってるでしょ? お父さんは再婚もせず、おばあちゃんの助けを借りながら私を育ててくれた。
ずっと、友だちの若くてきれいなお母さんが、羨ましかった。小学校5年生の時だった。授業参観があるけど、もうこないでって、私、言ったんだ。おばあちゃん、そのすぐあと、病気で倒れて入院して、死んでしまった…! 私のせいだ。私があんなこと言ったから! おばあちゃんは、この日が来るのが分かっていた、って言ってた。この日を待っていたと。もう、葵は大丈夫だと。寂しいけど待ってたって…。大変だったけど楽しかったって、亡くなる前に私の頭を撫でながら言ってくれた。私さえ、生まれてこなければ、お父さんもお母さんも、おばあちゃんも、みんな幸せでいられたのに…!」
葵は号泣し、みんな涙、涙で第一回の特別授業は終わりを告げた。窓の外で、こっそり様子をうかがっていた男子生徒も、思わずもらい泣きしたらしい…・

何だか自分はすごく良くしゃべっていると、蘭太郎は不思議な気がした。
「ところで、そっちはどうなんだ?」
蘭太郎は自分の声に目を覚ました。
「夢か…」
楽しかった。教わりたいこと、語り合いたいことが山のようにあるのだ。門馬が突然姿を消してから、一週間がたつ。
「蘭太郎君も、パソコンとか、そうだ。スマホ持ったらいいんじゃないかな。。電話したり、メールしたり、ネットもできるし。写真も撮れる。すごく便利よ」
桜子は門馬のメルアドを知ってて、いろいろ教えてくれた。
草津で時間湯という、一日に何回か、48℃のお湯に3分間入るという、命がけの治療を試していること、取りあえずすぐ帰るつもりだったが、学校を休学して専念することに決めたこと。共同のアパートを借りて、自炊していること。
蘭太郎は壁のカレンダーを眺めた。
「今日は土曜日か…」

「坊ちゃま、どちらい行かれるんです?」
日舞か剣道か、16才の誕生日までに選べと迫られているせいか、このところ、遅刻したり不安定だから気をつけておくように、弟子たちに奥様からお達しが出ている。
「ちょっと、お風呂に行ってくる」
「さようでございますか」
近所に新しくできた、スーパー銭湯に行かれるのかしら? こんな朝早く、やってるのかしら。24時間営業とか?
それにしては、荷物が多いような…
「春子さん、ちょっと…」
蘭太郎が出かけて行ったと思ったら、入れ替わりに蘭太郎の祖父、井上大悟が現れた。
「おはよう」
「お早うございます。ご隠居様」
「見てみなされ」といって、大悟はうれしそうに掛け軸を広げた。
「ご先祖様にちがいない」
「これは、蘭太郎坊ちゃまです。間違いありません。お生まれになった時からずっと存じ上げている、この私が申すのですから、間違いはありません」「ほら、この頬のよこにある、ほくろ」「耳の形もおなじです」
「安土桃山時代のものらしいぞ」
「いえ、蘭太郎坊ちゃまは、奥さま似ですから、それはないのではございませんか?」
吉川春子は、そう言って、にっこりと笑った。

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RAN  第6章

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なでしこアクションより
教科書に「東海」併記バージニア州議会可決 現地在住日本人のお母さまたちからの報告
January 28, 2014Uncategorized

「東海」併記を州議会が可決したバージニア在住の日本人のお母さまたちからご意見と現地の様子を報告いただきましたのでご紹介します。

<参考ニュース>
「東海」併記、米州議会上院で可決 「我々は韓国人の側に立つ」

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東海併記 信用のある日本の立場を大きく揺るがす

日本人の血を引く子供たちは概して気を使う子供が多く、非攻撃的で大人しいため、一般的に口答えもせず、目立とうとしたり中心的存在になることもない。特亜の血を引く子供たちは逆に、中心的存在に近い白人に近寄り、傷つけるようなことを平気で言ったり貶めたり、Bribe(買収)しようとする。
公立学校での教科書において東海併記となると、歴史的に信用のある日本の立場を大きく揺るがすことになり、「日本海も違うんだからXXも違うはず」という、これまで特亜がどうにも崩せてこなかった信用を崩す最初のきっかけを与えてしまう。それによって今後、雪崩式に日本への信頼、正統性が信用されなくなり、ひいては日本人の血を引く子供たちへのあからさまないじめ、日本の企業への信用が削り去られていくことになる。

再び、門馬はキーを打ち始めた。
「呼び方くらい、いいじゃないか? それで相手の気が済むなら。
安易に考えていた、自分の不明を恥じる。日本列島がなかったら、そこは(日本海は)太平洋だろうと2ちゃんで誰かが喝破していた。
勝負に勝とうと思ったら、同じ土俵に立たなければ絶対に勝てない。
我々ひとりひとりが知識と論理で武装し、戦士にならなければならない。
愛しき祖国、日本を守るために」
窓の外の空は、すでに白み始めていた。

「明日も会えるかな」
そう言ってくれた蘭太郎の姿が心に浮かび、門馬は自分が微笑んでいることに気づいた。蘭太郎の美しさは誰でも知っている。だが、心根の美しさ優しさを知っているのは自分だけだ。
蘭太郎が、自分はパソコンにはさわらない。母のお弟子さんが管理している、と話していたことを思い出し、メールにファイルを添付し、送信をクリックした。これで多分、そのお弟子さんが今日中には、ファイルの存在に気づくだろう。
今日学校で会ったら、蘭太郎の家のパソコンに送ってあることを伝えよう。「通州事件の惨劇 Sさんの証言」に関しては、かなり辛い内容であることを伝え、読む読まないは蘭太郎に任せるとしよう。
これで大丈夫だ。自分が突然姿を消したあとも…。


ベッドに倒れこみ、門馬が束の間の眠りをむさぼっている頃、蘭太郎の家では、そのお弟子さんの手により、カタカタとプリントアウトされていた。

蘭太郎は「虹の公園」のブランコに座り、ゆっくりと漕ぎ出した。
ブランコがギイギイと音を立てて揺れた。誰かが忘れていった、玩具が砂に埋もれている。不思議な、見たこともないような玩具だ。飛行機だろうか…。蘭太郎は立ち上がると、それを手に取った。さあっと風がおこり、蘭太郎の長い黒髪が砂と風に包まれた。あの時と同じだ。門馬にショウニスケトキの話を聞いた時と同じだ…。ここではない、どこかにいる感覚。血の混ざった、風の匂いがする。重苦しい空気に押しつぶされそうになりながら、蘭太郎は辺りを見回した。ここは、ここはあの日の通州なのか…?
「…蘭!」
懐かしい声がする。自分のことを蘭と呼ぶのは、母ともうひとりだけ…。

駅から蘭太郎のあとを歩いていた田辺桜子は、蘭太郎の様子がいつもと違うことに気がついた。どうしたのだろう。蘭太郎の乗る電車はもっと遅く、いつも女の子たちに囲まれ、賑やかに登校する。もっとも蘭太郎自身は微笑んだり、相槌を打ったりするだけなのだが。蘭太郎ファンの男の子も多く、そして蘭太郎のファンの女の子目当ての男の子たちも群がっているものだから、自分たちで相談して曜日ごとに分けるとかして登校するようにと、学校から指導がでているくらいで。何があったのかしら? しばらくその後ろ姿を眺めていた桜子は、一人で歩いている蘭太郎の後を追った。蘭太郎は路地を曲がり、砂場とブランコのある、小さな公園に入っていった。こんなところに公園があったんだ、そう思いながら、桜子はブランコに座っている蘭太郎の姿を遠くから眺めていた。不意に、この公園に蘭太郎は泣きにきたのだと思った。蘭太郎が砂場にあった子供の玩具を拾上げた刹那、突然の砂嵐にその姿がかき消されそうになった。辺りは夕闇のように暗く、木々がざわざわと大きく揺れ、桜子はこのまま蘭太郎が遠くにいってしまうような不安に襲われた。あの時と同じように。行かないで、蘭。また明日ね。明日も遊ぼうね。蘭…。
「蘭!」桜子は思わず叫んだ。

あれは、私が幼稚園に入る前のことだった。家の近くの公園の砂場で、蘭と初めて出会った。何て可愛い子だろう。桜子はひと目で気に入り、一緒に遊んだ。ある日、自分の玩具をとられても黙ってにこにこと笑っている蘭を、庇おうとする桜子を突き飛ばそうとしたガキ大将を、蘭は一瞬で倒した。そのあと見たこともないような綺麗な女の人が慌てて走ってきて、ガキ大将に怪我がないのを確かめると、蘭太郎の手を引いて急いで帰って行った。
それきり、蘭太郎はその公園に二度と姿を現さなかった。
蘭が、あの井上蘭太郎だと分かったのは、桜子が小学校二年生の時だった。友達と町を歩いていたとき、蘭の母を見かけ、あの人の子供が井上蘭太郎よと、その子が教えてくれたのだ。剣道の達人で鬼の井上と恐れられている父と、絶世の美女、黎明町の奇跡と呼ばれている母との間に生まれた蘭太郎は、小学生のころにはすでに超有名人だったのだ。

何事もなかったかのように、穏やかに小鳥のさえずりが戻ってきた。
振り向いた蘭太郎は、桜子の後姿を見た。
その時、自分を案ずる女の子の声が、桜子の声にぴったりと重なりあった。
(君だったのか…?)
通州で無残に殺されていった子供たちの姿が、幼き日の自分たちの姿に重なった。(日本人に生まれてきたというだけで、罪だというのか!)
蘭太郎は崩れ落ちるように慟哭した。
 
「蘭太郎が泣いていた…?」
「門馬君なら、何か知っているんじゃないかと思って」
(このごろ、このごろすごく仲がいいみたいだし)その言葉を桜子はギリギリで呑み込んだ。
全校のアイドル的存在にして、生徒会副会長の田辺桜子。容姿端麗にして成績優秀。おまけにスポーツ万能。わが黎明高校の良心とさえ呼ばれている。実際、彼女に認められたくて、不良、といっても可愛い不良だが、何人も更生させているらしい。その桜子に突然放課後呼び出され、門馬は戸惑った。おまけに、必ず一人で来るようにと。不良といえば、確かに自分は体調は不良だが。こうして学校に来るそうそう早退しようとしているくらいだ。そういえば珍しく、蘭太郎の姿を今日見ていない。遅刻なのか、休みなのか…。
「それでね、ブリキのおもちゃも消えてしまったの」
もうちょっと論理的な話をする子だと思っていたが。何のことだ。
「おそらく」
「おそらく?」
「砂場に埋もれているんじゃないか」
そういえば、桜子の無二の親友の守月葵もどこか突拍子もない感じだ。
この前は、ねえ、門馬君「みみずくの恩返し」って知ってる?と、嬉しそうに言いに来た。
「遠くからだったから、断言はできないけど。蘭太郎君は、砂場に落ちていた子供の玩具を拾い上げた。それが不思議なことに、ブリキの飛行機みたいだった。私、昔おじいちゃんちで見たことがあるの。そう、確かあれはブリキの宙返り飛行機。戦前に大ヒットした」
「戦前の玩具…」
「それから突然嵐のような風が吹いて。蘭太郎君の姿が見えなくなり、気が付いたら、その玩具は跡形もなく消えていたの」
「それは一体、どこで?」
「駅の近くの、小さな公園…」
(「虹の公園」か…)
「不思議ね。あんな公園、あったのかしら」
門馬は自分のバッグの中の分厚いファイルを眺めた。
多分、これ(通州事件の惨劇 Sさんの証言)だ。だが、どうして。
桜子は、そのファイルを覗き込み。素早く手にとると踵をかえして歩き出した。
「あ、いや、それは」読まない方が良いんじゃないかな。
桜子はくるりと振り返った。
「誤解があるといけないから、言っておくけど。みんな(蘭太郎の美しさに目が眩んで)知らないだろうけど。蘭は自分のために涙を流すような男じゃないから。誰よりも強くて優しくて」
私ったら、むきになって、何言ってるんだろう。
蘭太郎に友達ができるのはいいことだ。門馬君なら頭脳明晰で、人柄といい申し分ない。ただ、肌に問題があるらしく、どんな暑いときでも、長袖を着ている。このごろ特に、非常に辛そうなときがある…。
「心配しないで。これ、ちゃんと返すから」
門馬君のことは、桜子にとっても、かなり気になる存在なのだ。特に授業中、先生を間に彼と質問バトルを繰り広げる時の楽しさったら無い。
歩きながら、何だか私ぷんぷんしている。桜子はそう思った。


田辺さん、大丈夫かな…。
桜子の後姿を心配そうに見送ったのち、門馬は、桜子が持っていったのは「Sさんの証言」とあと何だろうとファイルをチエックしながら考えていた。
「鶏泥棒の話」か…?

蘭太郎と桜子は幼馴染だという噂もあるのだが。本人たちはそんな素振りは微塵も感じさせず、単なるクラスメイトとして付き合っている。
同じ日、時間差はあるにせよ、二人が目を赤くはらしていたのは偶然ではないと、瞬く間に学校中に噂が広まった。
「あの二人、何かあったのかしら。喧嘩でもしたのかしら」
「えっ、何言ってんの? 逆よ逆」
「ということは、つまり…」
「そういうこと」
「そういうことって…」
「何言ってんの、あんたたち…!」
「そうよ。蘭太郎君は、このごろ門馬君と仲がいいでしょう」
「えっ? そっち?」
「私たちの蘭太郎君は、さらなる高みを目指して、ついに」
「ついに…?」
「学問に目覚めたのよ」
全員、深く同意し、安どのため息を洩らしたのだった。
「じゃあ、何で蘭太郎君の目が赤かったの?」
「だから徹夜で勉強したのよ」
「睡眠不足は、お肌の大敵なのに…」
「許せないわ。日本史の小早川先生…!」
「そういえば、鉄の女ともいわれる桜子は、何で泣いてたんだろう」
「えーと、(何だか何にも解決していないような)」
「うーん」
ちょうどその時、近くを守月葵が通りかかった。
その場にいた、全員の目がきらりと光った。
「あ、葵なら絶対に何か知ってるわ」
「おーい」
「やめなさいよ。呼ぶと逃げていくわよ。ほら、後ずさりしてる」
「あの子、見かけによらず、カンが鋭いんだから」
「ふふふ、私に任せなさい」
「あおちゃーん、『ミミズクの恩返し』って知ってる?」
「知ってるー、知ってるー」葵が満面の笑顔で駆けてきた。

カラパイア 不思議と謎の大冒険
怪我したミミズクを保護したら、恩返しにネズミやヘビを狩ってきて家族に振舞うようになった。



「猫さん猫さん、フレッシュですよ」

「さあ、どうぞ、お好きでしょ」
 南アフリカからのほのぼのニュース。怪我をして飛べなくなっていたミミズクを保護し、怪我の治療を続けていたら元気が戻り飛べるようになった。これは良かったと喜んでいたら、早速狩りにでかけ、ネズミやヘビを狩ってきては、家族である猫や他の鳥のみならず、飼い主に持ってきて「ほれ食え、やれ食え」と差し出すようになったという。気持ちはありがたいのだが、狩りたてフレッシュとは言え、食べ物の好みもあるわけで、困ったりうれしかったりもする一家だったのだそうだ。
 …ちなみにこのミミズクはワシミミズクで、4年前に保護し2ヶ月間怪我の治療を行い、その後旅立って言ったのだが、それ以降現在まで、ほぼ毎日のようにこのように家を訪ね、お食事を振舞っていくという。まさにミミズクの恩返し物語。

うわ、とか、キャーとか言いながら、それぞれが、それぞれのスマホを片手にサイトの中を探検しだした。
「これもすごいね。すさまじく危険な植物の話」
「世の中には、私たちの知らないこと、いっぱいあるんだね…」
「これは?」


 島根県にある松江フォーゲルパークのペンギン、さくらちゃんがどうやら飼育員のおにいさんに恋をしているようだという。おにいさんが走ればさくらちゃんも後を追って走る。止まれば止まると四六時中ピタっとはりついて離れないのだそうだ。
 そのほほえましい様子は海外ブログでも多く報道されていた。
 どこまでもおにいさんの後を追って走るさくらちゃん
 しっとりとなついてくれるさくらちゃんにおにいさんもうれしそう
と思いきや、実はそのペンギンちゃんが恋していたのは、その飼育員さんの白い長靴だった!」
「な、長靴?」
「…青いヘリコプターに、命がけの恋をしている白鳥もいる」
「切ないね」
「切ないよね」
「恋って何だろう…」
「どうしたの? 葵」
その時一同は、笑っていると思っていた葵が、涙を流していることに気がついた。
「…みんな楽しそうで、幸せだなあって思って」
葵はメガネを外すと、涙をきっぱりと拭った。
「私、桜子が何で泣いてたか知ってるよ。多分、蘭太郎君も同じ理由だ」
葵は制服のポケットの中から、自分のスマホを取り出した。
「答えは、この中にある」
「覚悟があるのなら、『通州事件 Sさんの証言』で検索してみて」
そう言って、葵はその場を離れた。
一同はいっせいに顔を見合わせ、スマホを開いた。
楡の木の木漏れ日を浴びながら、私たちは、Sさんの問わず語りを聞いている
風が頬を撫で過ぎていく、穏やかな昼下がり…
こんなこと、知らなかったよ。何にも知らないまま、こうやって暢気に暮らしていた。だんだん胸が締め付けられ息が苦しくなっていく…。
そうだ。何だかすっかり忘れていたけど、この話は蘭太郎君も桜子も打ちのめしたのだ。うなだれ、すすり泣き、それでも歯を食いしばり いつの間にか人の輪が大きくなって行った。一体、何事があったのか、と…。

葵は桜子との待ち合わせ場所へ急ぎながら、心の中で桜子に語りかけていた。ずっと、蘭太郎君のこと好きだったんでしょう? だから、この高校を選んだ。桜子だったら、もっと学力の高い高校にいけたのに。彼にふさわしい人間になろうと。ずっと自分を律して生きてきた。私もあの日、あの公園にいたんだよ。
「お砂場事件」お弟子さんたちの間では、ひそかにそう呼ばれている。私の叔母さんが、住込みのお弟子さんなの…。
あの日を境に何もかも変わった。奥様は蘭太郎は男の子だし、剣の道に進んでもいいと思っていた。奥様は恐れたのだ。凄まじい殺気を放った、まるで、まるで鬼神のような幼い我が子を。
いつか、その恐るべき力がこの子を不幸にするのではないかと、心底恐れた。勿論、夫に相談するわけにはいかなかった。相談すれば、鬼の井上は喜んでますます蘭太郎を鍛え上げるに決まっているから。だから、蘭太郎を女の子のように育てた。それ以来、夫婦仲は悪くなり、今に至っている…。

葵を待つ間、きのう門馬から無理矢理借りた、もう一つのプリントを桜子は眺めていた。そういえば、門馬君、大丈夫かな。今日も休んでる…。
ぼやきくっくり
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)

250年前の朝鮮人が羨み恨んだ豊かな日本…金仁謙「日東壮遊歌」より
2013.05.06 Monday

 先日、ひょんなことから、金仁謙の「日東壮遊歌」という本があることを知りました。
 金仁謙は第十一次朝鮮通信使で、1764年に来日しました。
 「日東壮遊歌」は金仁謙の日本滞在中の記録です。
当時の知識階級男性の著作としては珍しくすべてハングル文で書かれ、律文詩(歌辞(カサ)と呼ばれる文学様式)の形をとっているそうです。
 この本を入手できないかとネットで古書店も含めて検索しましたが、現在は入手困難のようです。
 そこで今日はとりあえず、ネットなどで紹介されていた「日東壮遊歌」の記述から、一部をまとめて引用したいと思います。
 

 「日東壮遊歌」を実際に読まれた方の書評など拝見しますと、最初は反日的記述が目立つものの、だんだんと物の見方が変わってきて、日本の繁栄ぶりを褒めたり、あるいは羨ましく感じたりと、そういう記述が増えてきているそうです。

 1月20日 大阪
  人家が塀や軒をつらね
  その賑わいの程は
我が国の鍾路(註:ソウルの繁華街)の万倍も上である

 1月22日 大阪
  我が国の都城の内は 
  東から西にいたるまで一里といわれているが
  実際には一里に及ばない
  富貴な宰相らでも
  百間をもつ邸を建てることは御法度
  屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに
  大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て
  中でも富豪の輩は 銅をもって屋根を葺き
  黄金をもって家を飾りたてている
  その奢侈は異常なほどだ
  (中略)
  天下広しといえこのような眺め
  またいずこの地で見られようか
  北京を見たという訳官が 一行に加わっているが
  かの中原(註:中国の中心地)の壮麗さも
  この地には及ばないという
  この良き世界も 海の向こうより渡ってきた
  穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が
  周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間 
  世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて 
  人民も次第に増え このように富み栄えているが 
  知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべし

 「中国の周の時代に日本に渡ってきた(!?)穢れた愚かな血を持つ獣のような人間」と、日本人に対し大変な蔑視感情を抱きつつも、その日本人が「2000年間ひとつの姓(天皇)を存続させている」ことがよほど悔しかったようです。

 1月28日 京都
  沃野千里をなしているが 惜しんであまりあることは
  この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり
  帝だ皇だと称し 子々孫々に伝えられていることである
  この犬にも等しい輩を みな悉く掃討し
  四百里六十州を朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳を持って
  礼節の国にしたいものだ

 ここでも「犬にも等しい輩」と日本人を大いに侮蔑しながらも、日本の豊かさや安定、それに天皇の存在を羨んでますね。
 ちなみに、金城湯池(きんじょうとうち)の「金城」とは防備の堅固な城壁、「湯池」とは熱湯の沸きたぎる濠。
 他から侵略されない極めて堅固な備えをたとえたものです。

 その後、金仁謙一行は名古屋にやって来ます。
 名古屋でもやはり「街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い」「朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べるととても寂しい」といった記述が見受けられます。
 他に、日本人の容姿についても記されています。

 2月3日 名古屋
  人々の容姿のすぐれていることも 沿路随一である
  わけても女人が 皆とびぬけて美しい
  明星のような瞳 朱砂の唇 白玉の歯 蛾の眉
  芽花の手 蝉の額 氷を刻んだようであり
  雪でしつらえたようでもある
  人の血肉をもって
  あのように美しくなるものだろうか
  趙飛燕や楊太真が
  万古より美女とのほまれ高いが
  この地で見れば 色を失うのは必定
  越女が天下一というが
  それもまこととは思えぬほどである
  これに我が国の衣服を着せ
  七宝で飾り立てれば 神仙鬼神もさながらと
  恍惚感いかばかりだろう
 趙飛燕は前漢成帝の皇后(?~紀元前1年)、楊太真は日本でもおなじみの楊貴妃(719年~756年)です。

 その後、金仁謙一行はついに江戸に入ります。
 実は、第十一次朝鮮通信使の目的は、徳川家治(在職1760年~1786年)の将軍襲職祝いでした。

 ところが、金仁謙は「犬にも等しい倭人に拝礼するのが苦痛である」と将軍との謁見を拒み、一人宿舎に残ったそうです。
 その一方で、金仁謙は、大阪や京都よりもさらに繁栄した江戸の街の様子に驚嘆し、こう述べています。

 2月16日 品川→江戸
  楼閣屋敷の贅沢な造り
  人の賑わい男女の華やかさ
  城壁の整然たる様 橋や船にいたるまで
  大阪城 京都より三倍は勝って見える
  左右にひしめく見物人の数の多さにも目を見張る
  拙い我が筆先では とても書き表せない

 話は大阪に戻りますが、淀川での記録の中に、さらに興味深いくだりがあります。

  河の中に水車を設け 河の水を汲み上げ
  その水を溝へ流し込み
  城内に引き入れている その仕組みの巧妙さ
  見習って造りたいくらいだ

 水車の機構の見事さに、いたく感服したようです。

【「ぐうたらたぬき途中下車」様より「淀川瀬水車旧跡」碑。すでに12世紀末の史料に「淀の川瀬の水車」という記述があるそうです】

 他に、金仁謙一行は、対馬で食べたサツマイモの美味しさに感激し、種芋を乞うてサツマイモを朝鮮半島に持ち帰っています。
 これにより、サツマイモが朝鮮半島へ初めて伝わりました。
 サツマイモ伝来は、後に朝鮮の飢饉を救うこととなります。
 ちなみに、同時代に日本を訪れた他のヨーロッパ人も、日本の豊かさや文化の発展ぶりを記録を残しています。
 たとえば、金仁謙より約10年後の1775年に来日したC・P・ツュンベリーの『江戸参府随行記』には、このような記述があります。

 「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない」
 「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない」
 「日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう」
 「この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの鋼や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである」
 「日本には外国人が有するその他の物――食物やら衣服やら便利さゆえに必要な他のすべての物――はあり余るほどにあるということは、既に述べたことから十分にお分かりいただけよう。そして他のほとんどの国々において、しばしば多かれ少なかれ、その年の凶作や深刻な飢饉が嘆かれている時でも、人口の多いのにもかかわらず、日本で同じようなことがあったという話はほとんど聞かない」

 ところで、朝鮮通信使の中には、残念ながら素行の悪い者も少なくありませんでした。
 金仁謙の一つ前、第十次朝鮮通信使の曹蘭谷の『奉使日本時聞見録』には、名古屋人が通信使のために、布団や蚊帳などを揃えようとしたところ、対馬の通訳が「朝鮮人はよく盗んでいくので知り置くように」と止めたことが記載されています(1748年6月24日)。

 通信使一行が、文化の違いや日本人に対する侮りから引き起こした乱暴狼藉は、概ね次のようなものだったようです。

・屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする。
・酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す。
・席や屏風を割る。
・馬を走らせて死に至らしめる。
・供された食事に難癖をつける。
・夜具や食器を盗む。
・日本人下女を孕ませる。
・魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求する。
・予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかける。

 特に、警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年には対馬藩の通訳が、通信使の一人・崔天崇を刺殺するという事件まで起こっています。
 崔天崇が朝鮮人の窃盗行為を棚に上げて「日本人は盗みが上手い」と言ったのが、事件の発端だったとのことです。

 また、江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748年~1827年)は、「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いています。

RAN  第5章

Kazumoto Iguchi's blog
2013年 10月 13日
「清王朝崩壊」から「日本軍南京入城」までの歴史!これが真実!

南京大虐殺に対する日本と中国の認識には一定の溝が存在するようだ。中国側は2―3カ月という期間に30万人の中国人が日本軍によって虐殺されたと主張している。このブログは中国人ブロガーが南京大虐殺が行われていた期間中、中国の軍隊は何処で何をしていたのかという質問に対しての考えを綴ったものである。
以下はそのブログより。

2013年10月13日11:00
アメリカ人「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」中国人「資料に載ってないから分からない
【中国ブログ】南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?

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米国人の友人と食事をした際、一つの質問を受けた。
「中国人はずっと、日本人は南京大虐殺で中国人を大量に殺害したと言っている。この大虐殺は2―3カ月もの間続いたと言っているが、その間中国の軍人はどこにいたのか?2カ月も続いていたとすれば、どこにいても駆けつけることができたはずだ。日本軍人はわずかに5000人だったそうだが、中国軍はなぜ南京の市民を守らなかったのか?」
以上が、米国人の友人から受けた質問だ。私はこの質問を聞いて唖然としてしまった。私はこれまでこのような問題について考えたことが無かったし、私の周りの人間も考えたことが無かっただろう。
米国人の友人は私に「当時、共産党や国民党は一体何をしていたのか?」と尋ねてきたが、外国人たちは、これについて、「彼らは旨いものを食っていたに違いない」と言っていた。私はこれに対して、それはあまりにも誇張された考え方だと反論したが、確かに良い質問だと感じ、帰って調べ、後でメールすると答えた。

資料を調べて分かったのは、当時南京に侵攻した日本軍は5000人ではなく6万人であったことと、南京にいたのは多くの売国奴であったということだった。友人からの質問は私を大いに混乱させることとなった。また、私はGoogleで検索したのだが、何の資料も見つけることができなかった。当時、中国軍が何処で何をしていたのか、一切の記述が無いのである。私は友人に対してどのように答えれば良いのだろうか?(編集担当:畠山栄)

いかに現在のアメリカ人と中国人が馬鹿かよく分かる。
簡単に言えば、いわゆる「南京大虐殺」に至るまでには、20年ほどの重大な歴史的流れがあった。それは、次のようなものである。
明治44(1912)年、清王朝の崩壊

明治44(1912)年1月1日に、南京で孫文(そんぶん)が中華民国臨時政府を樹立

大正5(1916)年、袁世凱(えんせいがい)が、中華帝国を名乗り、初代皇帝に即位

大正6(1917)年、ロシア革命

大正9(1920)年、「尼港事件(にこうじけん)」

昭和3(1928)年5月3日、「済南事件(せいなんじけん)」

昭和12(1937)年7月29日、「通州事件(つうしゅうじけん)」

昭和12(1937)年12月17日、日本軍の「南京入城」

ところが、いつしか「南京大虐殺」を元朝日新聞記者の本多勝一と社会党の田辺が言い出す。そして、それに乗じて、まだインターネットも写真技術もそんなに発展していなかった頃だから、昔の尼港事件や済南事件や通州事件の写真や映像をミックスして「南京大虐殺」を捏造した。
どうやらこれが真実の歴史である。

(あ)「尼港事件」
まず最初に「尼港事件」があった。これはこんな事件であったらしい。
…そうした中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」です。
「尼港事件」というのは、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、支那人約四千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)にいた石田領事以下約七百名余の日本人居留民を虐殺したという事件です。
その様相は、まるで映画バイオハザードでゾンビの大軍に取り囲まれた少数の人間の戦いそのものです。衆寡敵せず、日本人居留民は極めて残虐な方法で全員殺害されています。

済南事件より
(い)「済南事件」
その次に昭和3(1928)年5月3日に「済南事件」が起こった。これは、山東省の済南の場所で南軍の総司令官であった「蒋介石」の軍が引き起こした虐殺事件であった。これは、こういう事件であった。
このとき南軍の総司令が蒋介石です。
蒋介石は、「治安は国民党軍が確実に確保するので、日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本に要請してきました。
目の前で戦いが行われているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、軍事的にはあり得ません。
けれど、現場は、中央の指示によってこれを受入れ、5月2日に、バリケードを撤去したのです。
そして事件は起こりました。
ことのおこりは、蒋介石の国民党軍の暴兵が、満州日報取次販売店を襲撃して掠奪を働いたことにはじまりました。
ここで注意したいのは、昨今の支那の反日デモのような「暴徒」ではなく、当時済南であったのは、武器を持った兵であったということです。
武器がなくても、あれだけ暴れ回るのが支那人です。
それが武器を手にしていたら、どうなるか。
暴兵たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
すると支那兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきたのです。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで、一斉に国民党兵による乱射や掠奪、暴行がはじまったのです。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
現に、そのすこし前の日に、国民党の総統であり、最高司令官である蒋介石みずからが日本軍の司令の前で、「済南の治安は国民党が守る、日本人は一切を国民党に任せて、バリケードも解いてよろしい、安全は自分が保証する」と約束しているのです。
ところが白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、支那兵は銃撃を加え、一方的に射殺しました。
市内全域は、たちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されたのです。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。
この事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が、凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けました。

当時の外務省公電にある公式文書です。
=======
腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
======
現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
======
予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
======

ちなみに(上に掲載されている)女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件の支那人被害者として流用し、展示しています。

この紹介石こそ、第二次世界大戦中に結局台湾に逃げていって初代台湾総統に収まった人物である。簡単にいえば、島流し。悪党の追放である。

(う)「通州事件」
日本は何度も何度も残虐な虐殺によって民間婦女子が被害を受けていたのに、弱腰外交で相手の口車に乗ったばかりにさらにまた大虐殺事件を受けたのである。それが「通州事件」であった。
「通州事件」は、1937年7月29日に起こった。中国の北京の西の通州という場所で、日本軍が手薄になった時を見計らって、中国保安隊と学生による前代未聞の民間婦女子の大殺害事件が起こったのである。それを「通州事件」と呼んでいる。
が、しかし、これはほとんど日本でも韓国でも中国でもアメリカでも世界中の普通の歴史書には載っていないらしい…。

ねずさんのひとりごと(通州事件から学ぶべきこと 12月13日は南京陥落の日)より

7月29日は、日本人のみならず、人類史として決して忘れてはならない「通州事件(つうしゅうじけん)」が起こった日です。
事件が発生したのは、昭和12(1937)年7月29日のことです。
ねずブロでこの事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことですが、当時この事件について知る人は、限られたごく一部の人たちだけでしたし、事件そのものについても、名前を聞いた事があるくらで、それがいかなる非道行為であったかについてまで知る人は、ほとんど稀という情況でした。

通州事件の証言:
現地にいたフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズの証言

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私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
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いまは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、もっと多くの人に、日本の常識、世界の常識として知っていただかなくてはならない、まだまだ拡散し続けなければならない事件であると思っています。
(以上「ねずさんのひとりごと」より)

(え)「南京入城」。
蒋介石や暴徒化した中国人の暴挙によって南京が非常に不安定な状況になったために、ついに日本軍が制圧に向かった。そして、南京に平穏を敷いたのが日本軍の「南京入城」であった。
この日本の南京入城によってカオス化してしまっていた南京に治安が戻り、平和が訪れた。結果として衛生状態もよくなって人口も増大した。これが真実の歴史である。
なんかどこかで聞いたような話ではないだろうか?
そう、韓半島の韓国併合の歴史とまったく同じなのである。日本が併合した結果、人口が倍増、治安増大、経済発展。しかし、日本の敗戦と同時に歴史が捏造され、すべてを逆にした。
(以下略)


徳島の保守
2010-07-30
通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。
通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。
かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。
通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。
通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。

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Sさんの体験談

私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。

(中略)

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。
(中略)
そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。耳を覆ってみても聞こえるのです。又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。この女の人は何もしゃべれないのです。恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。これで事態が一変しました。若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。するとどうでしょう。この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。日本の男の人はぐったりなって横たわりました。それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。私はあんな残酷な光景は見たことはありません。これはもう人間の行為ではありません。悪魔の行為です。悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。私はTさんにすがりついたままです。何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。フラフラと立ち上がりました。そして一生懸命逃げようとしたのです。見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。妊婦はバッタリ倒れたのです。すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。私は何をするのだろうかと思いました。そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。赤い血がパーッと飛び散りました。私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。私の心は通じておりません。そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。これは一体どういうことでしょう。私には全然わかりません。只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。そして見たくはなかったけど池を見ました。真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

ねずさんのひとりごとより
…ちなみに文中に出て来るSさんの夫、支那人のTさんは、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさんは、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。
因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。
日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさんの心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。
そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。


門馬は窓を開けると、暗い空を見上げた。
その日、通州の空は青かったのだろうか。雲は白く、陽の光は、明るく地上を照らしていたのだろうか…。
門馬はパソコンに向かうと、キーを打ち始めた。
「知ること、知らしめることは、果たして亡くなられた方たちの供養になるのだろうか。こんな事件は二度と起こることはないと、記憶から消し、水に流すことが果たして善いことなのだろうか」
「こんな目にあうのは、自分たちだけで沢山だ。だから、忘れずに覚えていて…」
先人たちは、そう囁いている…。
掌に穴を開ける…。元寇の時と同じではないか。
700年前、壱岐、対馬の島民が皆殺しにされた元寇も、このような地獄絵図が繰り広げられていたのか…。九州から遥か離れた津軽地方の子守歌に、モッコ(蒙古)の恐怖が今も語り継がれているという。
中国大陸において被害にあった日本人の遺体写真を「南京大虐殺」の証拠写真として流用する。そしてそれに嬉々として加担する日本の中の知識人たち。
ああ、怒りを通り越して、頭が変になりそうだ。
もしも。
この「Sさんの体験談」が、作り話だろうと言う人がいるとすれば、その人は嘘をつくが常識の民族なのだろう。かつて「毒餃子事件」の折、警察の科学調査による報告に対して、鼻であしらったコメンテーターは、証拠なんてものは捏造するのが当たり前の国に住んでいるのだろう。世論調査で、数字は当てにならないというニュースキャスターは、世論調査、ひいては報道において、何らかの操作をするのが常識、ヤラセなんて日常茶飯事の世界に住んでいるのだろう。
かつて「オウム真理教」は地元住人との話し合いの際、相手側から出された「お茶」に決して手をつけなかったという。彼らにとって、その中に「毒」を入れるなんてことは常識、当たり前のことだったのだろう。
「日韓併合」にしても、過酷な植民地政策をとっていた国ならば、日本は朝鮮半島の人々に相当酷いことをしたに違いない、それが当たり前のことだと考えるだろう。李氏朝鮮による、苛烈な支配を500年に渡って受け続けた人々は、支配されるとはそういうこと、しかもそれが他民族によってならば、どんなに辛い毎日であったかと想像しその中で悶え苦しむのだ。
中韓は過去に生きている。ネットで見かけた、その言葉の意味が今は良くわかる。

そして、もう一つの呪いの言葉「従軍慰安婦(性奴隷)」!
世界中に嘘をばらまかれ、永遠に性犯罪者の烙印を押される。従軍慰安婦であると名乗り出ている方たちが生きている間に、真相を究明しなければ。このままでは、歴史的事実として世界中から認定されてしまう。
戦争という極限状態はそこまで人を変えるのかと、日本人は考え苦しむ。
「南京大虐殺」「従軍慰安婦」。世界中から永久に非難されることをしでかしたご先祖様たちを恨みながら理解しようと苦しみながら、こうべを垂れて生きている。日本人は嘘をつくのを最も嫌う民族だから、まさか、それが捏造であるとは考えが及ばない。人を騙さないから、マスコミや政治家にまんまと騙されているとは、想像が及ばない。真実から目を背け、その問題に蓋をし、「さわらぬ神に祟りなし」とばかりに。それは濡れ衣だ!と声を上げる心ある有志を、社会的に葬り去ろうとさえする…」
門馬は次のサイトを開いた。
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